旧陸軍の雪中行軍は日露戦争前の1902年1月、ロシアの侵攻に備えて実施。異なるルートを進んだ二つの部隊のうち、青森歩兵第5連隊(青森隊)が吹雪で遭難して199人が死亡したが、弘前隊は38人(従軍記者1人含む)が全員生還した。少数精鋭で臨み、地元住民の案内人を手配するなど入念に準備していたことが生還につながったとされる。
今回の機動訓練は1月29日から今月5日まで2部に分かれて実施。前半は先発隊として第9偵察隊の23人が、後半は第39普通科連隊の35人が、当時と同じ約224キロに及ぶルートを、スキーや一部の行程では車両を使って進んだ。
同普通科連隊(隊長・小又道1等陸尉)では、各中隊から選ばれた隊員らが今月2日、小銃や食料が入ったリュックを背負って同県平川市切明の温川地区を出発。夜は集会所に泊まるなどして、十和田湖—十和田市—八甲田—青森市内を通り、弘前駐屯地に帰還した。
途中では、十和田市中村地区に建立されている案内人7人の功績を顕彰する「東道旌表碑(とうどうせいひょうひ)」や、青森市横内の「雪中行軍遭難記念像」を訪れ、先人の偉業に敬意を払い、犠牲者に弔意を表した。
参加した猪股智樹2等陸曹(38)は「視界が約20メートルでお互いの声があまり聞こえないこともあったが、最新の装備を駆使して踏破できた」と振り返り、「昔の装備ながら、厳しい環境で果敢に訓練に挑んだ先人たちのようにならなければならない」と話していた。
今回の機動訓練は1月29日から今月5日まで2部に分かれて実施。前半は先発隊として第9偵察隊の23人が、後半は第39普通科連隊の35人が、当時と同じ約224キロに及ぶルートを、スキーや一部の行程では車両を使って進んだ。
同普通科連隊(隊長・小又道1等陸尉)では、各中隊から選ばれた隊員らが今月2日、小銃や食料が入ったリュックを背負って同県平川市切明の温川地区を出発。夜は集会所に泊まるなどして、十和田湖—十和田市—八甲田—青森市内を通り、弘前駐屯地に帰還した。
途中では、十和田市中村地区に建立されている案内人7人の功績を顕彰する「東道旌表碑(とうどうせいひょうひ)」や、青森市横内の「雪中行軍遭難記念像」を訪れ、先人の偉業に敬意を払い、犠牲者に弔意を表した。
参加した猪股智樹2等陸曹(38)は「視界が約20メートルでお互いの声があまり聞こえないこともあったが、最新の装備を駆使して踏破できた」と振り返り、「昔の装備ながら、厳しい環境で果敢に訓練に挑んだ先人たちのようにならなければならない」と話していた。