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2017/11/12 08:25
爆サイ.com 北海道版

神道・仏教





NO.5667047

名僧 列伝。
人は生まれて死ぬ。

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#12017/07/21 14:11
小田原から少し北に入ったところに
大雄山最乗寺という名刹がある。

了庵慧明(1337〜1411)が開いた山である。

この禅師の妹、華綾慧春(かりょうえしゅん)
という尼僧がいた。

室町の時代に生きた一人の尼僧である。

慧春尼は相模の糟谷氏の生まれた。

絶世の美人であったらしく
多くの縁談が舞い込んだが
皆、断っている。

三十歳を過ぎてから、
ある機縁で後生の一大事を知らされ
兄了庵の許に行き、
共に仏道修行に加わりたいことを頼んだ。

了庵は、恵春の発菩提心を有難く思いながらも、
余りにも美貌なので、
男僧の修行の妨害になることを
おそれて出家を許せなかった。

「出家は男のすることであって、
 女子供には出家は難しいことで
、途中で止めるようなことになるだろう。
 もし簡単に出家を許したなら、
 法門を汚してしまう者が多いであろう。」
と言った。

慧春は必死に懇願したが、
一人の妹の為に多くの人々を
地獄に墮すことは忍びないと思って、
どうしても許さなかった。

何かを決意した慧春は、
韋駄天の如く山をかけ降りた。

顔の美しいのが障りというのなら醜くなれば許して貰えよう。
どんなに大切にしていても
五十年乃至百年の肉体だ。

その肉体の為に未来永劫の大事を
失ってはならないと覚悟した慧春は、
真っ赤な焼火箸を縦横に
我身で、わが顔にあてたのである。

見るも無残に焼きたゞれた
化物のような形相で、
再び山にかけ登り

「これでもお許し下さいませんか」

と了庵の前にひれ伏した。
さすがの了庵も、鉄石のような妹の求道心

に感じて漸く出家を許したという。

[匿名さん]

#22017/07/21 14:12
慧春尼の修行は峻烈を極めた。

慧春尼は容貌や服装などに
少しも気にかけていないのだが、
その美しさはやはり男心を
動かしたのであろう。

ある僧がその思いを
手紙に書いてよこし、
男女の情を通わせたいと
求めてきたのである。

慧春尼はこの僧に告げて言った。

「おやすいこと。
 思えば、あなたと私は
 僧であるから、
 交わるのに普通の場所では
 やめましょう。
 私に思うところがあります。
 その後に及んで難しいからと 言って拒むようなことは
 できませんよ。
 約束を破れば、私のところに
 来ることはできないだけのことです」

すると僧は言った。

「あなたが私の願いを
 お聞き下さるなら、
 たとえ煮える湯や火と
 いえども拒みません。
 ましてそれほどでなければ
 当然でしょう。」

ある日、了菴禅師が上堂なさった。
本堂に一山の雲水たちが集まってきた。

そこに慧春尼が一糸まとわぬ
赤裸な姿で現れたのである。

大衆の中に入って、
その僧を声高に呼んで言った。「あなたと約束がありましたね。
 すぐに私に付いてきて
 あなたの欲の思うがままにしなさい」と。

その僧は驚いて走り去った。
そして密かに山を抜け出して
消息をくらましたのだった。

慧春尼の世俗の情を
断ち切っている境界は、
他のことにも
このようなものであった。

[匿名さん]

#32017/07/21 14:14
ある日のこと了庵慧明は、
円覚寺に用事があり、
弟子に使いを頼もうとした。

しかし、円覚寺には使いの者を
やりこめる、多くの強者の雲水がおり、
慧明の弟子たちも皆恐れをなしていた。

たとえ師匠の命とはいえ、
尻込みしてしまっていた。

そんな様子をみて慧春尼は、
「私が参りましょう」
と名乗り出たのである。

機鋒鋭いと噂されている慧春尼が、
使いでやって来るという知らせが
円覚寺に届いた。

慧春尼の禅の矛先が一筋縄ではいかないことを耳にしていたので、
円覚寺の雲水たちは、
慧春尼をやりこめようと
手ぐすね引いて待っていた。

慧春尼が円覚寺の階段を
上がってくると、
一人の僧が突然に
その前にはだかった。

そして衣の前を高くかかげて、
自分の一物を見せ、
「老僧の一物は三尺なり」と言った。

すると慧春尼もすかさず
衣の裾をまくって見せ、

「尼が物は底無しなり」

と応答したのである。

この僧は途端にシュンとなってしまった。

円覚寺の雲水一同、
恐れ入りました、
と頭をさげたことであろう。

門前でのやりとりを
無事に通過した慧春尼が
方丈の間に通された。

まだ懲りない雲水たちは、
次の手段を実行した。

円覚寺の住持が侍者に
「お茶をお持ちしなさい」
と言って、持ってこさせたのは
洗い桶に入れたお茶であった。

それを慧春尼に差し出した。

慧春尼は住持に言った。

[匿名さん]

#42017/07/21 14:28
「これは和尚様が日頃お使いの
 お茶碗のようでございます。
 和尚様どうぞお飲み下さり、
 飲み方をお教え下さいませ。」

住持は、やられたと思っ

慧春尼がなぜこれほどの気持ちで
仏道修行に取り組んだのか。

最乗寺三世、明宗禅師との話が
物語っている。

ある日、明宗の説法を
慧春尼も聴きに来ていた。
そして、聴衆が帰った後、
明宗禅師に密かに言った。
「貴僧は知恵もすぐれ、 教えに明るい。
 しかし、残念ながら自らの安心が
 できていない」。

そこまで言われて明宗禅師は
ギョッとしたことであろう。更に
「方向違いの修行をしています。

 慧明禅師のもとで学びなさい」
と示唆している。

仏教の目的は我が身の
後生の一大事の解決以外には
あってはならない。
ただ、学問をして、
厳しい修行をすれば
いいというものではないのだ。

あくまで後生の一大事を知り、
後生の一大事の解決という
目的を決して忘れてはならない。

その後生の一大事を解決が
今なおできなかった慧春尼は

「自分は火によって仏道に 入ったのだから、
 火によって死のう」

と最後、火定の修行を決意した。

火定とは仏道の信仰者が自らの身を
火に投じて涅槃に入ることである。

慧春尼は老年になって、
最乗寺三門前の石の上に
薪を積んで、柴棚を組み、
その上で自ら火を放って
火焔の中で坐禅を組んだ。

辺り一面煙が立ちこめるに及んで、
兄の了庵慧明も駆けつけ、
「尼よ熱かろう、尼よ熱かろう」
と言った。

慧春尼は燃えさかる炎の中から

「冷熱は未熟な僧侶なんぞには 分かるまい」

と逆らって言った。

そして炎の中に消えて逝ったのである。

慧春尼の火定は1402年5月25日
といわれている。

[匿名さん]

#52017/07/21 16:50
法然上人は長承二年(1133年)に
美作国(今の岡山県)稲岡庄の武士、
漆間時国(うるまときくに)の子として生まれられた。

幼名は勢至丸と名づけられたが、
それは阿弥陀仏の脇士の二菩薩、
観音菩薩(慈悲の象徴)
勢至菩薩(智慧の象徴)
のうちの勢至菩薩から
名づけられたものであった。

勢至丸はその名のごとく、
幼少の

ころより極めて賢い子供で
あったと伝えられていた。

勢至丸9才の時、その生涯を
決する大事件が起こった。
このころ、時国の所領にほど近い所に、
源定明(みなもとのさだあき)
という武者があった。
ふとしたことから時国に大層の恨みを抱き、
ある夜半、大勢の手下とともに、
時国の館を襲ったのだ。

不意の出来事に時国は一人、奮戦したが、
何といっても多勢に無勢、
たちまち斬り伏せられてしまった。
騒ぎに目を覚ました勢至丸が
時国の寝所に行ってみると、
既に賊どもの姿はなく、
体の各所に致命傷を受けた時国が
虫の息で横たわっていたのである。「おとうさん、さぞかし無念でございましょう。
武士が互いに一騎討ちをして
武芸つたなく敗れたのであればともかく、
 寝首をかきに来るとは何たる卑怯な賊どもでしょう。
 しかし、お父さん、
敵は勢至丸が成長した暁には
 必ず取ってご覧に入れます。」
勢至丸はけなげに、臨終の父に敵討ちを誓った。

聞いた時国、
「勢至丸よ、敵討ちの志は嬉しいが、
 それは父の望むところではない。
 私の死は、私自身の前世の業縁によるのだ。
 もし、そなたの敵討ちが成就したとしても、
 敵の子は次に、そなたを敵と狙って、
 幾世代にもわたり、争いは絶えないであろう。
 愚かなことだ。

[匿名さん]

#62017/07/21 16:52
 もし、父のことを思ってくれるのなら、
 出家して日本一の僧侶となり、
 父の菩提を弔ってくれ。
 これがそなたへの最後の望みだ」
と言いつつ息絶えた。

時国の遺言は勢至丸の心の中に深く刻み込まれた。

勢至丸はそれに従い、出家を決意する。

勢至丸が最初に師と仰いだのは、
近隣の菩提寺の住職であった。

住職は幼い勢至丸の並外れた聡明さに舌をまいた。
一を聞いて十を知り、十を聞いて百を知る。
さらに、聞いたことは二度と忘れなかった。

やがて住職は、これほどに智恵勝れた勢至丸を
このような片田舎で埋もれさせるのは
いかにも惜しいと、比叡山行きを勧めた。

当時は、天台宗比叡山と真言宗高野山が、
二大聖地として仏教界に君臨していた。
天下の俊秀がこれらの山に結集していたのである。

勧めに従って
勢至丸は、比叡入山を決意した。その時、菩提寺の住職は、
叡山の僧侶あてに送り状をしたため、
文中、「ここに文殊の像一体を進呈する」と
書いている。

比叡山の僧は、送り状を見て、どこに文殊の像があるか、
と一時思ったが、やがて文殊の像とは勢至丸自身の
ことであることと悟った。

これだけでも住職が、如何に勢至丸の
天才を認めていたかが分かる。

勢至丸は初め源光上人に師事。
15歳の時に同じく比叡山の皇円の下で得度。
比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と改め、
以来ひらすら日本一の僧を目指して
切磋琢磨の年月を重ねた。

[匿名さん]

#72017/07/21 16:54
やがて水を得た魚のごとく、
学問はいよいよ深まり、
単に天台宗のみならず、八家九宗といわれた
諸宗の教義にもことごとく精通した。
しかし、師の叡空すら法然上人が真の知識と
仰ぐには至らなかった。

比叡山には叡空以上の学者はいなかった。

ある時、叡空が『観無量寿経』の講義の際、
「光明・照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と
念仏が説かれたが

、この念仏が叡空は観念の念仏と
教えているのを聞かれて法然上人は
称名念仏ではないのですかと尋ねられた。

法然上人の言われることが正しく、
叡空は自分の誤りに気付き、反論することが
できなくなった。
「これは観念の念仏でいいのだ」
「しかし、それではお釈迦様の教えの真意を
 曲げることになるのでは」
「まだ言うか」

叡空は誤りを認め改めるどころか、
逆にその場にあった茶碗を投げつけ、
法然上人を破門している。

比叡の山にもう法然上人を指導できる知識は
おらなくなり、一人での勉学、修行が始まった。

法然上人が四十歳を迎えたころ、
比叡山には肩を並べる者がない学識を
備えるに至った。
比叡山天台宗の座主になられたのである。
名実もとに日本一の僧侶となられた。

「ついて、父上の遺言を果たした」
と満足したのも束の間、
厳しく、内心に目を向けたとき、
いまださとりがえられず、今にも死が来たならば、
必ず無間地獄に堕つる暗い心しかなかったのである。

釈尊が仏法を説かれた目的は、
後生の一大事の解決である。
いくら名声や地位が得られても、
後生の一大事を解決していなければ、
迷いの衆生であり、
真の日本一の僧侶とは言えない。

[匿名さん]

#82017/07/21 17:08
そこに気づいた法然上人は、
一切の地位を投げ捨てても、
魂の一大事の解決を求めずにはおれなかった。

墨染めの衣で向かわれたのは、黒谷である。
黒谷の報恩蔵には当時、釈尊の一切経が
所蔵されていた。

源空は、天台宗を含めて、
それまで学んだいずれの宗派の教義を
もってしても救われ難い自己の姿を
すでに知らされていた。

「善をなそうとしても善のカケラもなし得ず、
 悪をやめようとしても悪を造らずしては
 寸刻も生きてゆけない、
 そのような自分が廃悪修善を基調とする
 聖道門の教えで助かるはずがない。

 しかし、釈尊はこのような者を救う道を
 必ず説いておられる筈である。
 そんな教えが一切経のどこかにあるに違いない。」

法然上人はそう考えていた。

その教えを知るためにこそ黒谷の報恩蔵へ来たのである。

黒谷の報恩蔵で法然上人は尋常でない決意をした。

すなわち、一切経の中に自己の救われる道を知るまでは
死を賭しても、この報恩蔵を出ない、という覚悟である。それ以来、来る日もくる日も経典をひもとかれた。

七千余巻の一切経である。
それを一通り読むというだけでも大変な作業だ。

手にされる一巻の経典に、
「この中にこそ」と自己の救いの道をきたいして読み始め、
失望とともに一巻を閉じ、次の経典をひもとく。


このようにして一切経を一通り読まれた。
しかし、どこにも自分の助かる道は説かれていない。
目の前が真っ暗になる思いDあった。
やはり自分のような者の助かる道はないのか。
いやそんな筈はない。
読み落としたに違いない。
どこかに説かれているに違いない。

[匿名さん]

#92017/07/21 17:09
再び一切経を最初から読み返そうと決心されたのであった。

「今、こうしている愛だみの無常は念々に迫ってくる。
 今死んだらどうなるのだ。
 いまだ救いの道は体得できていないではないか。」

厳しく自己に言い聞かせ、膨大な一切経を再度、読み始められた。
ところが、二度目の一切経の読破でも救われなかった。

一切経を幾度も読んでゆかれる法然上人。
しかし、一向に魂の解決の道が分らない。

この時の源空上人の煩悶する姿を、
ある書物は述懐として次のように伝えている。

「また、凡夫の心は物にしたがいてうつりやすし、
 たとえば猿の枝につたうがごとし。
 まころに散乱して動じやすく、一心しずまりがたし。
 いかでか悪業煩悩のきずなをたたんや。
 悪業煩悩のきずなをたたずば、
 なんぞ生死繋縛(しょうじけばく)の身を
 解脱(げだつ)することをえんや。
 かなしきかな、かなしきかな。
 いかがせんいかがせん。
 ここに我達ごときはすでに
 戒(煩悩をさえぎり)
 定(煩悩を抑え) 慧(煩悩をたちきる聖道門の修行)
 の三学の器にあらず。
 この三学のほかに我が心に相応する法門ありや」

三度目、四度目と、想像を絶する持久力で
一切経読破の作業が続けられたが、
迫り来る無常を思えば、
「今、このまま死ねば、必ず無間地獄真っ逆様だ。
 いかがせん、いかがせん」

あふれる涙は頬を伝わり、経典の上に滴り落ちる。
涙に濡れた経典を惰性のように
読み始めた五回目の中ほど、
中国の善導大師の書かれた『観無量寿経疏』に、
大変な一文を発見されたのであった。

善導大師の書かれた『観無量寿経疏』

[匿名さん]

#102017/07/21 17:10
そこに書かれてあったのが、次のご文であった。

「一心に専ら弥陀の名号を念じて、
 行・住・坐・臥 時節の久近を問わず、
 念々に捨てざる者、これを正定の業と名く、
 彼の仏願に順ずるが故に。」

この文章を読まれた一念に法然上人は

弥陀に救い摂られたのであった。

「ここにあった!弥陀如来の本願こそ、
 愚痴と十悪の法然の救われる唯一無二の道だった。
 ああ、それにしても、極重の悪人、
 地獄しか行き場のない極悪最下の法然を
 救いたもうたとは、広大無辺な弥陀大悲の
 かたじけなさよ」

懺悔と歓喜で涙にくれ、

『観無量寿経疏』を手に高々と報恩感謝の念仏を
称えられた法然上人。

当時の記録は、「高声念仏」と伝えている。

時に承安五年、法然上人四十三才の御時であった。

絶対の幸福になられた法然上人は、
それ以来、京都吉水の禅房に移り、

万人の救われる阿弥陀如来の本願を末法濁乱の世に力強く説き続けられたのである。

[匿名さん]

#112017/07/21 17:17
当時、法然上人は智慧第一、勢至菩薩の化身と
尊崇されていた。
とりわけ法然上人の名をとどろかせたのが、
1186年法然上人53歳の時、大原勝林院で行われた
大原問答である。

法然上人には多くの帰依者があり、
天台宗や法相宗の学者たちも
その存在を無視できなくなってきた。
しかし、相手は一切経を丸暗記しておられる
智恵第一の法然上人である。
各宗派の僧侶は分担を決め、
法然上人に相対した。

法然上人は
「これほど真実開顕の絶好の機会はないではないか。
と、身の周りの世話をする数人のお弟子を伴われ
大原と向かわれたのである。
大原での法論は聖道門各宗派380余人、
主に天台座主顕真と法然上人との間で、
浄土教の念仏により極楽往生できるかどうか
行われた問答であった。

京都吉水の法然上人。
日増しに参詣者が増えることが、各宗のねたみの的になり、
洛北・大原の勝林院で、各宗の代表380余人と
法然上人の法論がなされることになった。
寺の周囲には2000人余りの僧侶も
集まってきていた。

法論の途中、お師匠様の身を案じた熊谷次郎直実が
乗り込んできた。
直実は法然上人より蓮生房の法名を頂いていた。
直実といえば泣く子も黙るといわれた
源氏の旗頭であった男である。
「お師匠様に指一本でも触れた者にはこの熊谷、
ただではおかぬぞ」と
大声をあげた。
法然上人がすかさず
「これ蓮生房、控えおろう」と
叱りつけられる。
と、あの熊のような大男が
頭を地べたに押し付けながら、
部屋から退出したのである。
その光景を見て、

[匿名さん]

#122017/07/21 17:17
また大衆が驚いた
というエピソードも残っている。

勝林寺には漆塗りの問答台が左右に一対、
対峙している。
法然上人がその一方に上がる。

天台座主が、口火を切る。
「浄土門が、聖道門より優れているとは、
 どういうことか」

すかさず法然上人は
「お釈迦さまの教えに優劣はないが、
 仏教はなんのために説かれたか。
 衆生の迷いを転じて、仏のさとりに至らすため。
 衆生を救う点において、浄土門のほうが優れている。
 
 聖道門は、人を選ぶではないか。
 経典を学ぶ知恵のない者、
 修行に耐える精神力のない者は求められぬ。
 欲や怒りのおさまらぬ者は、
 救われないということではないか。

 自力聖道の教えでは、戒、定、慧の三学の修行、すなわち、
 煩悩をおさえ、煩悩をさえぎり、煩悩を断つ修行を
 長期間積まねば仏に成れぬと説かれている。
 
 さらに厳しい戒律が、男に250、女に500ある。
 いったい、完全に実行できる人はどれだけあるのか。
 ほとんどの大衆は救われないではないか。

 しかし、浄土の法門はちがう。
 欲の止まぬ者も怒りの起こる者も、
 愚者でも智者でも、悪人でも女人でも
 侍でも農民でも商人でも職人でも乞食でも、
 全く差別がない。
 平等に救われるのだ。

 なぜならば、阿弥陀如来が、すべての人を必ず救う、
 と誓っておられる。
 しかも、末法の今日、聖道門の教えで救われる人は
 一人もいないとお釈迦さまはおっしゃっている。」

天台座主が言葉を失い、高野山の明遍が根拠を求める。

法然上人は5回一切経を読破しておられる。
淀みなく経典の根拠をあげられた。

[匿名さん]

#132017/07/21 17:18
法然上人は一切経を丸暗記されている
お方である。

「『賢劫経』や『大集経』には、
 釈尊入滅後、500年間を正法の時機とし、
 その後1000年を像法の時機、
 像法後1万年を末法の時機、と説かれる。
 像法の時機には、さとりをうる者はひとりもなく、
 末法には教えのとおり修行する者さえ
 いなくなると、経典にある。
 すでに現在は末法。自力の修行では、
 成仏得道の道は断たれている。」

天台座主が言葉を発する。
「末法だから助からぬというなら、
 浄土門も同じではないか」

法然上人はここぞとばかり真実開顕される。
「いや、お釈迦さまは、『大無量寿経』に、
 『当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもって哀愍し、
 特にこの経を留めて止住すること百歳せん』
 と明言しておられる。
 これは、『法華経』など一切の経典が滅尽する、
 末法・法滅の時機が来ても、
 阿弥陀仏の本願が説かれる『大無量寿経』だけは
 永遠に残って、一切の衆生を幸福に導く、ということだ。
 だから、『大集経』にも、
 『当今は末法にしてこれ、五濁悪世なり、ただ
 浄土の一門有りて通入すべき路なり』
 と説かれている。」

聖道仏教の者達はどう対処していいか。
苦し紛れに、
「…だが、阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に
 向くなとは、言いすぎではないのか」

法然上人はここぞとばかり釈尊の御金言を説き切られる。
「一向専念無量寿仏、と『大無量寿経』にあるように、
 これはお釈迦さまの至上命令なのだ。
 決して法然が勝手に言っているのではない。」

各宗の代表が次々に登壇し、問答は一昼夜に及んだが、
法然上人

[匿名さん]

#142017/07/21 17:19
はいかなる難問にも、
経典の根拠を挙げて、よどみなく答え、
すべての学者をことごとく論破した。

論議は一日一夜に及んだが、ついに法然上人に
軍配があがった。
法然上人の言葉に納得し、
高徳に打たれて満座の聴衆は、
声高に念仏を称え、その声は三日三晩、

大原の山々に響いたと伝えられている。

[匿名さん]

#152017/07/21 17:34
昔、明遍という真言宗の僧がいた。
法然上人の『選択本願念仏集』を読み、
成程、法然の言うことも尊い所があるが、
一切の聖道仏教を捨てゝ、
阿弥陀仏の本願に帰せよとは何事か。
聖道仏教だって、釈尊の説かれた法ではないか。
それを、
「聖道仏教では、千人のうち一人も助からない。
 阿弥陀仏の本願のみが、われらの助かる道なのだ」
とは、余りにも偏執であり、排他的ではないか。

法然は排他的で、喧嘩腰で、頑固で、
量見のせまい坊主だ、とののしっていた。

ところが、ある晩、明遍は夢をみた。
天王寺の西大門に憐れな病人が沢山集まっていた。その中に実に懐かしい面ざしをした墨染の衣と袈裟をつけた
一人の聖者が、鉄鉢の中に重湯を入れて、
小さな貝でそれをすくいながら、
病人の口に一人づつ入れてやっている。
親にも兄弟にも妻子にも、見捨てられた憐れな癩病患者を、
たった一人の僧が看護しながら、静かに病人を拝んでいる。
そしてその看護のしぶりが、実に親切であり懇切である。

夢中で明遍は何という貴い人だろう。
末法にも、こうした人があったのか、と傍の人に尋ねた。
「あの方こそ、吉水の法然上人である」
という声を聞いて、びっくりした時に夢さめたという。

法然上人は高慢で、排他的だと思っていたのは、大変間違いであった。
あんな病人に御飯を喰べよと言ったって無理なのだ。
あの病状では、どんな滋養になるものが、
どんなに沢山あっても何にもならない、
喰べられるものは一つもない。

彼らの糧は重湯より外にないのだ。
重湯こそ、あの病人が
生命をつなぐ
唯一の糧であることが判った。

一如法界を開けば、八万の法蔵はあれども、
我ら凡夫には無きに等しい高嶺の花でしかない。
末法の我々の救われる道は、
弥陀の本願以外にはないことを知らされ、
深く懺悔して法然上人の弟子になっている。

[匿名さん]

#162017/07/23 03:22
欠けていたピースが 見えてきた。

[匿名さん]

#172017/07/23 09:01
文殊菩薩と普賢菩薩は共に釈迦如来の脇侍となり、
釈迦三尊を構成する。

仏の覚りとは智慧と慈悲の覚体である。
智慧と慈悲の2つの徳が備わらなければ、
仏の覚りとはいえない。

なぜなら、仏の智慧(仏智)と慈悲によって、
衆生を済度できるからである。

その特徴を表す為に
阿弥陀如来の両脇には智慧を表す勢至菩薩と
慈悲を表す観音菩薩が置かれてある。
釈尊の脇侍として文殊と普賢が置かれている。

文殊菩薩は「三人寄れば文殊の智慧」といわれるように
仏の智慧を表わす菩薩である。

普賢菩薩は普は遍く一切の意。
賢は最妙善の義で身口意の三業を消滅する。
慈悲の徳を表わす菩薩である。

文殊が智・慧を代表するため獅子にのり、
普賢が定・行を代表するため白象にのっている。

智慧をなぜ獅子と例えたのか。
百獣の王ライオンには誰も恐れるものはない。

ジャングルを堂々と歩める。
智慧あるものに恐れなし。

慈悲は表すのが象であるが、
象は胴体が大きいが、気はやさしい。
その大きさに誰も立ち向かえるものがいない。

ジャングルの中を一歩一歩確実に
歩んでゆく。

釈尊の二大の徳を象徴した文殊と普賢には、
この世だけの友達ではなく、
過去世からの友達であった

[匿名さん]

#182017/07/23 09:03
二人の過去世の話を釈尊が教えられた。

ある日普賢が文殊の家を訪れ、約束の時間に
彼の部屋に入ると、
文殊が椅子にもたれかかって死んでいた。

驚いて近づいてみると、それは彫刻での
悪戯だった。

文殊はさぞかし普賢はたまげているだろうと
部屋をあけると、今度は普賢が首をつって
死んでいるではないか。

「済まなかった、オレがあんな悪ふざけをしたために」

と言って近づくと、それは普賢が書いた絵であった。
それ程、二人とも絵が上手く仲も良かった。

そんな二人に国の王様が新築した廊下に

同時に始め、同時に終了し、同じ絵を
書いてもらいたいと命じた。

二人は相談することなく、
普賢はひたすら絵を描きはじめた。文殊はしばらく考えたあげく

廊下を壁を一生懸命に磨き始めた。
そして、普賢が書き上げたのと、
文殊が磨き終えたのが同時であった。

王様が来てみると、寸分違わぬ絵が
できていたのでおどろいた。

よく見ると文殊の方の壁は鏡のようになって、
普賢の絵を映し出していたのである。

この話は二人の特色を上手く伝えられている。

普賢−こつこつと地道に活動をしてゆく。

文殊−どんな難題もその智慧で切り開いてゆく。

この二人の特徴を備えておれば鬼に金棒である。

[匿名さん]

#192017/07/23 09:07
仏心とは如何なる内容のものをいい、
どんな、はたらきを持っているのだろう。

『観無量寿経』の中に

「佛心とは大慈悲これなり」

という有名な金言が示すように、
仏心とは大慈悲心に外ならない。

大きな慈悲をもたれた方が仏様である。

では慈悲といわれるものは如何なるものか
どんな力を持つものであろうか。

中国の名僧曇鸞大師は

「苦を抜くを慈といい、楽を与うるを悲という。
 慈に依るが故に一切衆生の苦をぬき、
悲に依るが故に無安衆生心を遠離せり」

と教えられている。

慈悲には抜苦与楽の活動がある。慈には他の苦しみを見ていることが出来ないで

共に泣き悲しみ、何んとか苦痛をなくしてやろうと
発動する心であり、

悲は与えて共に喜びたいの心である。

子供が病で苦しむ時、
親は「医者じゃ、病院じゃ」と騒ぐのは、

「一刻も早く苦を取り除いてやりたい」の親の慈の心であり、

財布の、あり金をはたいても
恵まれない施設に寄付を
するのも慈の心であろう。

[匿名さん]

#202017/07/23 09:25
釈迦入滅後、700年
南インド、コーサラ苦のバラモンの家に生まれた。

天性、極めて聡明で。
幼少にしてバラモン教の
四ベーダーの経文をことごとく暗記して、
理解してしまい、
町の図書館にあるあらゆる学問を学び尽くして
しまったと言われる。

後に仏法に帰依し、阿弥陀仏の本願に救い撮られ
その縦横無尽の活躍に、
「小釈迦」と尊敬された。

また、多くの仏教の宗派の開祖とあがめられ

「八宗の祖師」と仰いで、惜しみない
称賛をおくった。

またこの龍樹菩薩は
釈迦が楞伽経(りょうがきょう)未来記に、

「未来世に、わが法をたもつ者あるべし。
南天竺(インド)国の中に、大名徳の比丘(びく)あらん。
その名を龍樹となす。
よく有無の宗を破し、世間の中にして我が無上の大乗をあらわし、
初歓喜地を得て、安楽国に往生せん。」

と龍樹菩薩の出現を予言しておられることでも
有名である。

だが、彼が真実の仏教を知り、仏説のとおりに、大活躍を
するまでには様々な曲折を経て後のことであった。

龍樹菩薩には3名の勝れた親友があった。
あらゆる学問を学び尽くした彼らに残されたものは
肉体の歓びだった。

人間最高の快楽は情欲にある。聞いただけでも
二十歳になったばかりの三人の血潮を騒いだ。

そして、悪魔の領域に踏み込んでしまったのである。
町にいる女達に飽いた4人は宮中にいる女官を
自分達に情痴のエサにしようとした。

国王の愛人達も最初は意外な侵入者に驚いたが、
肥満した国王の身体とは対象的な
龍樹たちのたくましい肉体を歓迎するようになった。

しかし、このウワサが国王の耳に入らない訳がない

[匿名さん]

#212017/07/23 09:27
事実を知って怒った国王は龍樹達をすぐさま
発見し、処刑するよう命じたのである。

国王の家来が警戒していることも知らず、
龍樹たち4名は宮中に忍びこんだ。

たちまち群臣たちに刃に、友達3人は
またたく間に斬り殺されてしまった。

利口な龍樹は、国王の周囲10メートルは
近づいてはならぬことを利用し、
とっさの機転で難から逃れることができたのである。

「俺は間違っていた、情欲こそ禍(わざわい)の根であり、
苦の本であった。

それにしても人間の命など、何とはかないものだ。

もし俺が死んだら、魂は一体どうなるのだろうか。
三人の親友を見殺しにした、俺の罪はどうなるのだ。」

俺が死んだらの無常と三人を死に追いやったのは自分のせいだの罪悪に

龍樹の煩悶は日に日に増すばかりであった。

わが身の後生に驚いた龍樹はついに仏道修行に
精進することを決意した。
仏道修行に取り組まれた龍樹であったが、
小乗経典を読み始めて90日で読破された。
しかし、満足は得られなかった。

ヒマラヤ山の麓に伝わっていた大乗経典に
接し、十数年、行の峻厳さは、お釈迦様の
苦行もかくあらんと思われんばかりであった。

その結果、仏に至るさとりの五十二位の中、
四十一段目の初地(しょじ)を極めたのである。
この位まで悟ると悟りが崩れる落ちることが
ないから、これ以上の悟りと不退転位と
言われる。

四十一段目は最初の不退転位であるため、
おどり立つ歓喜が沸きあがるから、
初歓喜地ともいう。

自力修行で四十一位を悟ったのは、
釈尊を例外とすれば、龍樹菩薩と、

[匿名さん]

#222017/07/23 09:30
天親菩薩のお兄さんの無著菩薩(むじゃく)
だけである。

しかし、さすがの龍樹菩薩も
ここに至るので精一杯であった。

ヒマラヤ山中の奥深い地区に龍族という部族があり、
そこに大龍という長老がいた。

その大龍が龍樹菩薩のことを知り訪ねてきたのである。

「菩薩よ。私の村には遠い祖先より伝わる経典がある。

 しかし、いまだ、その経典の真意を理解しうる賢者が おらず、今日まで経蔵に眠っている。

 あなたこそ、その経典を伝授するにふさわしい方だ。
 どうぞ一度見てもらいたい。」

大龍の言葉に新たな希望を見出し、
龍樹菩薩がその村に行ってみられると、

経蔵があり、その入り口の上の古びた額には
「龍宮」という文字が浮き彫りにされていた。

蔵の中には数多くの大乗経典がギッシリ詰まっていた。
むさぼるように、龍樹菩薩は経典を読破してゆかれた。

どこかに
自分のような極悪人でも救われる道はないか・
一切の人々の救われる法はないか・
必死に経典を紐といてゆかれるうちに
ついに浄土三部経を発見せられたのである。

「設我得仏、十方衆生・・・・・」
と阿弥陀仏の本願を憶念した一念で
大安心・大満足の身に摂取せられたのである。

阿弥陀仏の本願力(他力)で五十一位を
証し、今が絶対の幸福、
死んで弥陀の浄土間違いなしの身に
なられたのである。

これを必定の菩薩という。

[匿名さん]

#232017/07/24 17:03
源信和尚は恵心僧都とも呼ばれる。
平安時代の中ごろ、奈良県の二上山の
ふもとの当麻に生まれ、
幼名を千菊丸といった。
幼少のころより、智恵の勝れた方であった。

千菊丸が7才の時、父と死別したのである。
間もなく、村に一人の若い僧侶が托鉢に来た。
僧侶、昼になったので川原の土手に
腰を下ろして弁当を食べ始めた。

すると何時の間にか、周囲に村の子供たちが集まり、
物ほしそうなまなざしで、
食事中の僧侶を見つめている。
子供達の姿はいかにも貧乏そうで、
ボロ着に荒縄の腰紐、
髪の毛は汚れて乱れたまま、
無造作にもとどりを結わえてある。
顔も浅黒く中には鼻汁を流している。
僧侶は、子供達の中に一人だけ、鼻筋が通り、
いかにも利発そうな子供がいるのに気がついた。
それが千菊丸である。

やがて僧侶は川原で弁当箱を洗い始めたが、
前日以来の雨で、水が濁っている。
構わず洗っていると、千菊丸が近づき、
「お坊さん、こんなに濁った水で弁当を洗ったら、
 衛生的に良くないよ。」
と注意した。

それを聞いた若い僧侶、わずか六、七歳の子供に
もっともらしく注意されて、内心
「何を生意気な」という気持ちになった。

しかし、子供に怒ってみても大人気ないと思い、
やがて諭すような口調で
「坊や、子供のそなたが仏法を知らぬのは無理ないが、
 仏法では浄穢不二と言って、
 この世には綺麗も穢いものもない。
 それを浄いとか、穢いと差別しているのは、
 人間が迷っているからじゃ。
 仏の眼からご覧になれば、この世は浄穢不二なのだ」
と語った。

それを聞いた千菊丸、即座に

[匿名さん]

#242017/07/24 17:04
浄穢不二なら、なぜその弁当箱を洗うの?」
と、鋭く反問した。
当意即妙な反撃に、僧侶は唖然した。
「この小賢しい小僧め」

わずか七歳の子供に、自分の言いだした「浄穢不二」の
仏語を逆に使われ反撃された僧侶は、
何とも収まらない気持ちであった。

僧侶の問いに見事、答えた千菊丸は
そんなことに頓着しない。
すぐ川原へ行っては村の子供たちと、
石投げをして遊んだ。

「あんな子供に」と思っただけでも腹がたつ。
何とか一矢報いてやらねば気が済まん、
の思いから僧侶は一計を案じ、
石投げをしている千菊丸に近づいていった。

「おい坊や、お前さんは大層利口だが
 十まで数えられるかい」
「数えられるよ、お坊さん」
「それなら数えてごらん」
「いいよ、一つ、二つ、三つ・・・・九つ、十」

僧侶はわざわざ十まで数えさせてから、
「坊やは今、おかしな数え方をしたな。
 一つ、二つ、と皆、ツをつけているのに、
 どうして十のときに十つと言わんのじゃ」
と意地の悪い質問をして、
「どうじゃ、今度は答えられんじゃろう」
と内心、ほくそ笑んだ。
それも束の間、

「そりゃお坊さん、無理だよ。
 五つの時にイツツと
 ツを一つ余分に使ってしまったから、
 十のとき、足りなくなったんだよ」
と答えられて、またしても負けてしまった。

僧侶はもう、憎むよりも
「こんな智恵のある子供を田舎に置いておくのは
 実に惜しい。
 出家させてたら、どれほど勝れた善知識に
 なるかもしれん」
と、かえって千菊丸に惚れ込んでしまった。

[匿名さん]

#252017/07/24 17:07
僧侶は

「そなたは大層賢いが、
 そなたのお父さんはおられるか」

「お父さんがいなかったら
 僕は生まれてこないよ」

「そうじゃない、お父さんは健在か」

「お父さんは亡くなったよ、
 でもお母さんならいるよ」

「それなら、お母さんに会わせてほしい、
 案内してもらえぬか」

と千菊丸に頼んだ。

僧侶は村はずれのあばら家に、母君を訪ねた。

「私は比叡山で、天台宗の修行をする者ですが、

 今日はたまたま会った子供さんの、
 あまりにも利発なことに驚いてしまいました。

 失礼ながらこれほどの才気あるお子さんを、
 このような田舎に埋もれさせてしまうのは、

 あまりにも惜しく思います。
 どうか子供さんを、私に預けて頂けませんか。

 出家の身となられたら、さぞや素晴らしい僧侶と
 なられることに間違いございません」

と切々と頼んだ。

その結果、千菊丸はその僧侶の師、良源の弟子に

なる決心をして、やがて九歳で、天台宗の比叡山に
登ったのである。

[匿名さん]

#262017/07/24 17:08
天台宗の僧侶となって源信と名を改めた。

源信は比叡山で、一心不乱に天台教学の
研鑚に励んだ。

元来、才智卓抜な源信が、水を得た魚のごとく、
良き師、良き環境に包まれて修学を

続けたのであるから、
その学問に上達ぶりは目覚ましかった。

たちまち、全国から俊秀を結集した
叡山において頭角を現し、
十五歳のころには、叡山三千坊に
傑出した僧侶として、
源信の名を知らぬ者はなかった。

そのころ、時の村上天皇から
叡山に勅使が出され、
「学識優れた僧侶を内裏に招いて、

『称讃浄土経』の講釈を聞きたい」

という天皇の意思を伝えてきた。

当時の仏教は国家権力の手厚い保護のもとに発展を約束されていたため、

天皇の機嫌はそのまま叡山盛衰の
動向に連なっていた。

そのため、村上天皇に派遣すべき僧侶の
人選は慎重を極めたが、一山の首脳の衆議の結果、
選ばれたのが源信であった。

あまりの光栄の感激しつつ、源信は全山の期待を
担って村上天皇の元に赴いた。

そして、群臣百官の居並ぶ前で、天皇に堂々と

『称讃浄土経』を講説したのである。

[匿名さん]

#272017/07/24 17:15
村上天皇は、あまりに年若い源信の豊かな才覚と
堂々たる弁舌に感嘆せずにおれなかった。

説法が終わった時、村上天皇は、
「見ればまだ若いが、そなたは何歳か」

と尋ね、十五才との答えに大いに驚嘆した。
天皇は褒美として、七重の御衣、
金銀で飾られた香炉箱、その外多くの物を与え、
また僧侶として栄誉ある「僧都」の位を
与えたのである。

一躍、僧都となり、天下に名声を博した
源信の喜び・得意は察するに余りある。
母思いの源信は早速、事の始終を文書に認め、
天皇よりの褒美の品々とともに
郷里に待つ母の元へ送った。

ところがしばらくして、
荷物がそのまま突き返されてくる。

添えられた母の手紙は、以外な文面であった。

“後の世を渡す橋とぞ思いしに
     世渡る僧となるぞ悲しき”

という冒頭の歌を見た時、源信はとっさに母の言わんと
する意味が分かった。

「私がかわいいお前を比叡山に送り、
 仏教を学ばせているのは、
 ただお前に、『後の世を渡す橋』と
 なってもらいたかったからです。
 後生の一大事の解決を万人に伝える僧侶に
 なってほしかったのです。
 それを忘れてお前は、何と悲しく浅ましい坊主に
 なってしまったことか。
 天皇に褒められ、仏法を名利のための道具と
 してしまっているではないですか。
 天皇とて地獄行きの迷いの衆生、
 そんな者に褒めれて有頂天になっているおお前も
 畢竟迷っているのです。
 どうして仏に褒められる身となろうとしないのですか」

[匿名さん]

#282017/07/24 17:17
母からの歌は道を踏みはずした源信を
悲しんでいるのであった。
母君は歌に続いて、
次のように手紙を記している。

「山へ登らせ給いてより後は、
 明けても暮れても床しさ心を砕きつれども、

 貴き動人となし奉る嬉しさとおもいしに、
 内裏(天皇)の交わりをなし、

 官位進み、紫甲青甲に衣の色をかえ、
 君に向かい奉り、御経讃し、
 お布施の物をとり給い候ほどの、

 名聞利養の聖となりそこね給う口惜しさよ。
 唯命を限りに樹下石上の住居草衣木食に

 身をやつしては、 木を惟り(こり)
 落葉を拾い、偏に後世たすからんとし給えとて
 拵(こしら)えたてしに、
 再び栄えて王宮の交わりをなし、
 官位階品さまざまの袈裟に出世をかざり、

 名聞の為に説法し、利養の為の御布施、
 更に出離の御動作にあらず、
 唯輪廻の御身となり給うぞや。
 唯遇いがたき優曇華(うどんげ)の
 仏教にあいぬれば、

 思い入りて後世たすかり給うべきに、
 悲しくも一旦の名利にほだされ給うこと、

 愚なる中の愚なること、殊に惜しき次第、
 あさましく候え、
 之を面目と思い給うは賎しき迷なるべし、

 夢の世に同じ迷にほだされたる人々に
 名を知られて何にかはせん。
 永き後に悟りを極めて仏の御前に
 名をあけ給えかし」

源信僧都は、母の鉄骨の慈悲の教訓に、翻然として
自らの非を悟り、たちどころに、天皇よりの褒美の品々を
惜しげもなく焼却してしまった。
さらに、僧都という位も返上して、決意新たに

[匿名さん]

#292017/07/24 17:19
後生の一大事の解決に取り組んだのである。

「死ねば必ず地獄行きの迷った人に
 褒められるよりも
 なぜ、真実の仏方から褒められる
 真の仏弟子になろうとしないのです」

という母の厳しい叱声に、
迷夢が一度に覚めた思いの源信は、
以後、名利を求める心を固く戒めて、
後生の一大事解決のための修行を
はじめてたのであった。

しかし、天台の修行を重ねるに従って
知らされてきたのは、
煮ても焼いても食えないような
浅ましい自己の本性であった。

天台の教学は、良源門下三千人の中で
他の追随を許さぬ深さを学び、読破した。

大切な聖教のほとんど暗記するほどであったが、
それでもなお自己の本心は、
後生の一大事を苦にするのでもなく、
真剣にその解決を求めようと焦っている
のでもなかった。あして、捨てたはずの名利の心は、
厳しい修行をすれば
その厳しさを自惚れ、顕密の教法を極めれば

その学問の深さを密かに誇っているという有り様で、
なお止むことがなかった。
それでいて外見は名利を捨てて、
煩悩を超越しているような素振りで
巧妙に他人の目を欺いている、
まさしく偽善の塊であった。
源信僧都は求めれば求めるほど、
この自己の本心に驚かずにおれなかった。
無常迅速のわが身、
悪業煩悩の自己、

理においては充分すぎるほど分かっていながら、
後生の一大事に驚く心は少しも見当たらない。

愚かというか、阿呆というか、
迫りくる一大事に対して、

[匿名さん]

#302017/07/24 17:20
仏法を聞こうという心を金輪際持ち合わせず、

その悪をまた懴悔する心すらない。

こうなればただの悪人ではない、
極重の悪人というべきか。
顕密の教法は道心堅固な聖者に

は進み得ても、
自分のような頑魯の者にはとても達せられない。

頑魯の者とは頑固で愚かな者、源信は
自己の姿に驚かれたのだ。
ならば、どうすればよいのか。

ついに源信は、叡山北方の森厳たる谷間の地
横川の草庵に籠もって、

この極重悪人のなお救われる道を求めるに至ったのである。

[匿名さん]

#312017/07/24 17:27
横川の草庵でも、源信の煩悶は続いた。
来る日も来る日も、ほとんど寝食を忘れて
経典やお聖教に取り組み、
後生の一大事、生死の大問題の解決を求めた。

やがて歳月は容赦なく流れ、四十歳を過ぎたころ、
中国の善導大師の著書に感銘を受け、阿弥陀仏の本願を
説かれた浄土門の仏教こそが、万人の救われる真実の道で
あることを知らされた。
そしてついに、善導大師のご指南により、
阿弥陀仏に救い摂られたのである。
後生の一大事が解決できた歓喜により、
「今度こそ母上に心から喜んでいただこう」
と早速、僧都は故郷の大和国を目指して旅立たれたのである。
ところがそのころ、源信僧都の母は年老い、
病床の身となって、明日をも知れぬ容態であった。うわごとのように
「源信に会いたい。源信を呼んでおくれ」
と繰り返すのみであった。
そこでその旨を携えた使いが源信僧都の元へ出され、
途中で郷里へ向かう僧都に出会った。
使いの者より、母の病状を知った源信僧都は、
夜を日についで家路を急がれた。
家では母が、
「源信はまだか。まだこないのか」
とひたすら帰りを待ちわびていた。
そこへ源信僧都が、三十余年ぶりに我が家は辿り着かれた。
「母上、源信です。今帰りました」
と耳元へ口をあてて告げるられると、
「おお源信か、よく帰ってきてくれたのう。
 今生ではもう会えないかと思っていたのに、
 夢のようじゃ」
源信の姿を見て、母の顔に生気が蘇った。
三十余年、一日として我が子を忘れたことのない母であった。呼び戻したい心を必死にこらえ、ひたすら
「後の世を渡す橋となれかし」と
念じ続けたのであった

[匿名さん]

#322017/07/24 17:29
源信僧都はついに、母の念願通りの

「後の世を渡す橋」となって郷里に戻られ、
感慨無量であった。

しかし、感激にひたっているばかりの余裕はない。

今まさに臨終を迎えている母の後生の一大事を
解決しなければならぬ。

源信僧都は母に、精魂を傾け臨終説法を試みられた。

「母上、どうかお聞きください。
 一切の人々の救われる道は、
 本師本仏の阿弥陀仏に、一心に帰命するしかないのです。
 阿弥陀仏はどんな極重の悪人をも、
 信ずる一つで救い摂ってくださるのです。
 一心一向に阿弥陀仏に帰命するより、
 後生の一大事の解決できる道はありません。 

心の闇を破って下さる仏は、阿弥陀仏しかおられないのです」

必死な説法が続いた。

そして母君も阿弥陀仏に救われ、
浄土往生の本懐を遂げたといわれている。
母君七十二歳の時であった。

源信僧都は、母の往生に千万無量の思いで、

「我れ来たらずんば、恐らくは此のごとくならざらん。
 嗟呼、我をして行を砥(みが)かしむ者は母なり。
 母をして解脱を得しめし者は我なり。
 是の母と是の子と、互いに善友となる。
 是れ宿契なり」

と述懐されている。

母の野辺送りが済んだ僧都は
横川の草庵に帰ると、
母の往生を記念して一冊の書物を著された。

その本が今日でも有名な『往生要集』六巻である。
以後、源信僧都は
『往生要集』とともに

浄土門の大先達として、後世にも多大な影響を与え、
七十六才で生涯を閉じられたのである。

「よもすがら 仏の道にいりぬれば、
   我が心にぞ たずね入りぬる」

[匿名さん]

#332017/07/27 14:50
さて 法華経の名僧と言えば僧侶ではないけども

宮沢賢治の名が挙がるだろう。
彼は熱心な法華経信者であった。

「雨ニモマケズ」

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体をもち

欲は無く
決して怒らず
いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず

野原の松の林の陰の
小さなワラぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば
行って看病してやり

西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い

北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い

日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き

みんなに、でくのぼーと呼ばれ

褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい
 

これこそが法華経の真髄では無かろうか?

宮沢賢治は

『銀河鉄道の夜』
という傑作童話をのこしているが
内容を一言でまとめると

孤独で世界に居場所のない少年ジョバンニが、
銀河鉄道の旅を通して

、みんなの幸せのために
尽くすことが、生きる意味である

と悟るまでを書いた物語で、法華経を良く現していると思う。

法華経は差別をしない経典で有るからだ。

[匿名さん]

#342017/11/12 08:21
お釈迦様ご在世の時、孤児となった少女サーヤが、給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ)の屋敷に引き取られて働いていた。

赤ん坊の世話と食器洗いが彼女の仕事である。
ある日、温かく抱き締めてくれる母がもうこの世にいないと思うと切なくなったサーヤは、道端に座り込み、大声で泣いてしまった。

そこを通りかかった僧侶が、父母を亡くした寂しさを訴えるサーヤに、

“人は皆、独りぼっちである”

というお釈迦様のお言葉を示して慰めた。

“じゃあ、どうすればその寂しい心がなくなるの?”
と問うサーヤに、
僧が「仏法を聞きなさい」と勧めると、彼女は大いに喜び、長者の許しを得てお釈迦様のご説法を聞くようになった。

ある日のこと。夕食を終えた給孤独長者が庭を散歩していると、サーヤが大きな桶を持ってやってきて、
「ほら、ご飯だよ。ゆっくりお上がり。ほらお茶だよ……」
と桶の水を草にかけ始めた。
訳を聞くと、茶碗を洗った水を、草や虫たちに施していると言う。

「そうだったのか。だが“施す”などという難しい言葉を誰に教わったの?」

「はい、お釈迦様です。毎日、少しでも善いことをするように心がけなさい、悪いことをしてはいけませんよ、と教えていただきました。善の中でも、いちばん大切なのは『布施(ふせ)』だそうです。貧しい人や困っている人を助けるためにお金や物を施したり、お釈迦様の教えを多くの人に伝えるために努力したりすることをいいます。私は何も持っていませんから、ご飯粒のついたお茶碗をよく洗って、せめてその水を草や虫たちにやろうと思ったのです」

サーヤの話に、長者はこう言った。

「ふーん、サーヤは、そんなよいお話を聞いてきたのか。よろしい。お釈迦様のご説法がある日は、仕事をしなくてもいいから、朝から行って、よく聞いてきなさい」

[匿名さん]

#352017/11/12 08:25最新レス
幾日かたち、長者はサーヤが急に明るくなったことに気づいた。
いつも楽しそうに働いているサーヤを呼び、再び話を聞いた。

サーヤは、
「私のように、お金や財産が全くない人でも、思いやりの心さえあれば、七つの施しができると、お釈迦様は教えてくださいました。私にもできる布施があったと分かって、うれしくて」

と言って、七つの施しの中にある
「和顔悦色施(わげんえっしょくせ・明るい笑顔、優しいほほえみをたたえた笑顔で人に接すること)」
を心がけ、一生懸命、優しい笑顔で接するように努力していると言った。

「ふーん。ニコニコしていることは、そんなにいいことなのかい」

「はい。暗く悲しそうな顔をすると、周りの人もつらくなるし、自分も惨めな気持ちになります。苦しくてもニッコリ笑うと、気持ちが和らいできます。周りの人の心も明るくなります。いつもニコニコしようと決心したら、親がいないことや、つらいと思っていたことが、だんだんつらくなくなってきました。泣きたい時もニッコリ笑ってみると、気持ちが落ち着いてくるんです」

聞いていた長者は胸が熱くなった。

「サーヤよ。そんなにいいお話、わしも聞きたくなった。お釈迦様の所へ連れていっておくれ」

長者が初めてお釈迦様のご説法に直接触れることになります。

*給孤独長者……古代インド、コーサラ国の長者。
孤独な人々を哀れみ、よく衣食を給与したので「給孤独」と呼ばれた。「スダッタ」ともいう。
祇園精舎の建設に尽力したのも有名である。

[匿名さん]


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