>>61
神社❌が良いか悪いかは別にして、古来より御本尊を御神体にしない神社には不参なのが富士門流の教えです。
日蓮の曼陀羅にも天照大神や八幡大菩薩は認められていますが、それは法華経に照らされて諸天善神となった神であり、社に別々に祀られている神とは性格がことなります。
つまり、仏を本地とし、その垂迹としての神は認めるが、仏法を離れた神は認めない立場です。
日蓮が龍ノ口刑場に連行される途中にある鶴岡八幡宮は明治の始めまでは法華経の教主釈尊の化身としての八幡大菩薩であり、神仏分離以降の八幡大神とは異なります。
昔の伊勢神宮や宇佐八幡宮にも神宮寺があり本地仏が祀られていましたが、明治廃仏毀釈で破壊されてしまい、難を免れた貴重な文化財が海外に流出しました。
日本の神々は普遍の真理を説く仏法に照らされてこそ氏子や日本民族を守護する力を発揮するのであり、それを離れたならば民族の排他的なエゴイズムに支配され禍をもたらす悪鬼神になると富士門流では説きますが深層心理学のユングも同類の学説を唱えていることは興味深いです。
日蓮遺文には「神は家来で仏は主君」とも「仏が本体で神は働きである」と仏本神迹の考え方が明確に述べられています。