<岩手・宮城内陸地震10年>くりでん、保存の情熱継ぐ<岩手・宮城内陸地震10年>くりでん、保存の情熱継ぐ
いずれも動く状態で保存されている「くりでん」の車両。右奥には「くりでんミュージアム」がある=宮城県栗原市のくりはら田園鉄道公園で、山田研撮影
2008年の岩手・宮城内陸地震から10年を前に、犠牲になった岸由一郎さん(当時35歳)の追悼行事が6月2日午後1時から宮城県栗原市若柳の「くりでんミュージアム」である。岸さんは廃線になった「くりはら田園鉄道」の保存に向けた会議に出席後に亡くなった。その熱意は、動く車両保存や博物館として結実している。【山田研】
◇2日、岸さん追悼
同鉄道は宮城県登米市と栗原市をつなぐ約26キロで1921年に部分開通した。「くりでん」の愛称で親しまれたが、利用者の減少で07年3月、86年の歴史に幕を閉じた。
栗原市は08年2月、くりでんの保存活用に関する検討委員会を設置。委員の一人が鉄道博物館(さいたま市)の学芸員、岸さんだった。当時くりでんの清算会社課長で、今は「くりでん保存愛好会」会長を務める鎌田健さん(71)は地震発生前日、くりでんの車両基地があった旧若柳駅(栗原市若柳)に岸さんを案内。岸さんが「貴重ですね」と話したのを覚えている。
岸さんはこの日、栗原市内の温泉旅館に宿泊。翌朝、旅館を襲った地震の土石流にのまれて亡くなった。岸さんから車両保存を訴えられていたという当時の市長、佐藤勇さん(75)は地震後、岸さんの父親から「息子は自分のやっていることに誇りを持って好きな道に進んだ。息子の遺志は遂げて」と静かに伝えられたという。
検討委はその後、岸さんと親しかった青山学院大の高嶋修一教授(日本経済史)を委員に加え報告書を提出。それに沿う形で市は10年、旧若柳駅で車両保存を始め、今も最大900メートルを往復運転している。17年には同駅近くの車庫跡を活用して「くりでんミュージアム」を開館し、入館者は1年間で1万8450人とにぎわっている。
高嶋教授は「車両だけでなく鉄道会社の資料を網羅しているのは、彼がみんなの心に火を付けたから」と功績を語る。
いずれも動く状態で保存されている「くりでん」の車両。右奥には「くりでんミュージアム」がある=宮城県栗原市のくりはら田園鉄道公園で、山田研撮影
2008年の岩手・宮城内陸地震から10年を前に、犠牲になった岸由一郎さん(当時35歳)の追悼行事が6月2日午後1時から宮城県栗原市若柳の「くりでんミュージアム」である。岸さんは廃線になった「くりはら田園鉄道」の保存に向けた会議に出席後に亡くなった。その熱意は、動く車両保存や博物館として結実している。【山田研】
◇2日、岸さん追悼
同鉄道は宮城県登米市と栗原市をつなぐ約26キロで1921年に部分開通した。「くりでん」の愛称で親しまれたが、利用者の減少で07年3月、86年の歴史に幕を閉じた。
栗原市は08年2月、くりでんの保存活用に関する検討委員会を設置。委員の一人が鉄道博物館(さいたま市)の学芸員、岸さんだった。当時くりでんの清算会社課長で、今は「くりでん保存愛好会」会長を務める鎌田健さん(71)は地震発生前日、くりでんの車両基地があった旧若柳駅(栗原市若柳)に岸さんを案内。岸さんが「貴重ですね」と話したのを覚えている。
岸さんはこの日、栗原市内の温泉旅館に宿泊。翌朝、旅館を襲った地震の土石流にのまれて亡くなった。岸さんから車両保存を訴えられていたという当時の市長、佐藤勇さん(75)は地震後、岸さんの父親から「息子は自分のやっていることに誇りを持って好きな道に進んだ。息子の遺志は遂げて」と静かに伝えられたという。
検討委はその後、岸さんと親しかった青山学院大の高嶋修一教授(日本経済史)を委員に加え報告書を提出。それに沿う形で市は10年、旧若柳駅で車両保存を始め、今も最大900メートルを往復運転している。17年には同駅近くの車庫跡を活用して「くりでんミュージアム」を開館し、入館者は1年間で1万8450人とにぎわっている。
高嶋教授は「車両だけでなく鉄道会社の資料を網羅しているのは、彼がみんなの心に火を付けたから」と功績を語る。