4月7日の広島対ヤクルト。
プロ初先発となった広島のドラフト1位ルーキー・加藤拓也が初勝利を挙げた。
序盤から好投を見せる加藤はヤクルト打線を封じ込め、8回が終わって被安打ゼロ。
「プロ初先発でノーヒットノーランを達成するのでは……」と、球場内は次第に異様な雰囲気に包まれた。
しかし9回、バレンティンの安打でノーヒットノーランが絶たれ、続く雄平にタイムリーを浴び、降板。
とはいえ、大記録達成とはいかなかったものの、今季の活躍を広島ファンに大きく期待させる快投だった。
加藤は慶應義塾大時代、通算24勝を挙げ、エースとして活躍。
神宮球場のマウンドで躍動した。
その慶應義塾大からプロに進んだ、加藤の先輩たちにスポットを当ててみよう。
■「悲運のエース」藤田元司
愛媛の西条高から慶應義塾大に進み、大学時代は通算31勝を挙げた藤田元司(元巨人)。
日本石油を経て、大学の先輩・水原茂(当時の登録名は水原円裕)が監督を務める巨人に入団すると、1年目の1957年に17勝で新人王を獲得する。
さらに1958年に29勝、1959年には27勝と先発、リリーフでフル回転し、リーグ優勝に大きく貢献。
2年連続セ・リーグMVPを受賞するなど巨人のエースとして活躍する。
しかし、入団3年間で73勝を挙げた代償は大きく、右肩を痛め、1960年以降は勝利数が激減する。
それでも1962年から2年連続2ケタ勝利とエースの意地を見せたが、1964年限りで現役引退。
8年間の現役生活だった。
日本シリーズでは西鉄と対戦した1958年、南海と対戦した1959年とともに力投を見せるも日本一は叶わず、活躍のわりに1度の優勝にとどまった大学時代同様「悲運のエース」と呼ばれた。
1981年には長嶋茂雄監督の後を受け巨人の監督に。
監督初年度にいきなり日本一となると、1983年にもリーグ優勝し、後任の王貞治監督にバトンタッチ。
1988年限りで王監督が辞任すると、再び監督に就任。
斎藤雅樹、桑田真澄、槇原寛己の先発三本柱を中心に、1989年には再び日本一となる。
監督在任7年間で日本一2回、リーグ優勝4回と監督としても結果を残した。
■「六大学初の完全試合」渡辺泰輔
慶應義塾高から慶應義塾大へ進学した加藤にとって、同じ足取りの渡辺泰輔(元南海)は高校、大学の大先輩にあたる。
渡辺は高校時代は3年時にセンバツに出場。
大学では通算29勝を挙げ、2年秋、3年春、4年秋とリーグ戦を制覇。
3年時には全日本大学選手権優勝にも貢献したほか、春の立教大戦では東京六大学リーグ初となる完全試合を達成した。
なお、加藤も4年秋にノーヒットノーランを達成している。
卒業後は南海に入団し、2年目の1966年には16勝、1967年は15勝と先発陣の一角で活躍。
1966年の日本シリーズでは敢闘賞を受賞した。
■「松坂世代の慶應のエース」長田秀一郎
長田秀一郎(元西武ほか、現・新潟アルビレックスBC)は鎌倉学園高時代から好投手として知られ、慶應義塾大入学後は早稲田大の和田毅(ソフトバンク)、法政大の土居龍太郎(元横浜ほか)、立教大の多田野数人(元日本ハムほか)ら「松坂世代」の投手と切磋琢磨した。
4年春の東大戦ではリーグタイとなる9者連続奪三振を記録。
西武入団1年目の2003年にはリリーフとして46試合に登板。
登板機会が減ったシーズンもあったが、2010年には56試合に登板し、17ホールド。
2012年にも53試合に登板し26ホールドと中継ぎで存在感を発揮する。
2013年途中には渡辺直人との交換トレードで地元・横浜のDeNAに移籍。
ここでもリリーフに欠かせない存在として活躍を見せた。
昨季、戦力外通告を受け、今季からはBCリーグの新潟アルビレックスBCでプレーしている。
【日時】2017年04月13日(木) 17:05
【提供】デイリーニュースオンライン