この映画久しぶりに俺の琴線に触れたね
人間 多少悪魔の心も兼ね備えて無けりゃ
生きていけない
[匿名さん]
沖永良部島は、琉球石灰岩に覆われた隆起珊瑚礁の島ですよ。
石灰岩は隙間が多く水が浸透しやすいため、雨水や地下水による浸食作用を受けて、鍾乳洞(県指定天然記念物の昇竜洞など)が形成されています。
本島の地表水はわずかしかなく、河川は二級河川の余多川、奥川、石橋川の3河川のみです。
その一方で、浸透した水の一部は湧水や暗川(くらごう)注)となり、これらを中心に集落が発達してきました。知名町瀬利覚(せりかく)地区にあるジッキョヌホーは「平成の名水百選」に選定されており、現在も昔と変わらず、地区のシンボルとなっています。
注)暗川:地下を流れる川のこと。鍾乳洞の一部に穴が開くことによってできる。沖永良部の人々は昔、暗川を唯一の水飲み場や洗濯場として利用していた。
[匿名さん]
徳之島の地に生まれ世に名を残す先人たちは、それぞれの思いを胸に抱き強い信念を持って生きてきました。彼らの生き方は今の私たちに勇気と希望を与えてくれます。そのような偉大な先人たちを紹介します。
氏名 生年月日 出身 功績
嶺山 嶺文 天保14(1843)年 花徳 明治36年地租改正のとき花徳周辺の山を共有林として残すことに成功。また不毛の地であった里久を肥沃な水田地帯に変え、花徳を全島一の米生産地にした。測量機器もない時代に一人でトンネルを掘り、落差の大きかった当田川の水を引き大水田を作り、水路を地区に開放した。里久川に「嶺山橋」という橋があり、「嶺山嶺文翁頌徳碑」も地区住民により立てられている。
[詳しくは下記PDFをご覧ください]
嶺山嶺文翁頌徳碑建設記念誌(PDF:3,836KB)
山 徳峯
弘化3(1846)年
10月15日
亀津 亀津の安住寺(現在のNTT)に有志(徳峯の父の山徳善、柳義昇、安田佐和応、竜禎道、指宿文都志、津留義祐)が協議して資材を出し合い学校を開いた。この学校経営に当たったのが徳峯であり、師員には旭福泉と福沢福祐が就任、全島から50数人が入学した。
日本一の学士村や亀津断髪の原点は、この郷校にあるといわれている。徳峯はその後亀津他6カ村の戸長や県議を歴任。
明治32年6月23日没。
安住寺住職から四書五経十八史略を学び、書・絵画にも秀で「南峨」の号を持つ。
[匿名さん]
作業着しかないだろ❗って意味じゃね?
認めれば? しゃれた服なんて 牛さばくりしかしないやつにはないだろいし、必要ないから
[匿名さん]
犬田布の校長~🎵
まき~ハ~ゲ~む~ん🎵
ちゅう歌があったな
[匿名さん]