無敗の女王ソダシに次ぐ、3歳牝馬No.2のサトノレイナスが出走を表明したため、エフフォーリア1強から新たな展開を迎えた今年の日本ダービー(G1)。2007年のウオッカに次ぐ、史上4頭目の牝馬Vも大いに期待できる強豪だ。
なにせ、今や「時代は牝馬」である。昨年、古馬牡牝混合の平地芝G1が10レース行われたが、天皇賞・春(G1)を除き、すべて牝馬が勝利。ウオッカは64年ぶりの牝馬ダービー制覇として、まるで奇跡のように扱われたが、今後はサトノレイナスに続いてダービーに挑戦する牝馬が続々と登場してもおかしくはない時代である。
一方で、時代の影響で日本ダービーに出たくても出られなかった馬もいる。当時「スーパーカー」と称されたマルゼンスキーは、そんな悲運の名馬の代表格だろう。
主戦・中野渡清一騎手が「枠順は大外でいい。他の馬の邪魔は一切しない。賞金もいらない」とまでダービー出走を懇願したエピソードが有名なマルゼンスキー。しかし、しばしばダービー出走が叶わなかった「悲運のマル外」の1頭として紹介されるため外国産馬と思われがちだが、実は米国から輸入された母が日本で出産した、いわゆる「持込馬」である。
持込馬のダービー挑戦といえば、1993年に2着したビワハヤヒデが有名だが、実は1957年にヒカルメイジが優勝している。
それから20年後の1977年に3歳だったマルゼンスキーだが、日本ダービー挑戦が叶わなかったことには、1971年の貿易自由化に伴って国内生産者への保護政策が実施されていた背景がある。当時、持込馬は外国産馬同様の存在、つまりはマル外として扱われていたのだ。持込馬がビワハヤヒデのように再び国内産馬として扱われるようになったのは、1984年からである。
つまり、マルゼンスキーはそんな“谷間の不遇時代”に登場した、悲運の持込馬だった。
米国のキーンランドセールでマルゼンスキーの母シルを競り落とした橋本善吉オーナーだが、落札価格はセール3番目となる30万ドル(約9000万円)の高額だった。実は、その競りには社台グループの総帥・吉田善哉氏も参加しており、25万ドルの手前まで粘っていたそうだ。その後も、幼少期のマルゼンスキーを牧場まで見に来るなど、小さくはない未練があったようだ。
そんな社台総帥の相馬眼を証明するように、マルゼンスキーはデビューから破竹の連勝劇を続ける。
特に4戦目で迎えた朝日杯3歳S(現・朝日杯フューチュリティS)では13馬身差をつける圧勝。最後は流してゴールしたが、1400mの通過タイムは古馬も含めた当時の日本レコードより0.7秒も速かった。なお、朝日杯のレコードはリンドシェーバーが勝利する1990年まで、14年間破られなかった。
朝日杯で2着したヒシスピードの小島太騎手が「ありゃバケモンだ」と語ったこともあって、当時マルゼンスキーは規格外の怪物として、その名が知れ渡った。
だが、その一方で当時の日本競馬にはクラシックを含め、天皇賞などの大レースに外国産馬、そして持込馬を出走させないなど内国産の血、そして生産者を守る方針があった。
その結果、裁判沙汰さえ考慮された陣営の懇願も空しく、ダービー出走が叶わなかったマルゼンスキーは“腹いせ”に残念ダービーと言われる日本短波賞(現・ラジオNIKKEI賞)に出走。
このレースには、ダービートライアルだったNHK杯(現・NHKマイルC)の勝ち馬であり、秋にはセントライト記念、京都新聞杯、菊花賞を連勝するプレストウコウが出走していたが、マルゼンスキーが7馬身差をつけて圧勝。スーパーカーぶりを見せつけている。
続く、札幌の短距離Sで古馬との初対決を迎えたマルゼンスキーだったが、このレースには当初、現役最強「天馬」トウショウボーイも出走予定だった。しかし、マルゼンスキーが出走を表明した後に回避したため、当時は「逃げた」とも囁かれていた(実際には体調不良などが重なった)。
このレースを勝ち、デビューから8戦8勝としたマルゼンスキー。今後は、マル外(持込馬)が出走できるビッグレース有馬記念を視野に、日本記録となる12連勝の更新、翌年からの海外遠征なども計画されていたが屈腱炎を発症。紆余曲折の末、無念の引退となった。
通算8戦8勝、2着につけた差が合計61馬身という、まさに規格外の怪物だったマルゼンスキー。圧倒的な力を持っていたことは間違いないが、時代に泣いた名馬だった。
(文=大村克之)
<著者プロフィール>
稀代の逃亡者サイレンススズカに感銘を受け、競馬の世界にのめり込む。武豊騎手の逃げ馬がいれば、人気度外視で馬券購入。好きな馬は当然キタサンブラック、エイシンヒカリ、渋いところでトウケイヘイロー。週末36レース参加の皆勤賞を続けてきたが、最近は「ウマ娘」に入れ込んで失速気味の編集部所属ライター。