田原が悲願の五輪切符を手にした。「この年なので経験を積んで、次の大会に生かすということはない。楽しむ余裕はないかも」と笑った。37歳1カ月での冬季五輪デビューは日本歴代4位の遅さだ。今年3月のW杯7位で、全日本スキー連盟が定める派遣推薦基準を突破した。
8歳から体操を始め、01年にナショナルチームとなった。代表入りも期待された04年アテネ五輪は選考会で振るわず、落選。次の北京五輪を目指した06年2月に、悩まされていた右肩に激痛が走り、手術が必要と宣告された。北京は諦めざるを得なかった。そんな時、トリノ五輪のエアリアルの映像を見た。「これならできるかも」。同年8月、ピークを過ぎていた体操を引退し、転向を決めた。
家族からは、働くよう反対された。それでもチームメートだった米田、水鳥らがアテネ五輪で金メダルを獲得。その姿が脳裏に焼き付いていた。
田原 とにかくオリンピックに出たかった。体操は好きだけど、固執したら出られない。そのまま辞めようと思う方が難しかった。正直、辞めれるなら、その方が楽だったのかなと思う。
8歳から体操を始め、01年にナショナルチームとなった。代表入りも期待された04年アテネ五輪は選考会で振るわず、落選。次の北京五輪を目指した06年2月に、悩まされていた右肩に激痛が走り、手術が必要と宣告された。北京は諦めざるを得なかった。そんな時、トリノ五輪のエアリアルの映像を見た。「これならできるかも」。同年8月、ピークを過ぎていた体操を引退し、転向を決めた。
家族からは、働くよう反対された。それでもチームメートだった米田、水鳥らがアテネ五輪で金メダルを獲得。その姿が脳裏に焼き付いていた。
田原 とにかくオリンピックに出たかった。体操は好きだけど、固執したら出られない。そのまま辞めようと思う方が難しかった。正直、辞めれるなら、その方が楽だったのかなと思う。