870
2023/11/26 14:42
爆サイ.com 南関東版

サッカー国内





NO.7201210

デッツォーラ島根④
島根県1部に降格。ここから再興なるか?
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#8212023/11/22 16:01
2011年
3月7日:HDD事業をウェスタン・デジタルに売却することを発表。
8月4日:三菱重工業と三菱電機と水力発電事業を統合し、10月1日付で新たに日立三菱水力株式会社が誕生することを発表。
9月8日:米子会社を通じて外部記憶装置(ストレージ)事業会社の米ブルーアークを買収したと発表。
10月5日:米子会社日立データシステムズ社を通じて南アフリカ共和国のIT機器販売・サービス会社ショウデンデータシステムズ社を買収したと発表。
10月17日:中国国家発展改革委員会の指導のもと重慶市と資源循環・低炭素経済分野における協力について合意。
2012年
1月23日:1956年より続けてきたテレビの自社生産を本年9月30日限りで終了する旨を公式発表(日立ブランドのテレビ販売・開発は10月1日以降も継続されるものの、製造は海外メーカーへ委託)。
11月29日:三菱重工業と、火力発電とその関連事業を統合することを発表。その後2014年2月1日に三菱日立パワーシステムズ株式会社(現在:三菱パワー株式会社)が設立された。
2013年
4月1日:完全子会社の日立プラントテクノロジーを吸収合併。
2015年
2月11日:日立の子会社である米Hitachi Data Systemsが、ビッグデータ利活用を事業とする米Pentaho社を買収。
2月24日:イタリアのフィンメッカニカの鉄道事業である「アンサルドブレーダ」、「アンサルドSTS」の買収を基本合意したと発表。買収額は約2,500億円。
9月15日:日本の企業としては2社目の企業名型gTLD「.hitachi」の運用を開始。

[匿名さん]

#8222023/11/22 16:03
2016年
4月1日:日立メディコ(現在:日立ヘルスケア・マニュファクチャリング)及び日立アロカメディカルの両社の製造部門以外を会社分割により継承。
5月10日:日立、米国日立データシステムズ社、米国日立コンサルティング社などの出資のもと、IoTプラットフォームLumada開発チームとなるHitachi Insight Groupが活動開始。
5月10日:IoTプラットフォームLumadaのサービス提供を開始。
5月19日:日立物流の保有株式の一部をSGホールディングスに譲渡し、連結から除外。
10月3日:金融サービスを構成する日立キャピタルの保有株式の一部を三菱UFJフィナンシャル・グループなどに譲渡し、連結から除外。
2017年
3月29日:日立工機の保有全株式(間接保有含む)をコールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)傘下のHKホールディングスに譲渡。
9月19日:Hitachi Data Systems、Pentaho、Hitachi Insight Groupを統合し、産業IoTの新会社Hitachi Vantaraを設立。
12月1日:茨城県北部で乗合バス事業などを手掛けている日立電鉄交通サービスの保有全株式をみちのりホールディングスへ譲渡し、連結から除外。

[匿名さん]

#8232023/11/22 16:04
2018年
4月3日:情報関連機器を生産する子会社、日立情報通信マニュファクチャリングの株式の97%をユー・エム・シー・エレクトロニクスに譲渡することを発表。7月2日、UMC・Hエレクトロニクス株式会社となる。
8月1日:2年、3年以内に10万人の社員にテレワークを実施する予定。
9月25日:Woooブランドのテレビの国内販売を終了させることを発表。10月に販売停止。
12月18日:日立化成の全株式をTOB(株式公開買い付け)で昭和電工に、併せて画像診断機器事業を富士フイルムホールディングスに売却すると発表。
2019年
4月1日:4月1日付で欧州の以下の鉄道部門各子会社を商号変更。
日立レール・ヨーロッパ(Hitachi Rail Europe Ltd.)→日立レール・リミテッド(Hitachi Rail Ltd.)
日立レールイタリア(Hitachi Rail Italy S.p.A.)→日立レールS.p.A(Hitachi Rail S.p.A.)
アンサルドSTS(Ansaldo STS S.p.A.)→日立レールSTS(Hitachi Rail STS S.p.A.)
2020年
4月21日:昭和電工が、日立化成へのTOB(株公開買い付け)が成立したと発表。日立化成は4月28日付で日立製作所の子会社でなくなり、昭和電工の傘下に。
12月16日:日立グローバルライフソリューションズの海外事業の株式60%をトルコのアルチェリクに譲渡することで合意。2021年春に日立グローバルライフソリューションズとアルチェリクの合弁会社設立する予定。

[匿名さん]

#8242023/11/22 16:04
2021年
3月31日:GlobalLogicを85億ドル(約9180億円)で買収すると発表した。
8月4日:フランスのタレス・グループから鉄道信号部門(en:Thales Rail Signalling Solutions)を16.6億ユーロ(約2150億円)で買収すると発表。
2022年
1月14日:日立建機の株式26%を伊藤忠商事、日本産業パートナーズに売却すると発表。
4月28日:日立物流の株式40%のうち30%を売却すると発表。
9月:Bリーグチームである「サンロッカーズ渋谷」運営会社の全株式並びに経営権をセガサミーホールディングスに売却予定。
8月23日:日立建機の約51%を保有する株式26%分について、伊藤忠商事と日本産業パートナーズが共同出資するHCJIホールディングスに売却した。これにより日立製作所の連結子会社から外れて持分法適用関連会社となる。
9月30日:連結子会社である日立エナジーについて、ABBの保有株である19.9%を取得し、完全子会社化することを発表。
10月18日:日立レールのアメリカ・メリーランド工場を着工。ワシントンメトロ用の車両を製造する予定。
2024年
4月1日 - 日立製作所のヘルスケア事業本部を会社分割により、日立ハイテクに承継予定。

[匿名さん]

#8252023/11/22 16:05
◾️スポーツ事業

・柏レイソル(Jリーグ)
1940年に創部された。日立製作所本社サッカー部が前身で現在も日立が大株主。ホームスタジアムの日立柏サッカー場は日立の敷地内にあるクラブ所有のスタジアムである。

・日立製作所本社サッカー部(新)
現・レイソルとは別に本社のサッカー部が東京都社会人サッカーリーグに参加している。社業に専念してレイソルには入団しなかった選手や、日立本社に所属するサッカー愛好家による同好会。

・日立製作所茨城サッカー部

・日立製作所笠戸サッカー部

・日立Astemoリヴァーレ(Vリーグ女子)

・日立Astemo佐和事業所のバレーボール部(旧「日立佐和リヴァーレ」)で、かつての本社バレーボール部(日立ベルフィーユ)とは別の組織。

・日立製作所硬式野球部(社会人野球)

・日立製作所ラグビー部(トップイーストリーグDiv.2)

・日立ハイテク クーガーズ(Wリーグ)

・日立ハイテクノロジーズの女子バスケットボール部。

・日立サンディーバ(JDリーグ)
前身はソフトウェア事業部の「日立ソフトウェア女子ソフトボール部」。ソフトボール日本代表選手のほかに斎藤春香監督も輩出している。

・日立情報通信エンジニアリングバドミントン部(バドミントンS/Jリーグ)

[匿名さん]

#8262023/11/22 16:07
◾️かつて存在したチーム

日立グループでは、事業再編の一環としてスポーツ事業についても大幅に整理を行った。そのため、バレーボールを中心に廃部が相次いだ。

・日立国分トルメンタ(バレーボール・Vリーグ男子):廃部

・日立ベルフィーユ(バレーボール・Vリーグ女子):廃部

・茂原アルカス(バレーボール・Vリーグ女子):廃部

・日立高崎→日立&ルネサス高崎(ソフトボール日本リーグ):撤退
ルネサス テクノロジとの合同運営を経てルネサスの単独チームに移行。2015年にビックカメラに移管され「ビックカメラ高崎ビークイーン」として現存。
分社化する以前は「日立ソフトウェア」と並んで、同一法人の下に女子ソフトボールの有力チームが2チーム並存していた状態であった。

・日立戸塚レパード(バスケットボール・Wリーグ):廃部

・日立甲府(バスケットボール・Wリーグ):撤退、クラブチーム化
1999年に日立本体がチーム運営から撤退し「甲府クィーンビーズ」に改称。
ルネサス テクノロジの支援時期を経て、2009年以降は一般社団法人の運営するクラブチーム「山梨クィーンビーズ」として現存。

・日立ハリケーンズ(アメリカンフットボール・Xリーグ):撤退、クラブチーム化
2003年にルネサス テクノロジに運営移管・「ルネサスハリケーンズ」に改称後、2004年にクラブチーム化。
現在はルネサスとサンディスクがメインスポンサーとなり「ハリケーンズ」として現存。

[匿名さん]

#8272023/11/22 16:08
・日立栃木サッカー部(サッカー・JFL):撤退、クラブチーム化
日立アプライアンスの実業団チーム。2006年にクラブチーム化して「栃木ウーヴァFC」(栃木U) に改称。2016年まで日立アプライアンスが同クラブのスポンサーになっていた。
2017年に関東リーグ降格。2018年に日本理化工業所がクラブ運営に参画、同年末に「栃木シティフットボールクラブ」に改称して現存。

・サンロッカーズ渋谷(Bリーグ):売却
2000年に本社バスケットボール部(日立本社ライジングサン)と関西支社バスケットボール部(日立大阪ヘリオス)の統合で設立。2015年に運営母体を分社化。2022年9月にチーム運営会社の全株式並びに経営権をセガサミーホールディングスに売却されたが、現存。


◾️冠スポンサー

日立3ツアーズ選手権(ゴルフ、日本の男子レギュラー、男子シニア、女子の3大ツアーチーム対抗戦)
1988年 - 1997年はゴルフ日本シリーズの特別協賛を務めており、大会名も「ゴルフ日本シリーズ日立カップ」であった。


◾️文化事業

日立評論
ひたち (雑誌)
HITACHI NOW
どっきりドクター
和鋼博物館
鉄人28号(モノクロ:実写版):第1話は日立製作所日立工場でロケが行われた。
HANDSHAKING
バブルへGO!! タイムマシンはドラム式
阪急電車 片道15分の奇跡


◾️その他

大阪国際女子マラソン:2012年大会の中継では後半の各社スポンサーとして提供。この時は大阪関連として珍しく最新版の鉄道関連技術(自動改札システム)のCMが流れていた。
全国高校サッカー選手権大会:1977年度 - 1989年度まで協賛。

[匿名さん]

#8282023/11/24 15:23
船橋市立船橋高等学校(ふなばししりつ ふなばしこうとうがっこう)は、千葉県船橋市市場四丁目にある市立高等学校。


◾️サッカー部

監督に布啓一郎が就任してから力を付け、Jリーガーも多数輩出している。天皇杯全日本サッカー選手権大会に出場した2003年度のチームは、当時のJリーグ王者横浜F・マリノス相手に2対2で延長戦まで戦い抜きPK戦まで健闘したことで知られる。世界・主要全国タイトルは、全国高校最多の計21回である。

世界招待大会
オッテンカップ世界ユース選手権大会: 優勝1回(2000年)
サニックス杯国際ユースサッカー大会: 優勝2回(2003年、2017年)
全国大会
全国高等学校サッカー選手権大会: 優勝5回(1994年度、1996年度、1999年度、2002年度、2011年度)
高校総体: 優勝9回(1987年、1988年、1998年、2001年、2007年、2008年、2010年、2013年、2016年)
高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会: 優勝1回(2003年)
天皇杯全日本サッカー選手権大会: 3回戦進出(2003年)
全国招待大会
FBS杯高校チャンピオン大会: 優勝3回(1998年、1999年、2004年)
地域リーグ
高円宮杯U-18サッカーリーグ プリンスリーグ関東: 優勝2回(2003年、2007年)

[匿名さん]

#8292023/11/24 15:24
◾️著名な出身者: サッカー

名前 出身 生 卒 Pos 進学先 所属 現所属または主な経歴

安達亮 兵庫県西宮市 1969 1987 専修大学 横浜フリューゲルス 現役引退。カターレ富山監督

境秋範 千葉県 1970 1988 GK 専修大学 川崎フロンターレ 現役引退

小川誠一 千葉県千葉市 1970 1988 DF 名古屋グランパス 現役引退

井尻明 福島県双葉郡富岡町 1970 1988 DF 駒澤大学 京都サンガ 現役引退

野口幸司 千葉県 1970 1988 MF ベルマーレ平塚(日本代表) 現役引退

庄司孝 千葉県 1971 1989 MF 柏レイソル デッツォーラ島根

永田崇 千葉県 1972 1990 FW 明治大学 京都サンガ 現役引退

小原一典 千葉県船橋市 1972 1990 カンボジア技術委員長

高田昌明 千葉県習志野市 1973 1991 MF 横浜フリューゲルス(バルセロナ五輪代表) 現役引退

和田潤 千葉県 1973 1991 FW 専修大学 FC東京 現役引退

鬼木達 千葉県船橋市 1974 1992 MF 鹿島アントラーズ 現役引退。川崎フロンターレ監督

渡辺敦夫(英語版) 東京都 1974 1992 DF 日本大学 浦和レッズ 現役引退

水野淳(英語版) 千葉県 1974 1992 MF ジェフ市原 現役引退

秋葉忠宏 千葉県千葉市若葉区 1975 1993 MF ジェフ市原(アトランタ五輪代表) 現役引退。水戸ホーリーホック監督

鈴木和裕 東京都 1976 1994 DF ジェフ市原 現役引退

[匿名さん]

#8302023/11/24 15:25
茶野隆行 千葉県市川市 1976 1994 DF ジェフ市原(日本代表) 現役引退

森崎嘉之 千葉県 1976 1994 FW ジェフ市原 現役引退

鈴木正人 千葉県 1977 1995 GK 専修大学 湘南ベルマーレ 現役引退

城定信次 東京都羽村市 1977 1995 DF 浦和レッズ 現役引退

松森亮 千葉県 1977 1995 DF ジュビロ磐田 現役引退

砂川誠 千葉県習志野市 1977 1995 MF 柏レイソル 現役引退

式田高義 千葉県 1977 1995 MF ジェフ市原 現役引退

佐藤陽彦 東京都 1978 1996 DF 京都サンガ 現役引退

髙木理己 千葉県 1978 1996 帝京大学 FC今治コーチ

吉川京輔 千葉県 1978 1996 DF 筑波大学 コンサドーレ札幌 現役引退

中村直志 千葉県船橋市 1978 1996 MF 日本大学 名古屋グランパス(日本代表) 現役引退

北嶋秀朗 千葉県習志野市 1978 1996 FW 柏レイソル(日本代表) 現役引退。大宮アルディージャコーチ

遠藤大志 千葉県 1979 1997 GK FC東京 現役引退

山根伸泉 千葉県千葉市 1979 1997 MF 国士舘大学 浦和レッズ VONDS市原SECOND

軽部雅也 千葉県 1979 1997 DK 明治大学 アルビレックス新潟 現役引退

松田正俊 千葉県千葉市 1980 1998 FW FC東京 現役引退

西紀寛 大阪府高槻市 1980 1998 FW ジュビロ磐田(日本代表) 現役引退

黒河貴矢 愛媛県周桑郡丹原町 1981 1999 GK 清水エスパルス(アテネ五輪代表) 現役引退

[匿名さん]

#8312023/11/24 15:26
羽田憲司 千葉県市川市 1981 1999 DF 鹿島アントラーズ 現役引退。松本山雅FCコーチ

原竜太 東京都目黒区 1981 1999 FW 名古屋グランパス 現役引退

植草裕樹 千葉県市川市 1982 2000 GK 川崎フロンターレ 現役引退

中澤聡太 東京都三鷹市 1982 2000 DF 柏レイソル 現役引退

永井俊太 東京都 1982 2000 MF 柏レイソル 現役引退

本橋卓巳 東京都西東京市 1982 2000 MF 横浜F・マリノス 現役引退

松ヶ枝泰介 香川県 1982 2000 MF 明治大学 ジェフ千葉 現役引退

秋田政輝 千葉県八千代市 1982 2000 MF 筑波大学 水戸ホーリーホック 市川サッカークラブ

阿部翔平 神奈川県 1983 2001 DF 筑波大学 名古屋グランパス(日本代表) SHIBUYA CITY FC

堀切良輔 千葉県 1983 2001 MF 東洋大学 Honda FC 現役引退

西望実 大阪府高槻市 1983 2001 MF 立命館大学 Honda FC 現役引退

大久保裕樹 千葉県市原市 1984 2002 DF サンフレッチェ広島 現役引退

青木良太 大阪府高槻市 1984 2002 DF ガンバ大阪 現役引退

小宮山尊信 千葉県船橋市 1984 2002 DF 順天堂大学 横浜F・マリノス(日本代表) 現役引退

小川佳純 東京都 1984 2002 MF 明治大学 名古屋グランパス(日本代表) 現役引退

高安亮介 千葉県千葉市 1984 2002 MF 国際武道大学 栃木SC 現役引退

[匿名さん]

#8322023/11/24 15:27
原一樹 千葉県松戸市 1984 2002 FW 駒澤大学 清水エスパルス 現役引退

佐藤優也 千葉県市川市 1985 2003 GK ヴァンフォーレ甲府 ロアッソ熊本

増嶋竜也 千葉県千葉市 1985 2003 DF FC東京 現役引退

石井秀典 千葉県 1985 2003 DF 明治大学 モンテディオ山形 徳島ヴォルティス

鈴木修人 千葉県船橋市 1985 2003 MF 早稲田大学 鹿島アントラーズ(北京五輪代表) 現役引退

カレン・ロバート 茨城県土浦市 1985 2003 FW ジュビロ磐田(北京五輪代表) 現役引退

高橋昌大 茨城県古河市 1985 2003 FW 中京大学 水戸ホーリーホック 現役引退

中林洋次 神奈川県横浜市 1986 2004 GK サガン鳥栖 横浜F・マリノス

渡辺広大 千葉県 1986 2004 DF ベガルタ仙台 ザスパクサツ群馬

村山智彦 千葉県市原市 1987 2005 GK 静岡産業大学 SAGAWA SHIGA FC 松本山雅FC

笠原昂史 埼玉県 1988 2006 GK 明治大学 水戸ホーリーホック V・ファーレン長崎

小山泰志 山梨県 1988 2006 DF FC東京 現役引退

佐藤大基 千葉県 1988 2006 MF ザスパ草津 現役引退

鹿野崇史 千葉県 1988 2006 MF 明治大学 東京武蔵野シティFC 現役引退

上福元直人 千葉県 1989 2007 GK 順天堂大学 大分トリニータ 京都サンガ

橋本真人 千葉県市川市 1989 2007 DF 浦和レッズ 福井ユナイテッドFC

山田拓巳 東京都 1989 2007 MF モンテディオ山形 モンテディオ山形

[匿名さん]

#8332023/11/24 15:28
若狭友佑 千葉県松戸市 1989 2007 MF 青山学院大学 東京武蔵野シティFC 現役引退

加藤弘堅 千葉県 1989 2007 MF 京都サンガ 東京ヴェルディ

中村充孝 大阪府堺市 1990 2008 MF 京都サンガ いわてグルージャ盛岡

水野輝 千葉県 1991 2009 MF 明治大学 FC琉球 ボーウング・ケットFC

馬渡和彰 東京都 1991 2009 DF 東洋大学 ガイナーレ鳥取 浦和レッズ

今瀬淳也 千葉県市原市 1992 2010 DF 国士舘大学 水戸ホーリーホック カターレ富山

石原幸治 千葉県千葉市 1992 2010 MF 明治大学 東京武蔵野シティFC 東京武蔵野シティFC

和泉竜司 三重県四日市市 1993 2011 MF 明治大学 名古屋グランパス 名古屋グランパス

鈴木潤 愛知県名古屋市 1993 2011 DF 中京大学 FC岐阜 現役引退

小出悠太 千葉県 1994 2012 DF 明治大学 ヴァンフォーレ甲府 大分トリニータ

磐瀬剛 千葉県鎌ケ谷市 1995 2013 MF 京都サンガ ザスパクサツ群馬

石田雅俊 千葉県習志野市 1995 2013 FW 京都サンガ   安山グリナーズFC

柴戸海 神奈川県横浜市 1995 2013 MF 明治大学 浦和レッズ 浦和レッズ

志村滉 千葉県 1996 2014 GK ジュビロ磐田 大宮アルディージャ

椎橋慧也 千葉県 1997 2015 MF ベガルタ仙台 柏レイソル

永藤歩 千葉県 1997 2015 FW モンテディオ山形 現役引退

[匿名さん]

#8342023/11/24 15:30
井岡海都 千葉県 1998 2016 GK 仙台大学 ベガルタ仙台 ベガルタ仙台

真瀬拓海 千葉県 1998 2016 DF 阪南大学 ベガルタ仙台 ベガルタ仙台

杉岡大暉 東京都足立区 1998 2016 DF 湘南ベルマーレ (日本代表) 湘南ベルマーレ

原輝綺 埼玉県 1998 2016 DF アルビレックス新潟(日本代表) 清水エスパルス

高宇洋 神奈川県 1998 2016 MF ガンバ大阪 アルビレックス新潟

金子大毅 神奈川県 1998 2016 MF 神奈川大学 湘南ベルマーレ 京都サンガ

杉山弾斗 東京都 1999 2017 MF ジェフ千葉 ヴェノスクロノス都農

福元友哉 神奈川県 1999 2017 FW ファジアーノ岡山 FC大阪

藤田雄士 神奈川県 1999 2017 DF 神奈川大学 ブラウブリッツ秋田 ブラウブリッツ秋田

長谷川凌 東京都 1999 2017 GK 水戸ホーリーホック 高知ユナイテッドSC

田中悠也 千葉県 2000 2018 GK ギラヴァンツ北九州 ギラヴァンツ北九州

井上怜 千葉県 2001 2018 MF 東洋大学 水戸ホーリーホック 水戸ホーリーホック

鈴木唯人 神奈川県 2001 2019 MF 清水エスパルス RCストラスブール

賀澤陽友 神奈川県 2001 2019 FW 福島ユナイテッドFC 福井ユナイテッドFC

畑大雅 東京都 2002 2019 DF 湘南ベルマーレ 湘南ベルマーレ

石田侑資 徳島県 2002 2020 DF ガイナーレ鳥取 ガイナーレ鳥取

[匿名さん]

#8352023/11/26 14:08
全国高等学校サッカー選手権大会(ぜんこくこうとうがっこうサッカーせんしゅけんたいかい、英語: All Japan High School Soccer Tournament、全国高校サッカー選手権大会)は、高校男子サッカー部の頂点を決めるサッカーの大会。各都道府県代表48校(東京都は2校)による、トーナメント戦で行われる。通称「選手権」「冬の国立」「冬の高校サッカー」。


◾️開始年
1918年
◾️主催
日本サッカー協会
民間放送43社
◾️参加チーム数
48
◾️前回優勝
岡山学芸館高等学校(1回目)
◾️最多優勝
御影師範(11回)
第102回大会(2023年度)

全国高等学校体育連盟の区分では、全国高等学校選抜大会に含まれている。全国高等学校総合体育大会、高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ(かつては、国民体育大会だった)と並ぶ高校サッカー3大全国大会のひとつ。

[匿名さん]

#8362023/11/26 14:09
◾️歴史

【日本フットボール優勝大会の開始】

本大会の前身である日本フットボール優勝大会の第1回大会は大阪毎日新聞社の主催により、1918年1月(1917年度)に、大阪府豊能郡豊中村(現・豊中市)の豊中グラウンドを会場として開催された。

関東や関西、広島など日本の各地で1910年代初頭から個別に小規模の学生サッカーの試合が行われていた。そうしたなか1917年5月に東京で開催された第3回極東選手権競技大会(極東選手権競技大会サッカー競技)は、国内の各サッカーチームにとって大きな刺激となり、各地でサッカー大会が開かれるようになっていた。

また、1910年代から1920年代にかけて関西地方では、朝日新聞大阪本社と大阪毎日新聞社(現:毎日新聞社)を中心に主新聞拡販を目的とした多くのスポーツイベントを開催されており、本大会もそのひとつであった。

[匿名さん]

#8372023/11/26 14:11
◾️創設の経緯

この大会は、もともとラグビーの関係者が大阪毎日新聞社に、ラグビー競技の大会として持ち込んだ企画で、関東の私学を関西に招いて試合をしたいという狙いがあって大会名に「日本」という名を冠した。しかしラグビーは、関西には当時3チームしかなく、ラグビー単独では大会が成立しなかった。サッカーの場合は、関西には当時10以上のチームが存在したことから、サッカー(当時はアソシエーションフットボールと呼ばれていた。通称ア式)とラグビーとの共同開催として「日本フートボール優勝大會」が行われた。が「日本フートボール優勝大會」という名前を付けていたことが、後に一本化する際に優位に働いたとされる。つまりサッカーはラグビーの付属大会として始まり、ラグビー部門が前述の理由で付けた「日本フートボール優勝大會」という大袈裟な名前のおかげで生き残ったということになる。なお、サッカー部門と同時に始まったラグビー部門の方も全国高校ラグビー大会の前身となっている。この他、「日本フートボール優勝大會」と銘打っているように当初は「中等学校蹴球大会」という計画ではなかったため旧制中学校とは年長となる関西学院高等部が第1回から第6回大会まで、神戸高商が第3回大会に出場した。当時の関西にこれら旧制高等学校、旧制専門学校以上のカテゴリーの蹴球部がなかったから問題がなかったものと思われ『関西サッカーのあゆみ』30、31頁には「日本フートボール大會ですから。なんでも来いや」と記述されている。しかし実際は何でも参加させた訳ではなく、第1回から第8回大会までは関西以外からのチームの参加はなく、またラグビー部門のように(例えば関東から東京蹴球団や東京高等師範などを参加させたということもない。

[匿名さん]

#8382023/11/26 14:12
こうした他地域からの参入があれば、試合結果が変わるのは勿論、「高校サッカー選手権」の前身である「中学校蹴球大会」とは認められなかったかも知れない。後述するが、同時期に各地で「全国中等学校蹴球大会」と名乗る大会が数多く開催されたが、どれも参加は師範学校と旧制中学校のみで、これ以上のカテゴリーのチームの参加はなく、またこれらの大会には他地域からの参加があった(#記録上の問題点)。大会は大阪朝日新聞社主催の全国中等学校優勝野球大会に対抗するべく、ラグビー競技の大会をメインとして始めたため、サッカー関係者には相談がなかった。『日本サッカーのあゆみ』には「蹴球関係者側の意見を尊重してもらう余地もなく、新聞社の方が先に立った」と書かれている。この毎日新聞が主催して大阪で始まった大会を現在の高校選手権の前身としている。

[匿名さん]

#8392023/11/26 14:13
◾️他地域の大会

同じ年に関東地区で「關東中等学校蹴球大會」(かんとうちゅうとうがっこうしゅうきゅうたいかい=東京蹴球団主催、朝日新聞社の後援)、名古屋では新愛知新聞社(現:中日新聞社)の主催で「東海蹴球大會」が別々に開催され、1918年以降にも引き続いて開かれた。「關東中等学校蹴球大會」は東京蹴球団が東京朝日新聞と組んで開催したもので第1回大会は、中等學校優勝大会の外、東京高師、帝大、外人(外国人チーム)等の模範試合が行われ、大日本体育協会の当時の会長・嘉納治五郎が名誉会長を務め、久邇宮邦久王、久邇宮邦英王、山階宮藤麿王、山階宮萩麿王、山階宮芳麿王、竹田宮恒徳王6名の台臨、さらに内野台嶺大会委員長と親交のあった英国大使グリーン、副領事・ウィリアム・ヘーグの来場まであった。1936年に出版された『大日本體育協會史』下巻内の<大日本蹴球協會史>や、やはり日本体育協会が監修して1988年に出版した『保健体育スポーツ指導選書 最新スポーツ大事典』の中では、この「關東中等学校蹴球大會」が詳述され、毎日新聞主催の大会はほとんど書かれていない。この他「關東中等学校蹴球大會」を毎日新聞主催の大会と同様に高校選手権の前身と見なし、歴代優勝校年表を毎日新聞主催の大会と並列に記載した文献もある。このように古いサッカーの文献に「關東中等学校蹴球大會」を重きにおいて書かれたものがあるのは、大日本蹴球協會の中での勢力争いが関係していると考えられる。

[匿名さん]

#8402023/11/26 14:14
大日本蹴球協會はこの大会の3年後の1921年に設立されるが、設立にあたり中心的に動いたのが内野台嶺ら東京高等師範の関係者で「關東蹴球大會」を主催した東京蹴球団を設立したのも内野、後援した朝日新聞社側の担当者が東京府青山師範学校OBで東京蹴球団の選手でもあった山田午郎、「關東中等学校蹴球大會」の名誉会長を務めた嘉納治五郎は、大日本体育協会会長でもあり当時、東京高師の校長でもあった。大日本蹴球協会も初期の間は、師範学校系の幹部たちが力を持っていたため、彼らの多くが関与した「關東中等学校蹴球大會」の方をある時期までは支持していたためと見られる。毎日新聞主催の大会は、当初は大日本蹴球協会がタッチできなかったと言われるが第9回大会からの全国大会移行にあたっては野津謙ら、大日本蹴球協会の大学OBが関与したため彼ら大学OBが大日本蹴球協会内で力を増すに連れ「毎日新聞社主催大会」が支持を増やしていったのかも知れない[独自研究?]→#全国大会へ(第9回〜)。

[匿名さん]

#8412023/11/26 14:15
翌1919年には神戸高商主催(朝日新聞社後援)で、毎日新聞主催の大会とほぼ同じ出場チームによる「全国中等学校蹴球大会」が、1921年から名古屋蹴球団主催、新愛知新聞社(現:中日新聞社)後援による「全国中等学校蹴球大会」が、1924年には岐阜蹴球団主催の「全国中等学校蹴球大会」、八高主催の「全国中等学校蹴球大会」、東京高等師範学校主催の「全国中等学校蹴球大会」が、1925年には関西学院高等部主催(大阪毎日新聞社後援)の「全国中等学校ア式蹴球大会」が、その他刈谷中学や広島高専主催でも「全国中等学校蹴球大会」と名乗る大会が、その後全国各地で新聞社や蹴球団、大学、旧制高校、師範学校など、学校主催による「中等学校蹴球大会」がいくつも行われるようになり、競技会の乱立時代といわれた。1932年から1933年にかけては、全国各地で22も中等学校のサッカー大会があった。1933年に関西大学主催で行われた「関西中等学校蹴球大会」などは、他地域からの参加も含めて37校が集まる大きな大会で同年の毎日新聞主催大会の参加12校を大きく上回る規模であった。八高主催の「全国中等学校蹴球大会」第1回大会(1924年)には、関西や広島からも参加があったように「全国中等学校蹴球大会」と付けられた大会や、先の「關東中等学校蹴球大會」「東海蹴球大會」などは、所在地域の参加が主で全国規模の参加まではいかないが、どの大会にも他地域からの参加があった。ところが、毎日新聞社主催の大会は「日本フートボール優勝大會」と名乗っていても、第1回から1925年の第8回大会までの間、関西以外の学校は一校も参加がなかった。「全国中等学校蹴球大会」という名前の大会が多いのは、主導権争いが目的であったといわれる。

[匿名さん]

#8422023/11/26 14:15
1934年に大阪の毎日新聞社主催の大会に一本化されたが(#大会の一本化)、現在の高校選手権は、これら全てを源流とする見方も出てきている。


◾️カテゴリーの問題

多くの大会で師範学校が旧制中学校と同じ大会で争ったため、年齢のハンデを無視したものとして非難もあった。旧制中学校と師範学校とでは就学年齢が一致せず、体力差が大きく影響して中学校側がいつも優勝圏に近づけない不満を持っていたので、中学校の部と師範学校の部を区別してそれぞれ公平に戦わせるのが理想であった。戦前の学校制度は複雑で、さらに飛び級や、旧制中学入学に年齢制限がないようなことがあり分かりにくいが、基本的に師範学校は小学校を卒業後、高等小学校2年を経て、5年制の師範学校に行くので卒業時は19歳となるが、旧制中学校は小学校卒業後、5年間行くため卒業時17歳となり、年齢で3年重なり、最上級生のとき師範学校が2歳上となりハンデが生じる(日本の学校制度の変遷)。第1回大会から第7回大会まで七連覇した御影師範は、年齢が高かったこと、また師範学校は全寮制で、年中合宿をしているようなものでチームワークが良く、練習も充分にやれ、旧制中学のチームは適わなかったといわれる。当時は柔道や庭球などでも師範学校と旧制中学校は同じ大会で試合を行うことが多かった。これは各都道府県のスポーツ史等を見れば確認できる。中等野球(高校野球)でも戦前に福島師範や長野師範などが全国大会に出場したことがある。

[匿名さん]

#8432023/11/26 14:17
サッカーの「関東中等学校蹴球大会」は、この大会名で朝日新聞に広告も打った。大新聞に「中等学校大会」と広告も打って普通に師範学校が出場しているのだから、特に問題はなかったものと思われる。本来は師範学校と中学の部は分けて行うべきなのだが、しかしこの二分野を別立てすると大会そのものが成立しなかったと『東蹴六十年史草稿』22頁に書かれている。それが何故なのかはこの本に書かれていないが、この時代サッカーをやっている学校自体が少ないから、師範学校と中学を別々に分けるとチーム数が少なくなり、例えば各5チームずつの参加ではトーナメント大会として成立し難く盛り上がりに欠ける、あるいは、元々サッカー自体に人気がない上、中学の大会ならまだしも、師範学校の大会は地味で人気がなく、師範学校だけの大会では成り立たなかったため一緒にやらざるを得なかった、等といった理由が考えられる。毎日新聞社主催の「日本フートボール優勝大會」は、カテゴリーを問いていないので、この問題は本来関係がないが、その毎日新聞社主催大会を第9回大会から全国大会に移行させるおり、この二つを分けるという案を大日本蹴球協会が出したが、毎日新聞社側に断られたという。新聞社がスポーツの大会を支援するのは、新聞の拡販や、広告獲得などの目的があるためと見られ、新聞社の主催でない学校主催の大会では、この二つを分けて開催することがあった。

[匿名さん]

#8442023/11/26 14:17
東京高等師範学校主催の「全国中等学校蹴球大会」では1924年の第1回大会から、師範学校の部と中学の部は別々に行われた。八高主催の「全国中等学校蹴球大会」でも、1926年の第4回大会からこの二つを分けている。この他、旧制大学、旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校は、師範学校とは年齢が重なる場合もあるが、旧制中学とは年齢が上で重ならないため、これらに所属するチームが「中学校大会」に参加することはあっても、優勝を争うトーナメントのような公式試合で対戦することはない。中学校と対戦することがあるのは模範試合や練習試合である。前述したように毎日新聞主催の大会に関西学院高等部や神戸高商が出場したのは「中学校大会」ではないからで、このように「中学校大会」と銘打っていない年齢制限などを設けていない大会では対戦することがあった。広島一中や神戸一中などは、中学校でも強かったから、天皇杯の本戦や極東選手権の日本代表全国予選などに出場し、これら上のカテゴリーのチームとも対戦した。なお、旧制高等学校は1923年から「全国高等学校ア式蹴球大会」が、旧制大学、大学予科、旧制専門学校なども各地で大会やリーグ戦があった。

[匿名さん]

#8452023/11/26 14:19
◾️毎日新聞主催(第1回 - 第8回大会)

毎日新聞主催の「日本フートボール優勝大會」の第1回大会から第8回大会までは、関西の学校のみ参加の大会であった。当時は関西でもサッカーをやっている学校は多くはなかったから、初回は予選をする程のこともなく主催者側の推薦で出場チームを決めた。第8回大会では、出場の申し込みをした全チームが出場していることから、第1回〜第8回大会の間は、主催者側から推薦されれば、あるいは学校側から申し込めば、予選なしで全てのチームが参加できたとみられる。予選制となったのは参加チームを全国に拡大させた1926年の第9回全国中等学校蹴球選手権大会第9回大会からである。このため第1回大会から、大阪や兵庫からは複数の学校が参加し、第8回大会では、和歌山、奈良、滋賀、京都からは、各1チームに対して、大阪からは11チーム、兵庫からは7チームが参加した。当時は兵庫勢の力が抜けていたから、第1回〜第8回大会までの決勝のカードは、兵庫×大阪、兵庫×京都か、兵庫同士のいずれかになる。関西地区以外の参加に関しては『神戸一中サッカー部史』や、『広島一中国泰寺高百年史』等に、広島一中は、毎日新聞の大会は出場できず、神戸高商主催(朝日新聞後援)の「全国中等学校蹴球大会」に出場し、毎日新聞の大会を連覇中だった御影師範を二年連続で破って優勝した、と記述されていることから第1回大会から第8回大会までは、関西地区以外の学校は参加させない、実質的に関西ローカルの大会であった。これは参加チームを見ても分かるし、多くの文献に記述されている。第1回から第7回まで御影師範が連続優勝したとされるが、これは正確には日本一とはいえない。

[匿名さん]

#8462023/11/26 14:20
また当時の交通事情は非常に悪く、賀川浩は「当時の遠征試合はハンディキャップが物凄く大きいため、地元の大会で御影師範や神戸一中が勝ってもあまり威張れない」などと述べている。1921年に名古屋蹴球団主催、新愛知新聞社(現:中日新聞社)後援による「全国中等学校蹴球大会」が、東京府青山師範学校、豊島師範、明倫中学、愛知一師、御影師範、姫路師範など、関東、東海、関西地区から10チームが参加して名古屋で行われたが、ここでも御影師範は関東の東京府青山師範学校に敗れている。この大会の決勝戦は東京府青山師範学校×明倫中学である。御影師範は毎日新聞主催の第1回大会から第7回大会までを七連覇するが、他の大会に出場すると負けることがあったことから、この毎日新聞の大会は、他の多くの大会と同程度のレベルであったと考えられる。大会の権威に関していえば、『高校サッカー60年史』の32頁に「東京ではそうでもなかったらしいが、大阪では大新聞の主催でないと大会に権威がなかった」、38頁に「私達御影師範では毎日新聞の大会を最高峰としていて、他の蹴球大会は前哨戦、準備大会位に考えていた」という記述や、『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』107頁に「大日本蹴球協会が設立される(1921年)まで、最も権威のあるフットボール大会は大毎の主催する全国蹴球大会で、その後も関西では蹴球大会の最高峰の一つであった」という記述が見られるから、関西の他の大会よりは権威があったのかも知れない。しかし、神戸一中の選手たちは「近畿のチームだけの毎日新聞の大会より、広島一中や広島高師附属中学の広島勢が来る神戸高商主催の大会で勝つ方が値打ちがある」と言っていたという賀川浩の証言もある。

[匿名さん]

#8472023/11/26 14:21
静岡県立藤枝東高校のサッカー部60年史には、「われわれ志太中学(藤枝東高校)の全国大会の初優勝は、1931年の東京高等師範学校主催の「全国中等学校蹴球大会」で、此処に全国津々浦々に志太中サッカーの名声を響かせた」と書かれている。この東京高等師範学校主催の「全国中等学校蹴球大会」というのも、1924年から1932年に9回開催された全国規模の中等学校サッカー大会で、東日本の学校がほとんどだが、近畿や東海地区の学校も参加した大きな大会であった。志太中学は毎日新聞主催の大会が全国大会になっても、戦前には毎日新聞主催の大会の予選には出場していないようで、つまり学校によっては、特に関西以外の学校にとっては、毎日新聞主催の大会を唯一の全国大会とは捉えておらず、乱立していた他の全国大会等を選んで出場していたものと見られる。毎日新聞社主催の大会が1925年度の第9回大会から全国大会となり"名実とともに全国大会として発展した"と書かれた文献もあるが、すぐに唯一の全国大会と認知された訳ではなく、徐々に認知されていって、"名実とともに全国大会""唯一の全国大会"として完全に認知されたのは、1934年に毎日新聞社主催の大会に一本化され、他の全ての大会が終了した第16回大会以降の話と考えられる。これらの事情を考えれば「全国高等学校サッカー選手権」が"真の全国大会"と文句なくいえるのは、1934年の第16回大会からでないかと思われる。『高校サッカー40年史、60年史』の「全国高等学校サッカー選手権大会」の記述は、関西の関係者の証言がほとんどで、他の地域の大会はほとんど触れられていない。[独自研究?]

[匿名さん]

#8482023/11/26 14:22
『高校サッカー60年史』32頁に「毎日新聞主催の大会は準備委員会がともかく強力で、大日本蹴球協会ができてからも、協会はタッチできなかった」、また「關東蹴球大會」を主催した東京蹴球団の団史には「東京ではサッカーの関係者が主体で、朝日新聞の方が善意の後援をしてくれたのだが、他の二つは新聞社の方が強力に推進された。これはこれらの地域のサッカー関係者が、まだ微力だったといった方がよいのかも知れない」と書かれており、サッカー関係者としては、この毎日新聞主催の大会は、当初は大阪の新聞社が勝手にやっているという考えであったのかも知れない。やはりこの毎日新聞の大会が後に高校選手権の前身ということになったから重みを増したことは間違いがない。前身ということにならなかったら、他の多くの大会と同様の位置づけであったと考えられる。[独自研究?]第8回大会は、旧制専門学校と中学の部を分けて実施した。専門学校の部の出場チームは早稲田高等学院、官立神戸高商、松山高等学校、関西大学、関西学院の5校で、決勝は早高2-1関学。何故分けて実施したのかは『高校サッカー60年史』にも記述がないが、翌年の「全国中等学校蹴球選手権大会」移行に伴い、カテゴリーが明らかに中学より上のチームを切り離すということかも知れない。各試合の結果他、詳細が『高校サッカー60年史』に書かれておらず、翌年の第9回大会以降の大会に旧制専門学校の部の結果は記載がない。『輝く埼玉サッカー75年の歩み』1082頁には「第8回大会"から"高専の部と中等学校の部に分け、会場も甲子園球場に移って開かれたのである」と書かれているため、その後も継続されたと見られるが詳細は不明。

[匿名さん]

#8492023/11/26 14:23
◾️全国大会へ(第9回〜)

1925年度の第9回大会から、全国をいくつかのブロックに分け、その予選優勝校で"本当の全国大会"に飛躍させようとの気運が高まり、全国での地区予選制となって、名称も「全國中等學校蹴球選手權大會」と改められ、ラグビー大会と分割、関西の学校以外の学校も参加する全国規模の大会に成長することになった。前述のように第8回大会までは大日本蹴球協会は運営にタッチできなかったようであるが、この第9回大会からの全国大会移行にあたっては、毎日新聞からの要請で田辺五兵衛や野津謙、鈴木重義ら、大日本蹴球協会の関係者が運営に関与した。ここで年齢制限の問題が出て、それまで年齢では2歳上となる師範学校が中学校と同じ大会で争っているという問題点について、別々に分けるという案も出されたが、この第9回大会から参加を予定していた朝鮮地区の選手が、戸籍を持たず、年齢確認が困難ということが分かったこともあり、引き続き一緒にやることになった。この後、1929年(第11回大会)、1935年(第17回大会)の二度に渡り、年齢制限が加えられたため、師範学校チームは弱体化したという。なお、毎日新聞が中等野球の全国大会を持とうと考えたのは、このサッカー大会がマイナーなまま、朝日新聞主催の夏の全国中等野球大会に対抗できなかったからという見方がある。

[匿名さん]

#8502023/11/26 14:24
◾️大会の一本化

1925年度の第9回大会から、毎日新聞社主催の大会は全国大会になったが、全国各地にあった大会も、これ以降も続けられていた。毎日新聞社主催の大会が形を整えてゆくにつれ、これらの地方大会をどうするかという問題が起ってきた。「全国大会」と銘打ったものも他にたくさんあったが、毎日新聞社主催の全国大会が規模内容が最も大きくなり、1934年に毎日新聞社主催の大会に一本化され、他の全ての大会は終了した。これらを指示したのは大日本蹴球協会で、この1934年から大日本蹴球協会が主催に加わった。一本化にあたっては、他の地域からは大きな抵抗があり、中でもやはり「關東蹴球大會」が最後まで問題となったが、サッカーの将来を考え終了を受け入れたという。毎日新聞社主催の大会に一本化されたのは、ラグビーの大会をするために付けた「日本」を大会名に付けていたこと、「關東蹴球大會」は朝日新聞の後援で主催でなかったことが、有利に働いたともいわれる。当時、大日本蹴球協会の大学OBが主導権を握るため、師範系OBを排除しようとしていたというから、野津謙ら大学OBが大日本蹴球協会内で力を増すに連れ、野津らが関与した「毎日新聞社主催大会」が支持を増やし、師範系OBが大きく関わっていた「關東蹴球大會」は、支持が減っていったのかも知れない。この他、一新聞社に遍することのないよう、また全国の中学校へサッカーを普及振興させようと文部省に主催を移すという案も検討されたことがあった。

[匿名さん]

#8512023/11/26 14:24
以降、太平洋戦争による中止を挟み、戦後の学制改革で現在の名称となっても西宮球技場を主な会場にして関西での開催が続いた。1948年(昭和23年)4月新制高校が発足。同年6月に全国高等学校体育連盟(高体連)が創立され、本大会に主催団体として加わることになった。


◾️高校総体の開始と毎日新聞社の主催終了

1965年に全国高等学校総合体育大会(高校総体、インターハイ)が夏の大会として整備され、翌1966年にはサッカー競技が全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会として加えられ、秋の国民体育大会サッカー競技高校の部(国体)を合わせると、高校サッカーの全国大会は3つとなった。当時の文部省は文部省の通達により、学校教育活動としての高校スポーツの全国大会は国体を除いて年一回しか認めていなかったため、日本蹴球協会と全国高等学校体育連盟(高体連)は冬の高校選手権を夏の高校総体に組み入れようとした。この動きのなか、毎日新聞社は第1回大会から行っていた本大会の主催を終了し、結局は日本蹴球協会が単独で冬の高校選手権を開催することになった。1966年度大会は、毎日新聞社の主催終了による経済的な影響や文部次官通達との関係により、出場校が前年の32校から16校に変更され、夏の高校総体の上位2校と、秋の国体の上位4校、地域推薦の10校となった。各地域の予選も、文部次官通達との関連で公式には行わず、地域推薦とする建て前となった。16校での開催は、1970年度大会まで続いた。また、1966年度から大会の回数が大会名から外されるようになり、1980年度の第59回大会で復活した。

[匿名さん]

#8522023/11/26 14:25
◾️読売新聞社後援へ

1970年から国体が各都道府県選抜の参加となり、インターハイとは別に「選抜大会」として競技ごとに全国大会を開くことが認められた。これにより高体連としては選抜大会の扱いをするということで、第49回大会(1970年度)から主催に復帰した。

一方で当時読売新聞社を中心とした読売グループでは、将来的なプロ化も睨んだ本格的なサッカークラブである読売サッカークラブを1969年に発足させるなど、サッカーに対して力を入れつつあった。そうした動きの中で「クラブの長期的な存続には、将来的な選手の供給源の充実が不可欠である」として高校サッカーに対する支援を行うことになり、1970年8月には日本テレビの主催で全国の強豪校11チームを招待した「高校サッカー研修大会」を開催し、日本テレビと出場校の地元を中心とした系列局で裏送りを含めて放送した。読売新聞社・日本テレビではこの研修大会を継続して開催する意向だったが、夏場はインターハイや国民体育大会の予選など試合数が多く、日本蹴球協会(現:日本サッカー協会、以下JFA)側では研修大会の継続は難しいと判断。そこで代替策として、JFAでは本大会の後援に読売新聞社が加わること、並びに日本テレビが大会の中継を行うことを提案。これを読売新聞社側が了承したことから、高体連の主催復帰と時を同じくして日本テレビが大会のテレビ中継を行うことになった。

[匿名さん]

#8532023/11/26 14:26
第49回大会(1970年度)は日本テレビで8試合を中継。決勝戦のみ以前から編成していたNHKとの2局同時中継という異例の形になった。第50回大会(1971年度)から日本テレビ系列の独占中継体制になったが、高体連はこれに反発し全国放送のNHKによる中継を廃するからには「最低でもNHKの8割のエリアをカバーできる放送体制を取る」よう要求した。当時の日本テレビのネットワーク体制ではとても無理な注文だったが、ここで電通が仲介に入り当時のTBS系列のローカル局と折衝を行い、日本テレビをキー局としつつTBS系列局および一部のフジテレビ系列局・独立局を含めたローカル局による全国38局の中継体制を築くことに成功。これにより第50回大会より正式に中継が日本テレビに移行した。『関西サッカーのあゆみ』では「高校野球は朝日と毎日がやっているが、それにはどうしても入れない読売と日本テレビが、何が何でも高校サッカーを取りたいと電通を絡ませて関西から奪った」と書かれている。

全国テレビ中継とスポンサーを得た本大会の運営は強化される方向に向かい、特例としてインターハイとは別の選手権として高校サッカーの最高峰の大会と位置づけられるようになった。

1971年度の第50回大会は、長居競技場が主会場となり、1回戦と2回戦では西宮球技場と神戸中央球技場が併用された。翌年からの第51回大会、第52回大会、第53回大会、第54回大会では、長居競技場とうつぼ球技場が会場となった。

[匿名さん]

#8542023/11/26 14:26
◾️決勝大会の首都圏への移転

第55回大会(1976年度)からは、決勝大会の会場を首都圏(東京都・千葉県・神奈川県・埼玉県)に移すこととなった。元々日本テレビやJFA関係者の間では決勝大会を首都圏で開催したいという要望が強かったことに加え、当時日本テレビで本大会の中継スタッフだった坂田信久が「(日本テレビに中継が移って)最初の2年で関西ではスタンドを満員にするのは厳しいとわかった」と語っているように、高校野球の影響でサッカーへの関心が薄い土地柄だったことや大会の採算面からも関西開催では大会の発展が厳しいという認識が関係者の間で広まり、最終的に高体連の47都道府県の委員長会議で多数決により会場の移転が決まった。しかし現在もなお、関西のサッカー関係者にはこの決定に不満を唱えるものが多数存在するという。当時も関西サッカー協会会長で日本蹴球協会副会長であった川本泰三らが激怒。このため坂田らは首都圏開催後の同大会を絶対に成功させるとして、大会のイメージアップに全力を注ぐ。場内に広告看板を設置してテレビに映すほか、後には試合時間内にはテレビCMを入れないようにしている。大会の応援を都道府県の県人会へ連絡した他、各出場校にも職員会議から父母会、生徒会にまで足を運んで頼み込んだという。

西が丘サッカー場など、当時未だ計測時計が会場掲示板に無い競技場が多く、このためテレビ局の大道具に人動で動かす大型時計制作してもらって、アルバイトにストップウォッチで試合時間を計測させて1分毎に手動で時計の針を動かしたという。

この他に中継に使用するテーマ曲を、この際に現在の曲に刷新。会場にも4台のカメラを設置して試合を追いかけて中継を行った。

[匿名さん]

#8552023/11/26 14:27
こうして、首都圏開催の初回となる第55回大会決勝戦・浦和南(埼玉)対静岡学園(静岡)の国立競技場は観客が超満員となる約6万人が来場した。

さらに第62回大会(1983年度)からは、原則として1都道府県1代表制で実施されるようになり、現在に至っている。

開会式・準決勝・決勝(年度により準決勝は他のスポーツ大会の都合で別会場)は旧国立競技場で大々的に行われており、高校サッカー選手たちは「目指せ!国立」を一つの合言葉にしていたが、2014年5月に旧国立競技場が閉鎖→2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催に伴う全面改築工事に入ったため同年-2020年の年末年始にかけての大会以後は、暫定的に開会式・開幕戦を駒沢オリンピック公園陸上競技場、準決勝・決勝は埼玉スタジアム2002をメイン会場として行っている。

第100回記念大会(2021年度)の開会式・開幕戦・準決勝・決勝は新装となった国立競技場で行われた。


◾️現在

近年はクラブユース勢の台頭とそれに伴う人材のシフトにより、ユース年代のサッカー大会としてのプレステージが高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会、その後継大会である高円宮杯U-18サッカーリーグに移行し、当大会のレベル低下を指摘されているが、今なお多くの高校サッカー部の選手にとっては最も価値あるサッカートーナメントの位置を占めている大会であり、社会的にも最も大きな注目を集めるサッカー大会の一つである。また、クラブユースの台頭に伴って、かつて優勝を寡占した名門校の地位が下がり、また近年のサッカーの普及に伴って各地域の底上げがなされた。

[匿名さん]

#8562023/11/26 14:28
この大会の優秀選手から選手を選抜し、1973年から毎年4-5月に行われるヨーロッパでのユーストーナメント大会(隔年で偶数年にスイス・ベッリンツォーナ。奇数年にドイツ・デュッセルドルフ)に日本高校選抜チームとして出場している。また、かつては「ニューイヤーユースサッカー」として、ヨーロッパのユース年代のチームを招待した交歓大会もあり、日本高校選抜もそれに出場した。第88回大会(2009年度)終了後は、海外遠征前に本大会協賛社の富士ゼロックス(現:富士フイルムビジネスイノベーション)が特別協賛している「FUJIFILM SUPER CUP(旧・FUJI XEROX SUPER CUP)」の前座試合として、U-18Jリーグ選抜(高校1,2年生)との親善試合が組まれる。

第91回大会(2013年)の決勝戦は当初1月14日に行われる予定だったが、降雪により中止。当初は、大学入試センター試験(当時、現:大学入学共通テスト)で3年生に影響が出る可能性があるために両校優勝の措置をとることも検討されていたが、決勝を戦う両チームの登録メンバーの中に、1月19日・20日実施のセンター試験受験申込者がいなかったため、試合を1月19日に順延することに決定した。悪天候による決勝戦の順延は史上初(中継は録画放送)。なお、1月14日に予定されていたテレビ中継についても、内容が大幅に変更された。

[匿名さん]

#8572023/11/26 14:29
◾️ 大会歌

大地に顔をくっつけて(シーガルス[注釈 12])(1973年度・第52回 - 1975年度・第54回)
作詞:金原徹朗、補作詞:阿久悠、作曲:森田公一、編曲:馬飼野康二
関西圏開催時代の末期に使用された。
ふり向くな君は美しい(ザ・バーズ)(1976年度・第55回 - )
作詞:阿久悠、作曲・編曲:三木たかし
戦いに敗れた者の健闘を讃える曲として知られており、現在は、テーマ曲(イメージソング)と併用して使われている(後述の「イメージソング」を参照)。
但し、これらの曲は試合会場内での式典曲としては用いられず、日本サッカー協会の公式アンセムである「日本サッカーの歌」などが用いられる。


◾️ 開催方式

1983年度(昭和58年度)の第62回大会以降、47都道府県から48代表(東京都のみ2校、それ以外の46道府県は1校)が出場する形態が定着している。出場校を決定する都道府県大会はおおむね9月から11月にかけて実施される。

三重県大会では、まず1次トーナメントを行い2次予選に進む8校を選出。2次予選では4校のグループに分けてのリーグ戦を行い、上位2校が準決勝に進むというシステムが採用されていた。
実力が他校よりも突出している、あるいはプリンスリーグに参加しているなど試合数が多くてスケジュール調整が難しい高校の場合、スーパーシードと呼ばれてかなりの段階までシードされることがある。例えば、第92回大会の青森県予選では青森山田は準決勝からのシードだった。

[匿名さん]

#8582023/11/26 14:30
第69回大会(1990年度)では、都道府県代表と別に、都道府県大会と並行して開催されていたAFCユース選手権に日本代表として出場した武南、習志野、清水市商、国見の4校を推薦出場(予選免除)としたため、全52校で争われた。
第79回大会(2000年度)では、前年度優勝の市立船橋が推薦出場で予選免除されたため、全49校で争われた(前年優勝の推薦出場枠は当年限り)。
全国大会は1回戦制のノックアウトトーナメントで行われる。全国大会の場合、退場処分又は累積警告2回で次の試合出場停止。

試合時間については次の通り行う。

準々決勝までは前後半40分ハーフの計80分で行い、前後半終了時に同点の場合は即PK戦で決着をつける。
準決勝は前後半45分ハーフの計90分で行い、前後半終了時に同点の場合は即PK戦で決着をつける。
決勝は前後半45分ハーフの計90分で行い、同点の場合は前後半10分ずつ計20分の延長戦を行う。延長戦終了後、同点の場合はPK戦で決着をつける。
第78回大会(1999年度)まで、決勝で延長戦でも決着が付かない場合、両校優勝としていた。
第81回大会(2002年度)まで、決勝も前後半40分ハーフの計80分で行われていた。
第86回大会(2007年度)まで、準決勝も準々決勝までと同様の試合形式で行われていた。
試合終了後、PK戦でない限りは勝利校の校歌斉唱(あらかじめテープ収録したもの)が行われる。PK戦に縺れた場合は勝利校であっても校歌斉唱は次の試合の進行の都合上省略される。校歌斉唱(またはPK戦)終了後、勝利校の監督・敢闘選手に対するヒーローインタビュー(原則として各試合のテレビ中継における勝利校のベンチレポーターの進行による。

[匿名さん]

#8592023/11/26 14:31
決勝は別途主催者が用意した代表アナウンサーが担当)を行う。決勝戦の校歌斉唱は試合開始前に行い(試合終了後は試合の勝敗の有無にかかわらず斉唱は行わない)、試合終了後ただちにヒーローインタビュー→表彰・閉会式を行う。


◾️使用会場

前述の通り首都圏(1都3県)の複数会場(おおむね9会場前後)が使用される。多くの会場が、施設改修や芝の張り替えなどの理由で、毎年のように会場が変更される(通常使用されない会場が使用される)のが特徴である。


◆第101回大会(2022年度)の会場

国立競技場(東京都新宿区、2021年度より使用)
駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場(東京都世田谷区、2010年度は改修工事中のため使用せず、2014年度 - 2020年度は国立の代替として開会式・開幕戦の会場となる)
味の素フィールド西が丘(東京都北区、1976年度の関東移転後に途切れることなく使用されたが、2012年度は使用せず)
NACK5スタジアム大宮(さいたま市大宮区、2002年度以後使用されなかったが2010-2011年度は駒場スタジアム、2014年度は埼玉スタジアム2002の例年開催分の代替会場として使用)
浦和駒場スタジアム(さいたま市浦和区 1992年度 - 1994年度と2010年度 - 2011年度は改修工事中のため使用せず)
柏の葉公園総合競技場(千葉県柏市、2009年度・2012年度は使用せず、2014年度・2016年度・2018年度・2021年度に使用)
ゼットエーオリプリスタジアム(千葉県市原市、2010年度・2014年度は使用せず、2015年度・2017年度・2019年度・2020年度に使用)
ニッパツ三ツ沢球技場(横浜市神奈川区、2009年度は使用せず)

[匿名さん]

#8602023/11/26 14:32
等々力陸上競技場(川崎市中原区、2012年度・2014年度は使用せず)


◆過去に使用されていた会場

関東へ移転後も、Jリーグ基準を満たすスタジアムが増加したことから、2000年代から使用されなくなった会場もある。また、通常は使われないが本会場の施設改修に伴い代替会場として使用されるケースもある。

◆関西開催時代

豊中グラウンド(1917年度 - 1921年度) (野球兼用)
宝塚球場(1922年度 - 1923年度) (野球兼用)
阪神甲子園球場(1924年度 - 1927年度) (野球兼用、当時は甲子園大運動場)
甲陽中学(1924年度)
南甲子園運動場(1928年度 - 1940年度) (甲子園球場の南側にあった総合競技場)
西宮球技場(1946年度 - 1962年度、1966年度 - 1971年度)
靱蹴球場(1963年度 - 1964年度、1972 - 1975年度)
金岡公園陸上競技場(1963年度 - 1964年度)
長居陸上競技場(1964年度 - 1970年度、1971年度 - 1975年度)
京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場(1965年度)
神戸市王子陸上競技場(1965年度)
神戸市立中央球技場(1971年度)

[匿名さん]

#8612023/11/26 14:33
◆関東移転後
国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(東京都新宿区。開幕戦、準決勝、決勝戦のみ 2014年度 - 2020年度は建て替えのため使用せず)
大井ふ頭中央海浜公園陸上競技場(東京都品川区、1981年度・1983年度のみ使用)
江戸川区陸上競技場(東京都江戸川区、2010年度は駒沢・2012年度は西が丘の代替会場として使用)
フクダ電子アリーナ(千葉市中央区、2009年度以降使用、2011年度・2022年度は使用せず)
千葉県総合スポーツセンター陸上競技場(千葉市稲毛区、2003年度以降使用せず)
習志野市秋津サッカー場(千葉県習志野市、1999年度以後使用していないが、2003年度は千葉市非開催に伴う代替会場となる)
レモンガススタジアム平塚(神奈川県平塚市、等々力・三ツ沢球の代替会場として1992年度・1994年度・2001年度・2002年度・2009年度に使用)
三ツ沢公園陸上競技場(横浜市神奈川区、三ツ沢球・等々力の代替会場として1990年度 - 1993年度に使用)
相模原ギオンスタジアム(相模原市南区、等々力の代替として2012年度・2014年度使用)
埼玉スタジアム2002(さいたま市緑区、2001年度より使用、2014年度から2020年度まで国立の代替として準決勝・決勝の会場となる、2021年度以降使用せず)
川越運動公園陸上競技場(埼玉県川越市、2001年度以降使用せず)
熊谷スポーツ文化公園陸上競技場(埼玉県熊谷市、駒場の代替として2021年度使用)


◾️国立競技場での試合開催

国立競技場(新旧とも)でのプレーが許されるチームは、開幕戦を戦うチーム(1つは東京都代表のどちらか)とベスト4のチームの最大6チームのみであり、厳しく狭き門であると言える。

[匿名さん]

#8622023/11/26 14:34
開幕戦のなかった第77回(1998年度)以前はさらに厳しく、ベスト4の4チームだけであった。「目指せ国立」は、この大会のキャッチコピーともなっている。

1月に国立競技場で行われる全国大学ラグビー選手権大会決勝との日程重複のため、当大会の準決勝を国立競技場以外で開催した事例もある。その場合、当大会で国立競技場のピッチに立てるチームは最大4チーム(国立競技場での開幕戦実施以前については2チーム)に減少する。
これに該当するのは第62回大会(1983年度)・第67回大会(1988年度)・第87回大会(2008年度)。第62回・第67回の準決勝は駒沢陸上競技場、第87回の準決勝は埼玉スタジアム2002で開催された。第67回については、1989年1月7日に昭和天皇が崩御したため準決勝は1月9日に延期されたが、会場は変更せず駒沢陸上競技場で開催された。
なお国立競技場は、2019年の開催が決定したラグビーワールドカップ2019(工期延長に伴い使用断念)及び2020年の開催が決定した東京オリンピック・パラリンピックへ向けた全面建て替え工事の施工(2016年12月着工 - 2019年11月竣工)に伴い、2014年1月の第92回大会(2013年度)決勝をもって一旦会場から外れた。第93回大会(2014年度)から第99回大会(2020年度)については、開幕戦を駒沢陸上競技場で、準決勝・決勝を埼玉スタジアム2002で開催した。

[匿名さん]

#8632023/11/26 14:34
◾️ 協賛

テレビ中継のオープニング・エンディングでのスポンサー紹介では、各社のコーポレートメッセージ・キャッチコピーが付け加えられる形での紹介方法である(年度によっては付かないスポンサーもある)。なお、協賛字幕は地方大会決勝戦と、全国大会1回戦-準々決勝までは後述の映像をバックに通常の白文字、準決勝と決勝は薄い白地絨毯+各社カラー表示を行っている。

富士フイルムビジネスイノベーション(旧・富士ゼロックス、1970年度から参加)
明治(2011年度に明治製菓〔1989年度から参加。第87回大会までは「Meiji」名義、第88・89回大会は「meiji明治製菓」名義〕から継承して参加)
帝人(1991年度から参加)
トヨタ自動車(2010年度から参加)
日本コープ共済生活協同組合連合会(CO-OP共済、2021年度から参加)


◾️パートナー

第100回大会(2021年度)から加わったカテゴリーで、サプライヤー等として参加する。

ミカサ
ミカサのALMUNDOシリーズ・FT550B-BLYが第100回大会公式試合球として使用される。
イミオ
sfidaブランドがオフィシャルウェアサプライヤーとして参加する。
リクルート(SUUMO)
KDDI(au)
なお、第67回大会の準決勝の全てのスポンサーCMおよび決勝の一部のスポンサーCMについては、昭和天皇の服喪期間中のため、環境庁(当時)の啓発CMに差し替えられた。

[匿名さん]

#8642023/11/26 14:35
◾️過去の協賛社

三洋電機(~1974年度)
東京海上(~1975年度)
大正製薬(1975~1978年度)
ブリヂストン(1970~1985年度)
日立製作所(1977~1989年度)
日産自動車(1981~1990年度)
電気化学工業(DENKA)(1989~1991年度)
ローソン(1995年度)
ナイキ(1996~2004年度)
三井ホーム(1991~2009年度)
Coca-Cola(1979~1980年度、1992~2014年度)
プーマ(プーマジャパン)(2005~2019年度)
アットホーム(2016~2019年度)


◾️過去のPT扱い

アクサダイレクト(2015年度、2020年度)
au(2015年度)
興和(2020年度)
PlayStation(2020年度)

◾️協力
KLMオランダ航空(~1985年度)

◾️配信協力
ソフトバンク(2019年度)


◾️ 全国大会の組み合わせ抽選の手順(現在)

基本的に予備抽選を経て本抽選となる。抽選会は2003年(第82回大会実施分)から、東京都港区の日本テレビ本社日テレホールで行われている。2002年には六本木のディスコ「ヴェルファーレ」で、またそれ以前は東京都立日比谷高等学校で行われた。2020年(第99回)~2022年(第101回)は新型コロナウイルス感染症の影響を考慮してオンライン形式で実施された。

[匿名さん]

#8652023/11/26 14:36
◆予備抽選

事前に全国高体連サッカー専門部の代表による予備抽選を行い、その番号が小さい順に本抽選を行なう。


◆本抽選

トーナメント表の番号(1番から48番)に各校が振り分けられる。原則として、初戦で同じ地区、ないしはそれに準じる近隣地区の学校同士が対戦しないように、1回戦は「東西対抗戦」形式となっている(福井、岐阜、愛知までが東ブロック。京都、滋賀、三重から西ブロックに分けられている)。抽選の際、東ブロックは奇数の番号札、西ブロックは偶数の番号札を引。ただし、事前の制約があるチームから抽選する。


◆シード権

シード権は、前年度の成績でベスト4以上だった都道府県に割り当てられる。出場校が異なっていてもシード権は引き継がれる。前年度優勝の都道府県のチームは1番、準優勝の都道府県のチームは48番、3位の2校は24番と25番(この2つの番号は、前年度大会の準決勝で対戦した都道府県が、決勝まで対戦しないように分けられる)にまず入る。この4校は抽選する必要がない。この際に、西ブロックのチームが1番か25番に、あるいは東ブロックのチームが24番か48番に入った場合は、東ブロックの他のチームが偶数の番号札(2番か26番)、西ブロックの他のチームが奇数の番号札(23番か47番)を引くことになる。シード校は、全チーム2回戦が初戦になる。他には、シード校の初戦の対戦相手やそれ以外のチームでも8校(トーナメント番号11番から14番、35番から38番を引いたチーム)も2回戦からとなる。

[匿名さん]

#8662023/11/26 14:37
◆東京都A・B代表の抽選

東京都にはA,B2つの代表枠があるが、都予選のA,B各ブロックの代表がそのまま東京都A,東京都Bとして決まるのではない。東京都の代表校2校が予備抽選順に抽選を行ない、東京都A代表は開催地権、東京都B代表は開幕戦の権利が与えられる。


◆開催地権の抽選

開催地である東京都A、神奈川県、埼玉県、千葉県の4校。これらのチームは、開催地区が重ならないように準決勝まで対戦しないように分けられる。まず、トーナメント表のAからDの4つのゾーンの中からどこに入るか、ゾーン抽選をする(Aゾーンが1番から12番、Bゾーンが13番から24番、Cゾーンが25番から36番、Dゾーンが37番から48番)。その後に、決まったゾーンの中のどこに入るかを決める本抽選をする。ただし、半分は西ブロックに割り当てる番号なので、各ゾーンの東ブロックの5~6枚の抽選札から選択する[注釈 86]。4校の抽選が終了すると、東京都Bのチームの抽選をする。東京は2チームが出場するので、この2校が決勝まで対戦しないよう、既に決まっている東京都Aのチームと反対側の山から2回戦を除いた1回戦の抽選札から抽選を行い、その試合が開幕戦となる。


◆東海地区の抽選

東海地区は静岡県、岐阜県、愛知県、三重県の4校だが、三重県は西ブロック、他3県は東ブロックのため、初戦で対戦しないように分けられる。まず三重県のチームが抽選する。このとき、すでにシード校の中に東の東海地区のチームがある場合は、そのチームと初戦で対戦することになる番号札を事前に抜き取ってから抽選する。

[匿名さん]

#8672023/11/26 14:39
また三重県のチームが抽選した時点で初戦の対戦相手が決まらなかった場合は、そのチームと初戦で対戦することになる番号札を一時的に抜き取ってから、残り3県のチームが抽選をする。抜き取った番号札がある場合、この抽選が終わった後に戻される。

これですべての制約のある抽選が終わる。後は残りの高校が1校ずつくじを引いていき、すべての組み合わせが決定する。これらすべての抽選は制約のあるチーム、ないチームすべて範囲内で予備抽選の番号の小さい順に行なわれる。組み合わせ決定後に開幕戦のカードを決める抽選をして(開幕戦の項を参照)、さらに選手宣誓の抽選も行なう。選手宣誓は、開幕戦を戦う2チーム以外の46チームの中から選ばれる。


◆その他、備考

混同しやすい6番と9番の番号札に関しては、アラビア数字(算用数字)に下線が引かれている。

2020年~2022年のオンライン抽選会では、平仮名に番号がランダムに割り当てられてその内の一文字を各チームのキャプテンが選択するという方法で抽選が行われた。

もし、抽選会までに代表校が決まらなかった場合は、抽選日には都道府県代表の番号だけ決めておき、代表校が決まるとその番号に入る。これまでに代表校が決まらない事例としては、災害により地区予選の開催が遅れることや、地区予選開催時期に、U-18など年齢制限のある日本代表に招集される選手がいる、またはその可能性がある場合、そのチームの主力選手の欠場による戦力的な不利をなくすためなどがあった。なお、第69回大会で採られた措置(レギュレーションの項を参照)もあった。

[匿名さん]

#8682023/11/26 14:40
◆主催者の不手際

第80回大会(2001年度)で起きた。予備抽選の後、主催者が14番目の長野県代表の松商学園高校を富山県代表(この大会の富山県代表はシード校だったため、予備抽選はあまり意味がなかったための不注意と思われる)と記してしまい、14番目以降がすべて抽選順が1つずつ間違ったまま、あと2校というところまで気付かれなかった。このため、14番目以降の抽選がすべてやり直された。このため、対戦相手も大きく変わってしまった。なかでもシード校は、前回準優勝の滋賀県代表の草津東高校は群馬県代表の前橋育英高校、前回3位の青森県代表の青森山田高校は鹿児島実業高校との強豪との初戦に変わってしまい、共に初戦で敗退している。ちなみに間違えられた松商学園高校の初戦は、前回優勝校の長崎県代表の国見高校だった。


◾️ その他特記事項

草創期に7連覇した御影師範をはじめ、戦前まで参加していた師範学校は、現在の学制では大学に相当する。また、実際に関西大学や関西学院高等部、神戸高商などの現在の大学そのものも参加していた。

学校の改組(合併など)が行われ新設校扱いになると、前身校時代からの出場回数がリセットされる(第88回大会出場校では東京A代表東久留米総合、兵庫代表神戸科学技術[注釈 91]、大分代表中津工・中津東)。一方で北海道大谷室蘭は2012年に室蘭大谷から校名を変更後、2013年に登別大谷(第72回大会出場)を統合したが、旧室蘭大谷が存続校とされたため、2014年度の第93回大会では旧室蘭大谷の出場回数のみを引き継ぎ4年ぶり30回目の出場として扱われた。

[匿名さん]

#8692023/11/26 14:41
第93回東京B代表の三鷹(同大会で2回目の出場)は、1・2年生(相当)が後身である三鷹中等教育学校の生徒であったが、新旧両校の合同チームという形態は取らなかった。なお、高校野球は基本的に前身校時代からの出場回数を引き継ぎ、高校ラグビーは学校によって対応が異なる。

開会式では西武台千葉中学校・高等学校吹奏楽部が、入場行進前のパフォーマンスや入場行進・式典の演奏を担当している(担当開始時期不詳。第98回大会を最後に中断)。

開会式の入場行進は、通常、マラソンゲートからトラックに入りメインスタンド前を通って(その際、選手達は、メインスタンドの観客に向かって手を振ったり地元の名産品を掲げるなど、挨拶を兼ねたパフォーマンスを行うことが多い)バックスタンド前で一旦整列した後、一斉にメインスタンド前まで行進して式典に移行するが、雨天の場合はメインスタンド前を通って1コーナーゲートへ退場する(その後キャプテンがメインスタンドに集まり式典が行われる)。選手宣誓後は筒状の中にテープが入った機械式クラッカー(キャノン砲)が発射されるが、これは雨天でも実施される。

2011年(2010年度)より全日本バレーボール高等学校選手権大会(通称「春の高校バレー」)が高校サッカーとほぼ重複する日程で開催する事になり、競合を避ける観点からコカ・コーラボトラーズは前身大会・全国高等学校バレーボール選抜優勝大会時代から続けた協賛杯の「コカ・コーラ杯」の贈呈を中止(協賛杯は通販・ジャパネットたかた提供に変更)したが、引き続きコカ・コーラ、アクエリアスを公式飲料として提供するなど大会協賛は第65回(2013年)まで継続していた(現在、公式飲料は大塚製薬のポカリスエットに変更)。

[匿名さん]

#8702023/11/26 14:42最新レス
◾️参考文献

全国高等学校体育連盟サッカー部 編『高校サッカー60年史』講談社、1983年。ISBN 4062000598。NDLJP:12172806。

全国高等学校体育連盟サッカー部 編『高校サッカー90年史』講談社、2012年。ISBN 978-4-06-217780-1。

[匿名さん]


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