昨日の会場にいたんですね。竹原さんにはどのように映ったのだろうか。
[匿名さん]
竹原氏、村田に不可解判定謝罪のWBA会長を一刀両断 「この人の採点なんて別に関係ない」/BOX
サンケイスポーツ 5/24(水) 13:15配信
竹原氏、村田に不可解判定謝罪のWBA会長を一刀両断 「この人の採点なんて別に関係ない」/BOX
竹原慎二氏(写真:サンケイスポーツ)
プロボクシングで1995年に日本選手でただ一人、ミドル級世界王者となった竹原慎二氏(45)が24日、フジテレビ系「バイキング」(月〜金曜前11・55)に生出演。20日に行われたWBA世界ミドル級王座決定戦で、ロンドン五輪金メダリストの村田諒太(31)=帝拳=が同級1位のアッサン・エンダム(33)=フランス=に1−2の判定で敗れたことに言及した。
「これは絶対に勝ちでしょ。誰が見ても勝ち。僕の採点でも5ポイントは勝っていた」
村田は試合開始のゴングとともにガードを固めて前へプレッシャーをかけ、軽快なフットワークを駆使して左右に動くエンダムを追い詰めた。4回にはステップインして距離を一気に詰め、右ストレートを打ち込みダウンを奪う。その後もプレスをかけ続け、エンダムをロープに追い込み、何度も強打を浴びせた。
しかし2人のジャッジがエンダムを支持し、最大5ポイントの差がついた。有効打より手数だけを重視した採点に、竹原氏は「こういう採点だったらKO勝ちしか勝ちがなくなってしまう」と危機感を募らせた。
WBAのヒルベルト・ヘスス・メンドサ会長は試合後、複数回にわたってツイッターを更新し、「村田、帝拳プロモーション、全ての日本のファンにおわびする」と謝罪。自身の採点表も公開し、「117−110」で村田の勝ちと強調した。竹原氏はこの投稿について、「この人の採点なんて別に関係ない」と一刀両断した。
[匿名さん]
1度失った信用を取り戻すのは大変な事ですね。井岡がロマゴンとの対戦命令が有ったのに逃走したときにチャンピオン資格が剥奪されない時点で信用を失ってますけどね
[匿名さん]
井岡陣営は違約金を払ったから大丈夫だったんだな。札束の往復パンチにKOされない奴は皆無だよ
ボクシングファンは納得はしないがな
[匿名さん]
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[匿名さん]
186センチだったらミドル級より上の階級でチャンピオンになれた
[匿名さん]
竹原の過去の試合見たら分かるが村田なんか目じゃない
やっぱり気が強くないとあんな試合は出来ない
[匿名さん]
元世界チャンピオン・竹原慎二、膀胱がんで余命1年宣告「初めて女房の前で泣いた」
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2019年4月5日 19時40分 テレ朝POST
©テレビ朝日
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広島県で生まれ、少年時代から恵まれた体格だった竹原慎二さん。小学生時代は野球、中学時代は柔道部に在籍。柔道の県大会では団体優勝も経験するが、ケンカにも明け暮れ、「広島の粗大ゴミ」と呼ばれる不良だったという。
1988年にプロボクサーを目指して上京。内装の会社で働きながらボクシングの練習に励み、1995年に日本人初の世界ミドル級王者に。引退後は映画・ドラマへの出演、フィットネスジム経営、講演会など幅広い分野で活躍する竹原さんにインタビュー。
©テレビ朝日
◆「広島の粗大ごみ」と言われた男が世界チャンピオンに
−昔はかなりワルだったそうですね−
「不良って言っても、僕は2年か3年ぐらいですよ。中学の3年から17歳になる前ぐらいまで。いきがっていましたからね(笑)」
−お父様もボクサーだったそうですが、その頃にはボクサーになろうとは思わなかったんですか−
「興味はあるんですけど、一歩踏み出す勇気がないんですよ。父親には何回も言われました。高校受験もしたんですけど、チョコチョコ悪さをしていたので入れてもらえなかったんですよね。それで、高校に行けなかった時点ですぐ言われたんですけど、そのときにはまだボクシングをやろうとは思わなくて…。
でも、最後にケンカで人にケガをさせたときに、自分でも『このままではいけない。まずいなぁ』と思ったんですよね。それでもすぐにはボクシングに行かなくて、8カ月後ぐらいに行ったんです」
1989年5月15日にプロデビューすると、翌年には第36代全日本ミドル級新人王に。1993年、東洋太平洋ミドル級王座を獲得。プロデビュー以来、23戦23勝。無敗のまま、WBA世界ミドル級王者ホルヘ・カストロに挑む。
[匿名さん]
前評判は百戦錬磨の王者の圧倒的有利であったが、一度も倒れたことのない王者からダウンを奪うなど終始打ち合う激戦の末に判定で勝利。日本人初世界ミドル級王者となった。
−「日本人がミドル級チャンピオンになるのは月に行くことよりも難しい」と言われていたそうですね−
「そうです。スポーツジャーナリストの二宮清純さんが言ってくれたんですよね」
−ご自身では自信はありました? 手ごたえというか−
「手ごたえなんかないですよ。ただ、決まったらもう行くしかないので」
−一見怖いものは無いように見えますが、実際はかなり恐怖を感じてらしたそうですねー
「恐怖感だらけですよ。『負けて全てがゼロになるんじゃないか』っていうような余計なことを考えるんですよ」
−竹原さんみたいな方でもそうなんですか−
「僕みたいな人だからそうなんですよ。ビビりですしね。毎回、不安で不安でしょうがなかったですね」
−ずっと勝ち続けて無敗のまま23戦23勝で世界チャンピオンに挑戦されました−
「それまで日本人では挑戦者すらいなかったですからね。試合が決まってからずっと怖くてたまらなかったんですけど、みんなに『勝てるわけがない』と言われていたんですよ。自分で言うのならともかく、他人から言われると、やっぱり頭に来るんですよね(笑)。それで『絶対に勝ってやる!』って。チャンピオンのカストロは、結構肉付きが良かったので、『あんなデブに負けてたまるか!』って思いました」
激戦を制し世界ミドル級王者となったが、初防衛戦ではレフェリーストップ負けに。その後、網膜剥離(もうまくはくり)が判明し引退。
−世界チャンピオンになって、初防衛戦はレフェリーストップとなりましたが、網膜剥離にならなかったら再挑戦されていたでしょうね−
「どうでしょう。やっていたかもしれませんけど、わからないですね。でも、金のためじゃないですからね。金は欲しかったですけど…。K-1とかにも誘われたんですよ。K-1は1試合1億円で、年に2回と言われましたから2億円ですよね。金のためだけだったらやってると思いますけど、金じゃないですから」
−やらなかった理由は?−
「僕はボクサーをやっていて、網膜剥離でやめた人間ですからね。それなのに金のためにK-1をやったら、ボクシングファンを裏切ることになると思ったんですよ。そういうのがあってやめました」
[匿名さん]
K-1で勝ってボクサーの強さを証明すれば裏切ったことにならないけどね。むしろ恩返し。
[匿名さん]