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2024/07/06 00:55
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🍙 新潟市雑談





NO.4914535

白山神社白山公園白山寺べっぴん
合計:
#592023/05/13 22:21
睡眠不足
今日もいつものすいみん不足
アタマがいたくなっちゃうよ
いつもの学校のいつもの教室
あのこは今日も元気だね
すいみんすいみんすいみんすいみん
すいみん不足

今日もいつものすいみん不足
体がほてってきちゃったよ
たくさんやることはあるのに
アタマがちっともはたらかない

あのこがわたしをなやませる
わたしがあのこをなやませる
みんながみんなをなやませる
みんなは心をいためてる

ああ 空はこんなに青いのに
風はこんなにあたたかいのに
太陽はとってもあかるいのに
どうしてこんなにねむいの
すいみんすいみんすいみんすいみん
すいみん不足

今日もいつものすいみん不足
アタマがいたくなっちゃうよ
いつもの学校のいつもの教室
あのこは今日も元気だね

あのこがわたしをなやませる
わたしがあのこをなやませる
みんながみんなをなやませる
みんなが心をいためてる

ああ 空はこんなに青いのに
風はこんなにあたたかいのに
太陽はとってもあかるいのに
どうしてこんなにねむいの
すいみんすいみんすいみんすいみん
すいみん不足
あのこがわたしをなやませる35
わたしがあのこをなやませる
みんながみんなをなやませる
みんなが心をいためてる
ああ 空はこんなに青いのに
風はこんなにあたたかいのに
太陽はとってもあかるいのに
どうしてこんなにねむいの
ああ 空はこんなに青いのに
風はこんなにあたたかいのに
太陽はとってもあかるいのに
どうしてこんなにねむいの
すいみんすいみんすいみんすいみん
すいみん不足

[匿名さん]

#602023/05/15 10:33
天津神社
Amatsu-jinja (Itoigawa), haiden.jpg
拝殿
所在地 新潟県糸魚川市一の宮1-3-34
位置 北緯37度2分24.54秒 東経137度51分51.21秒
主祭神 天津彦々火瓊々杵尊
天児屋根命
天太玉命
社格等 式内社(小)論社
(称)越後国一宮
旧県社
創建 (伝)景行天皇年間
本殿の様式 入母屋造銅板葺
別名 一の宮
例祭 4月10日・10月24日
地図
天津神社の位置(新潟県内)天津神社天津神社
地図Wikimedia | © OpenStreetMap
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天津神社(あまつじんじゃ)は、新潟県糸魚川市一の宮にある神社。式内社論社で、越後国一宮を称する。旧社格は県社。

概要
景行天皇の時代の創建と伝えられ、孝徳天皇の勅願所であったと伝えられている。旧糸魚川町のうち、一の宮・押上・寺町・大町・七間町等の産土神として崇敬された、慶長16年(1611年)、江戸幕府から黒印地百石を寄進され、翌年朱印地に改められた。大正7年(1918年)に郷社に列し、後に県社に昇格した。

『延喜式神名帳』には式内社として「越後国頸城郡 大神社」が記載されているが、その論社に比定されている。また、境内社の奴奈川神社も式内社論社である。

祭神
中央:天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)
左:天児屋根命(あめのこやねのみこと)
右:太玉命(ふとだまのみこと)

[匿名さん]

#612023/06/05 23:00
菩提(ぼだい、梵: बोधि; bodhi、巴: bodhi)とは、サンスクリット語・パーリ語のボーディ(bodhi)の音写であり[1]、仏の正覚の智、さとり[2]、仏の悟りの境地[2][3]、極楽往生して成仏すること[3]、悟りの智慧[1]などを意味する仏教用語[注釈 1]。bodhiの漢訳は智、道、覚[1][2][注釈 2]。

菩提を得た者が仏であり、これを目指す衆生を菩薩という[1]。声聞菩提・独覚菩提・仏菩提の3種の菩提のうち、仏菩提は至高であるため無上正等覚(阿耨多羅三藐三菩提)とも呼ばれる[1][6][7]。

俗に冥福の意味にも用いる[2][8](#菩提を弔うを参照)。

「解脱への道」も参照

コレ本当に難しいよね。仏とか違う意味もあるじゃない?
衆生レベルで菩薩とかっしょ。

ニルヴァーナとかともアレだもんね。
同じであって同じじゃないみたいなの凄い多いじゃない?
触る所と触る機能と触った事を感じるところと。同じだけど区別したり、触った感じが頭に伝わってくるとかっしょ?
目で見たりさ。

[匿名さん]

#622023/06/05 23:01
菩提寺
Sacred Mount Osorezan 20200601a stitching9.jpg
所在地 青森県むつ市田名部字宇曽利山3-2
山号 釜臥山
宗派 曹洞宗
本尊 地蔵菩薩
創建年 貞観4年(862年)
開基 (伝)円仁
中興年 大永2年(1522年)
中興 聚覚
別称 恐山菩提寺
札所等 津軽三十三観音霊場番外
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山門
菩提寺(ぼだいじ)は、青森県むつ市の恐山にある曹洞宗の寺院。恐山菩提寺とも称される[1]。本坊は円通寺が勤めている[1]。

概説

本堂
[icon]
この節の加筆が望まれています。
開山期間は5月1日から10月31日で、毎年7月20日から24日に恐山大祭が行われる[1]。恐山は死者の霊魂が集まる場所と信じられており、恐山大祭ではイタコの口寄せも行われる[1]。

境内の宇曽利山湖寄りには噴気や温泉の湧出があり、賽の河原や極楽浜と呼ばれる地形がある[1]。境内には4つの温泉があり、共同浴場として利用されている[1]。

[匿名さん]

#632023/06/05 23:02
歴史
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "菩提寺" むつ市 – ニュース TWL(2017年11月)
この寺の創建年代等については不詳であるが、寺伝によれば862年(貞観4年)天台宗の僧円仁がこの地を訪れ創建したと伝えられる[2]。その後衰退していたが、1522年(大永2年)曹洞宗の僧聚覚が南部氏の援助を受け円通寺を建立して恐山菩提寺を中興し、曹洞宗に改められた。1871年(明治4年)には本坊の円通寺に斗南藩(旧会津藩)の藩庁が置かれた。


本尊・地蔵菩薩を祀る地蔵殿
伽藍
[icon]
この節の加筆が望まれています。
総門
山門
地蔵殿
慈覚大師堂
本堂
塔婆堂
薬師堂
八角円堂
龍神堂
祭事
夏と秋の大祭に、イタコと呼ばれる巫女が、死者の霊をこの世に呼びよせる口寄せを行い、故人と現実に逢っているように対話できる「イタコの口寄せ」が行われる[3]。

大祭典:7月20日から24日
秋詣り:10月の体育の日が最終日となる3日間(土・日・月)

[匿名さん]

#642023/06/05 23:05
恐山(おそれざん、おそれやま)は、下北半島(青森県)の中央部に位置する活火山である[1]。カルデラ湖である宇曽利山湖の湖畔には、日本三大霊場の一つである恐山菩提寺が存在する[1][注釈 1]。霊場内に温泉が湧き、共同浴場としても利用されている[2]。恐山を中心にした地域は下北半島国定公園に指定されている[1]。本記事では、恐山と同霊場について詳述する。なお、恐山山地は下北半島の北部を占める山地を指すので[3]、本記事で詳述するいわゆる霊場恐山とは区別される。


      メ ,, -──- 、._\
    メ/ u    ゚ 。 \\
  / /    ノ  ヽ、   \\       あ・・・あ・・・
   ! |  o゚((●)) ((●))゚o  |        あああああああ・・・
  \\    (__人__)   /く<
   ノ メ/   ` ⌒´   ヽヽヾ

[匿名さん]

#652023/06/05 23:05
霊場としての恐山
「恐山#開山」および「恐山#近代」も参照
宇曽利山湖の湖畔にある恐山菩提寺は日本三大霊場の一つであり、9世紀頃に天台宗の慈覚大師円仁が開基した[1]。本尊は延命地蔵尊[1]。同寺は現在は曹洞宗の寺院であり[1]、本坊はむつ市田名部にある円通寺である[2]。恐山は死者の集まる山とされ、7月の恐山大祭では、恐山菩提寺の境内でイタコの口寄せも行われる(後述)[1]。

開山期間 毎年5月1日〜10月31日[2]
開門時間 午前6時〜午後6時[2]
入山料 500円(2016年5月現在)[2]
大祭典 毎年7月20日〜24日[2]
秋祭典 毎年10月第2週の三連休[2]
信仰
恐山は、地蔵信仰を背景にした死者への供養の場として知られ、古くから崇敬を集めてきた[要出典]。下北地方では「人は死ねば(魂は)お山(恐山)さ行ぐ」と言い伝えられている[要出典]。山中の奇観を仏僧が死後の世界に擬したことにより参拝者が多くなり信仰の場として知られるようになった[5]。明治・大正期には「恐山に行けば死者に会える」「河原に石を積み上げ供物をし声を上げて泣くと先祖の声を聞くことができる」「恐山の三大不思議(夕刻に河原に小石を積み上げても翌朝には必ず崩れている、深夜地蔵尊の錫杖の音がする、夜中に雨が降ると堂内の地蔵尊の衣も濡れている)」などが俗信された[6][7]。

[匿名さん]

#662023/06/05 23:06
イタコの口寄せ
恐山大祭や恐山秋詣りには、イタコマチ(イタコがテントを張って軒を連ねている場所)に多くの人が並び、イタコの口寄せが行われる。なお恐山で口寄せが行われたのは戦後になってからであり、恐山にイタコは常住していない。また恐山菩提寺はイタコについて全く関与していない。イタコは、八戸や、青森から恐山の開山期間中にのみ出張してきており、むつ市には定住していない。

恐山温泉
詳細は「恐山温泉」を参照
霊場内には恐山温泉がある[1][2]。4つの湯小屋は無料(参拝料は必要)であるほか、宿坊にも温泉施設がある[要出典]。

[匿名さん]

#672023/06/05 23:06
歴史
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "恐山" – ニュース · TWL(2017年10月)
開山
伝承によれば、開山は862年(貞観4年)、開祖は天台宗を開いた最澄の弟子である円仁(慈覚大師)とされている。同年に編纂されたとされている『奥州南部宇曽利山釜臥山菩提寺地蔵大士略縁起』[8]によれば、円仁が唐に留学中、「汝、国に帰り、東方行程30余日の所に至れば霊山あり。地蔵大士一体を刻しその地に仏道を広めよ」という夢告を受けた。

円仁はすぐに帰国し、夢で告げられた霊山を探し歩いた。苦労の末、恐山にたどり着いたと言われている[9][10]。その中に地獄をあらわすものが108つあり、全て夢と符合するので、円仁は6尺3寸の地蔵大士(地蔵菩薩)を彫り、本尊として安置したとされている。

近代
恐山は、江戸期以前より地域住民の信仰の対象であったと考えられるが、近代に入ってもそうした信仰は継続していた。この土地の様子を伝える明治期の早い時期の記録の一つとして、作家の幸田露伴が1892年(明治25年)に訪れた折に記した、紀行「易心後語」がある。

「易心後語」によれば、寺の西側はすでに現在と同様、白い岩石が露出する荒涼とした風景だったとのことで、露伴は「何と無く不気味なる」「怪異なる此山の景色」などと記している。集まった人々が死者を思い、念仏を唱えたり賽銭を投げたりしていた光景も詳しく記され、「血の池」では出産の折に死んだ女性の、「賽の河原」では死んだ子の供養が行われていたことも知られる。また、露伴は境内に湧く温泉も利用しているが、3年後の1895年(明治28年)に博文館から刊行された『日本名勝地誌』「東山道之部下」によれば、粗末ながら5ヶ所の浴場が設営されていたとのことである。[11]

[匿名さん]

#682023/06/05 23:07
また、この場所の岩石について、「易心後語」には「岩にさへ赤鬼青鬼等の名ある」としか記されておらず、『日本名勝地誌』も「血ノ池」「畜生道」ほか八大地獄などの称があることを伝えるのみだが、1911年(明治44年)に円通寺が刊行した『奥州南部恐山写真帖』によって、現在も見ることができるような露岩に「鬼石」「剱之山」「修羅地獄」「大王石」といった名前がつけられていたことがわかる。[12]

なお、その後、この宇曽利湖北岸には硫黄鉱山が設けられ、寺の境内も鉱区に含まれていた。寺の東側に下北鉱山区(現在温泉がある場所)、地蔵山西側に宇曽利鉱区、東側に八滝鉱山があり、県道周辺に飯場や遊廓などがあった。当時、硫黄は火薬の原料として貴重であり、硫黄の産出は軍事機密に直結することから、高い秘匿措置がなされていた。当初は三井鉱山によって採掘が行われ、後に王子製紙の所有となっていた。『日本名勝地誌』に「本道なるを以て甚だ嶮ならず」と記され、明治期からよい道であったことがうかがえる恐山街道も、鉱石運搬用道路としてさらに整備が進められ、現在は観光の便に益している。

戦後
これらの鉱山は戦後、石油から硫黄分を大規模に抽出する方法が実用化されたことにより、硫黄原石の価値が暴落したため、1969年(昭和44年)に閉山された。現在でも山内には鉱山の遺構が存在し、土木工事の痕跡も残っている。

また、恐山山地は火山活動の影響で鉱物資源が豊富に存在していたため、恐山の硫黄鉱山のほか、川内町の安部城鉱山(金、銀、銅)、陸奥鉱山(金、銀)、葛沢鉱山(金、黄鉄鉱)、西又鉱山(鉛、亜鉛、黄鉄鉱)、大揚鉱山(黄鉄鉱)、大畑町の大畑鉱山(砂鉄)、大間町の青森鉱山(銅)、佐井村の佐井鉱山(チタン)、千国鉱山(マンガン)など多数の鉱山があったが、現在はすべて閉山している。

[匿名さん]

#692023/06/05 23:33
菩提寺
Sacred Mount Osorezan 20200601a stitching9.jpg
所在地 青森県むつ市田名部字宇曽利山3-2
山号 釜臥山
宗派 曹洞宗
本尊 地蔵菩薩
創建年 貞観4年(862年)
開基 (伝)円仁
中興年 大永2年(1522年)
中興 聚覚
別称 恐山菩提寺
札所等 津軽三十三観音霊場番外
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山門
菩提寺(ぼだいじ)は、青森県むつ市の恐山にある曹洞宗の寺院。恐山菩提寺とも称される[1]。本坊は円通寺が勤めている[1]。

概説

本堂
[icon]
この節の加筆が望まれています。
開山期間は5月1日から10月31日で、毎年7月20日から24日に恐山大祭が行われる[1]。恐山は死者の霊魂が集まる場所と信じられており、恐山大祭ではイタコの口寄せも行われる[1]。

境内の宇曽利山湖寄りには噴気や温泉の湧出があり、賽の河原や極楽浜と呼ばれる地形がある[1]。境内には4つの温泉があり、共同浴場として利用されている[1]。

[匿名さん]

#702023/06/20 14:42
¥ENMA JEANS JAPAN

[匿名さん]

#712023/06/25 01:25
騎士道(きしどう、英: Chivalry)は、ヨーロッパで成立した騎士階級の行動規範。

概要
騎士道とは主に中世ヨーロッパの騎士階級に浸透していた情緒、風習、法や習慣を総称する単語[1]であり、騎士たる者が従うべき規範である。騎士道はキリストの戦士の行動規範として中世盛期に生まれ、その後徐々に民の模範としての規範に姿を変えながら、近世まで西欧国家のほぼ全てに存在した[2]。 騎士道は近代以降も英国紳士の行動規範や、西欧の社交術などに大きな影響を与えた。騎士道に由来するマナーの例としてレディーファーストが挙げられる[3]。

騎士道の教えの核心とされたのは、中世盛期においては「神への献身・異教徒との戦い・弱者の守護」であり、近世においては「主君への忠誠・名誉と礼節・貴婦人への愛」であった[2]。

中世において中世盛期(ちゅうせいせいき)[1]とは、ヨーロッパ史において11, 12, 13世紀を中心とする時代で、歴史上の時代区分としては中世前期の後、中世後期の前とされる。中世後期は1500年までには終了したと考えるのが慣例である[2][3][4][5]。

ヨーロッパ史における中世盛期に顕著な傾向として、大幅な人口増が挙げられる。これによって、前時代からは政治的・経済的に大きな変化が生じた。1250年の大幅な人口増によって引き起こされた経済成長は、地域によっては19世紀までは二度と実現されなかったほど大幅なものであった。しかし、こうした人口増加は、中世後期になるとしばしば発生した災難(ペストが有名だが、戦争や経済停滞も含まれる)によって抑制されることになった。

[匿名さん]

#722023/06/25 01:26
近世(きんせい、英語: early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。

概説
近世を加えた4期の時代区分(古代・中世・近世・近代)は、ルネサンスを起源とする伝統的な3期の時代区分の限界の上に案出されたもの。その始まりと終わりには諸説ある。

現在では、西洋史でも東洋史でも適用されている。西洋史上の「temps moderne」(フランス語)、「Frühe Neuzeit」(ドイツ語)、或いは「early modern period」(英語)(いずれも下記参照)といった用語は、日本では「近世」と訳され、日本の「近世」が向こうに紹介される際は、その逆である。これらの言葉がそれぞれの言語において指し示す対象は多少のズレがあるものの、中世と近代の間にもう一時代おくという認識は共通している。[要出典]

ヨーロッパ
西洋史上では、東ローマ帝国の滅亡及び、ルネサンス・宗教改革・大航海時代あたり(15世紀 - 16世紀前半)から、市民革命・産業革命の時代の前あたり(18世紀後半 - 19世紀初頭)までを指す。主権国家体制や絶対王政の確立などによって定義される。

フランス(語圏)では、16世紀ごろからフランス革命までを「moderne」とし、それ以後から現在の歴史までを「contemporaine」とする。
ドイツ(語圏)では、アメリカ独立革命やフランス革命のあたりまで、自国史では神聖ローマ帝国の崩壊(1806年)あたりまでを「初期近代 Frühe Neuzeit」と呼ぶことで、近代(Neuzeit)と分けている。
英語圏も、近世を「early modern」として、近代(modern)と分けている。字義的には「初期の近代」であるが、現代の歴史学では、「modern」と「early modern」は峻別される。また、「Premodern」(前近代)という時代概念が用いられる場合、普通「early modern」は中世や古代と共に「premodern」側に統括され、ここからも単なる「modern」の初期段階という認識ではないことが伺えよう[要出典]。

[匿名さん]

#732023/06/25 01:26
九偉人(フランス語: Les Neuf Preux、英語: Nine Worthies)とは、歴史上、あるいは聖書、神話、伝説に登場する英雄のうち、中世ヨーロッパにおいて騎士道を体現する偉大な人物として信じられていた9人の英雄のことである。

概要

九偉人 (Alcalá de Henares, 1585).
九偉人が初めて記されたのは14世紀初期、ジャック・ド・ロンギオン(英語版)の著書である。9人の英雄はキリスト教以前、旧約聖書の時代、キリスト教徒の3人組みに分けられ、それぞれの分野での騎士・戦士の理想像として考えられた。九大偉人の選定はたちまち中世ヨーロッパの文学、芸術の分野で共通のテーマとなり、やがて不動の知名度を獲得した。

9人の偉人は全員が優れた武人であり、ヘクトールと(議論のあるところだが)アーサー王を除く全員が征服者である[注釈 1]。また、ほとんどが王あるいは皇帝など貴族の出身であることも特徴である。彼らは母国に栄光と名誉をもたらし、その武勇は記録に残された。彼らの突出した活躍は歴史的な文献と結びつき、騎士道精神の模範となった。マロリーの『アーサー王の死』を出版したウィリアム・キャクストンなどもアーサー王について語る際、九大偉人について言及している。

ニューヨークのメトロポリタン美術館は九偉人を描写した15世紀初期のタペストリーの断片をいくつか展示している。また、九大偉人はルネサンス期の仮面劇でも人気の演目になっていた。また、トランプの絵札についても、この9人の中から相当の人間が選ばれている(詳しくはトランプを参照)。

一方で、男性英雄については固定されていたが、この亜種である女性英雄については流動的でときたま追加、変更が加えられている。

[匿名さん]

#742023/06/25 01:27
人物

異教徒の偉人
ヘクトール - ギリシア神話に登場するトロイアの王子。叙事詩『イーリアス』で活躍。
アレクサンドロス大王 - マケドニア王国の大王。東方遠征により大帝国を作り上げる。
カエサル - 共和政ローマの武将、政治家。のち、「カエサル」は「皇帝」の語源となる

『旧約聖書』の時代、ユダヤ人の偉人
ヨシュア - 「ヨシュア記」に登場。モーゼの後継者としてユダヤ人を指導し、カナンを征服した。
ダビデ - 「サムエル記」「列王記」に登場。ユダヤ人の歴史上、2番目の王とされる。
ユダ・マカバイ - 旧約聖書の外典、「マカバイ記」に登場。ユダヤ人の独立のため戦った民族的英雄。

キリスト教徒の時代
アーサー王 - 5世紀ごろ存在したとされる王。伝説上はキリスト教徒だが、モデルとなった人物はおそらくドルイド教徒。もしくはローマ帝国の指揮官(百人隊長と思われる)。この場合、キリスト教徒であった可能性は高い。
シャルルマーニュ(カール大帝) - 8世紀ごろのフランク王国の国王。版図を広げ、ついにはローマ皇帝になる。
ゴドフロワ・ド・ブイヨン - 第一回十字軍に従軍した騎士。生前も英雄だったが、死後には伝説化する。

脚注
注釈
^ 古代のアーサー王はイギリス内でアングロ・サクソン人と戦ったにとどまるが、やがてローマ遠征をしたという伝説が追加されている。

[匿名さん]

#752023/06/25 01:28
アーサー王(英語: King Arthur)は、5世紀後半から6世紀初めのブリトン人の君主。

[匿名さん]

#762023/06/25 01:28
中世の歴史書や騎士道物語では、アーサー王は6世紀初めにローマン・ケルトのブリトン人を率いてサクソン人の侵攻を撃退した人物とされる。一般にアーサー王物語として知られるものはそのほとんどが民間伝承や創作によるものであり、アーサー王が実在したかについては2017年時点でも歴史家が議論を続けている[2]。彼の史実性を証明する記述は『カンブリア年代記(Annales Cambriae)』、『ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)』、およびギルダス著『ブリタニアの略奪と征服(De Excidio et Conquestu Britanniae)』に断片的に残されている。また、アーサーという名前は『ア・ゴドズィン(Y Gododdin)』などの初期の中世ウェールズ詩にも見られる[3]。

騎士道の教えの核心とされたのは、

中世盛期においては「神への献身・異教徒との戦い・弱者の守護」であり、

近世においては「主君への忠誠・名誉と礼節・貴婦人への愛」であった[2]。

[匿名さん]

#772023/06/25 01:29
エクスカリバー(英語: Excalibur)は、アーサー王伝説に登場する、アーサー王が持つとされる剣。魔法の力が宿るとされ、ブリテン島の正当な統治者(=イングランド王)の象徴とされることもある。同じくアーサー王伝説に登場し、アーサーの血筋を証明する石に刺さった剣と同じものとされることがあるが、別物とされることもある。

エクスキャリバー、エスカリボール、エクスカリボール、カリバーン、キャリバーン、コールブランド、カリブルヌス、カレトヴルッフ、カレドヴールッハなど様々な異称があるが、これらは英語、フランス語、ラテン語、ウェールズ語の発音の違いや写本の表記の揺れで生じたものであり、すべて同じ剣を指す言葉である。エクスカリバーはアーサー王伝説の初期から登場している。

カレトヴルッフ
ウェールズの伝承にはアルスル(アーサー)の剣としてカレトヴルッフが登場する。これは「caled」(硬い)+「bwlch」(切っ先、溝)の意味であるという[1]。この剣は、タリエシン作とされる詩『アンヌヴンの略奪』(Preiddeu Annwfn)、および後世にマビノギオンに集録される『キルッフとオルウェン』(Culhwch ac Olwen, 1100年頃)に名前が見え、後者ではアルスルの最も重要な持ち物の一つとされている[2]。同書ではアルスルの戦士スェンスェアウクがアイルランドの王ディウルナッハを殺すのに使用している[3]。同じくマビノギオンに収められた『ロナブイの夢』(Breuddwyd Rhonabwy)には、カレトヴルッフと明記されていないもののアルスルの剣が鮮やかに描かれている。

 見よ、彼は立ち上がった。手にはアルスルの剣を持っていた。剣身には黄金で打ち出された二匹の蛇の姿があって、鞘ばしると、蛇の首から二筋の炎が立ち上るのが見え、それがあまりにも恐ろしいありさまだったので、だれ一人として目を向けて見る者もないほどだった[4]。(中野節子訳)
後に外国の文献(モンマスをもとにした詩『ブリュ物語』など)がウェールズ語に訳される際、カレトヴルッフはエクスカリバーの訳語として使用された。

[匿名さん]

#782023/06/25 01:29
カリブルヌスからエクスカリバーへ
12世紀のジェフリー・オブ・モンマスはラテン語の偽史『ブリタニア列王史』において、アーサーの剣をカリブルヌス(Caliburnus)とした[5]。これは中世ラテン語で鋼を意味する「calibs」(古典ラテン語ではchalybs)の影響を受けているといわれる。モンマスによると、この剣はアヴァロンで鍛えられたもので、アルトゥルス(アーサー)はこの剣を手にサクソン人の軍勢470人を打ち倒したという。

アーサー王伝説がアングロ=ノルマンの詩人ウァースの『ブリュ物語』を経由してフランスの吟遊詩人に取り入れられた際、ラテン語の格語尾「us」が落ち、起源不明の「es」や「ex」が加わって古仏語のエスカリボール(Escalibor)、エクスカリボール(Excalibor)などに変化した。これらがのちに英語に入り最終的にエクスカリバー(Excalibur)となった。

フランスの詩人クレティアン・ド・トロワの『ペルスヴァル、あるいは聖杯物語』では、ゴーヴァン(ガウェイン)がなぜかエスカリボール(エクスカリバー)を持っており、次のような記述がある。「なにせ、彼(ゴーヴァン)が腰に下げているのは、まるで木を断つかのように鉄を断つ、当世最高の剣エスカリボールなのだから[6]。」この話はランスロ=聖杯サイクルの『メルラン物語』にも見られ、さらにエスカリボールという語は「鉄、鋼(achier)、木を斬るもの、という意味のヘブライ語である」という民間語源説が書き加えられている[7][注 1]。『アーサー王の死』を書いたトマス・マロリーはこの珍妙な説を取り入れて、エクスカリバーを「鋼を斬るもの」という意味とした[8]。

なお、カリブルヌスの英語形であるカリバーン(Caliburne)は『ブリュ物語』などのマロリー以前の英語作品に見える。また、この剣の別名とされることがあるコールブランド(Collbrande)は『頭韻詩アーサー王の死』にカリバーンの異称として登場する[9]。

[匿名さん]

#792023/06/25 01:31
エクスカリバーと石に刺さった剣

エクスカリバーとアーサー(1917年の図面)
アーサー王を題材にした中世ロマンスでは、アーサーがエクスカリバーを手に入れる経緯として様々な説明がされてきた。ロベール・ド・ボロンの詩『メルラン』では、アーサーは石に刺さった剣を引きぬいて王になることになっている。石に刺さった剣を引き抜くことは、「本当の王」、すなわち神により王に任命された、ユーサー・ペンドラゴンの正当な跡継ぎにしか出来ない行為だったという。ボロンの詩にはこの剣の名前は明記されていないが、多くの人がこれを有名なエクスカリバーのことだと考え、その後書かれたランスロ=聖杯サイクルの一部『メルラン続伝』でそのことが明記された[10]。ところが、さらにその後に書かれた後期流布本サイクルの『メルラン続伝』では、エクスカリバーはアーサーが王になったあとに湖の乙女によって与えられるものとされた[11]。

マロリーは、『アーサー王の死』にこの二つのエピソード(石に刺さった剣を抜いて王になる、湖の乙女から魔法の剣を受け取る)を両方取り入れており、その結果生まれた二本の剣をともにエクスカリバーとした[12]ため、混乱を招いている[注 2]。なお、「一本目の石に刺さった剣はカリブルヌスといい、二本目の湖の乙女によって鍛え直された剣がエクスカリバーである」という説明がされることがあるが[14]、マロリーにそのような記述は見られない[注 3][注 4]。

エクスカリバー
アーサーとエクスカリバーの描画、(1906年)
アーサーとエクスカリバーの描画、(1906年)


エクスカリバー、レプリカ (London Film Museum)
エクスカリバー、レプリカ (London Film Museum)

[匿名さん]

#802023/06/25 01:33
エクスカリバーの返還

エクスカリバーを水に投げ入れるベディヴィア(オーブリー・ビアズリー、1894年)
ランスロ=聖杯サイクルの『アルテュの死』で、傷付いたアーサーは騎士ギルフレ(グリフレット)にエクスカリバーを魔法の湖に投げ入れるよう命じる。二回失敗したのち、ギルフレは王の望みを果たし、湖から手が現れて剣を掴む。これを引き継いだマロリーと他の英語の作品では、ギルフレの代わりに騎士ベディヴィアが剣を湖に投げ入れることになっている。

魔法の鞘
マロリーでは、エクスカリバーの鞘は身につけているとどんなに傷を受けても血を失わない魔法の鞘であるという[16][注 5][17][注 6]。しかし、のちにアーサーの異父姉モーガン・ル・フェイが盗みだして湖に沈めてしまう[18][19]。鞘を失ったことで、アーサーはその人生の終焉を避け得ぬようになっていく。

[匿名さん]

#812023/06/25 01:34
ロマンス

トリスタンとイゾルデ(ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス、1916年)
12世紀から13世紀に大陸ヨーロッパ(特にフランス)で新たなアーサー王文学(「ブルターニュもの」)が数多く出現した大きな要因の一つは、ジェフリーの『列王史』とその派生作品(ワースの『ブリュ物語(Roman de Brut)』など)が名声を得ていたからだという意見は一般に認められることである[81]。しかしながら、「ブリテンの話材」の発展に影響を与えたのはジェフリーだけではなかった。ジェフリーの作品が広く知られる以前よりアーサーやアーサー王伝説に関する知識が大陸に伝わっていたことを示す明確な証拠があり[82](たとえばモデナ大聖堂の飾り迫縁)、また、ジェフリーの作品に見られないケルト起源の名称が大陸のロマンスに残されているからである[83]。アーサーの視点から言うと、新しいアーサーものが大量に生み出された最大の要因は、物語におけるアーサー王の役割にあったのかもしれない。12世紀とそれ以降のアーサー王文学が隆盛した時代には、アーサー自身よりも他の人物、すなわちランスロット、グィネヴィア、パーシヴァル、ガラハッド、ガウェイン、トリスタンとイゾルデに焦点が当てられることが多くなるのである。ジェフリー以前の作品や『列王史』ではアーサーはずっと物語の中心にいたが、ロマンスではすぐに脇役に退いてしまう[84]。アーサーの性質も以前とは大きく異なっている。初期の作品や『列王史』では偉大な戦士で、私怨で魔女や巨人を虐殺する際には嘲笑し、戦争でも主導的な役割を果たす[85]。

[匿名さん]

#822023/06/25 01:34
一方、大陸のロマンスでは「何もしない王(roi fainéant)」に成り果て、アーサーが「何もせず、ただ沈黙してるさまは、彼の理想的な社会に漂う平和な雰囲気を作り出している」[86]。ロマンスにおけるアーサーの役割は賢く、尊厳にあふれ、落ち着いた、いくぶん無個性で、たまにひ弱さすら見せる君主であることが多いのである。たとえば、『アルテュの死』でランスロットとグィネヴィアの不義を知った王はただ青ざめ、声を失うのみであり、クレティアン・ド・トロワの『イヴァンまたは獅子の騎士』ではアーサーは宴のあとにすぐさま眠くなり、昼寝のために寝室に引っ込んでしまう[87]。にもかかわらず、ノリス・J・レイシーが述べたように、ロマンスの中のアーサーがどんなに弱く、失策を犯したとしても、「弱さによって威厳が損なわれることは(ほとんど)一度もなく、アーサーの権威と栄光は無傷のままに残されるのである」[88]。

[匿名さん]

#832023/06/25 01:35
アーサーとその従者達はマリー・ド・フランスのレーの数篇に登場する[89]。しかし、最も大きな影響力を持ち、アーサーの人物像と伝説の発展に寄与したと考えられているのは、もう一人のフランスの詩人クレティアン・ド・トロワの作品である。クレティアンは1170年頃から1190年頃までに5編のロマンスを書いた[90]。『エレックとエニード(Erec et Enide)』と『クリジェス(Cligès)』はアーサー王の宮廷を背景とする宮廷愛の物語で、ウェールズやジェフリーの英雄的な世界観からの転換が示されている。『イヴァンまたは獅子の騎士(Yvain, Le Chevalier du Lion)』ではイヴァンとガウェインの超自然的な冒険が描かれており、アーサーは弱い傍観者的な立場に甘んじている。アーサー王伝説の発展に多大な影響を与えたのは『ランスロまたは荷車の騎士(Lancelot, Le Chevalier de la Charrette)』と『ペルスヴァルまたは聖杯の物語(Perceval ou le Conte du Graal)』である。『ランスロ』はランスロットとグィネヴィアの不義を初めて導入した作品であり、後に発展して繰り返し語られる「寝取られ男」としてのアーサー像を広めた作品である。『ペルスヴァル』は聖杯と漁夫王(いさなとりのおう)を初めて取り入れており、これによりアーサーの役割は再び大きく減っている[91]。

[匿名さん]

#842023/06/25 01:35
このようにしてクレティアンは「アーサー王伝説を洗練させ、伝説の拡散に理想的な形式を作り上げた」、アーサー王ロマンスの仲介者といえる存在になった[92]。後に続いてアーサー王伝説を描いた人々は、クレティアンの築いた基礎の上に自らの作品を積み上げていったのである。『ペルスヴァル』は未完に終わったが特に人気を博し、これが書かれた次の50年には続編に当たる詩が別個に4編も書かれた。聖杯探求というテーマはロベール・ド・ボロンなどによって発展され、アーサーの没落までを連続したロマンスで書くという流れを加速させた[93]。ランスロットと彼のグィネヴィアとの不貞行為もアーサー王伝説の古典的モチーフの一つとなった。ただし、『散文のランスロ』(1225年頃)やのちの諸作品はクレティアンの『ランスロ』とウルリッヒ・フォン・ツァツィクホーフェンの『ランツェレット』を組み合わせただけのものだった[94]。クレティアンの作品はウェールズのアーサー王文学に逆輸入され、その結果、ロマンスのアーサー像がウェールズ伝統の英雄的で積極的なアーサー像に置き換わり始めた[95]。この流れは(『マビノギオン』に収録されている)3編のウェールズのアーサー王ロマンスに顕著に見られ、これらはいくつかの大きな差異があるもののクレティアンの作品とよく似ている。『マビノギオン』の『オウェイン、あるいは湖の貴婦人』はクレティアンの『イヴァン』に、『ゲライントとエニード』は『エレックとエニード』に、『エヴラウグの子ペレドゥル』は『ペルスヴァル』にそれぞれ対応する[96]。

[匿名さん]

#852023/06/25 01:36
1210年頃までは、大陸ヨーロッパのアーサー王ロマンスは韻文で表現されていたが、それ以降は散文で物語を書くようになり始めた。13世紀でもっとも重要な散文作品は『流布本サイクル(ランスロ=聖杯サイクル)』で、これは13世紀後半に中世フランス語で書かれた物語群である[97]。「聖杯物語」、「メルラン物語」、「ランスロ本伝」(「散文のランスロ」とも。分量的に『流布本サイクル』の半分以上を占める)、「聖杯の探求」、「アルテュの死」からなり、アーサー王伝説全体が一貫した物語になっている。このサイクルではギャラハッドを導入したりやマーリンの役割が増大したことにより、伝説におけるアーサーの役割の後退がさらに進んでいる。また、モードレッドがアーサーと彼の姉の近親相姦によって生まれた存在になり、クレティアンで初めて言及されたキャメロットがアーサーの宮廷の名称として定着した[98]。『流布本サイクル』のすぐ後に『後期流布本サイクル』(1230-1240年頃)が書かれた。これには聖杯探求に物語をフォーカスするために「メルラン続伝」が置かれており、それによってランスロットとグィネヴィアの不義の物語内の重要性が下がっているが、それでもアーサーの周辺化が止まることはない[97]。このように、アーサーはフランス語の散文作品ではマイナーな登場人物になってしまっている。実際、『流布本サイクル』ではアーサーは「メルラン物語」と「アルテュの死」にしか登場しないのである。

[課長島アーサー]

#862023/06/25 01:40
中世のアーサー王物語群と「ロマンス的アーサー像」の発展は、トマス・マロリーの『アーサー王の死(Le Morte D'Arthur)』(本来の題名は『アーサー王と彼の高貴なる円卓の騎士(The Whole Book of King Arthur and of His Noble Knights of the Round Table)』)で頂点を迎える。これは15世紀に英語で書かれた、アーサー王伝説全体を1つのまとめた作品である。マロリーはそれ以前の様々なロマンス、特に『流布本サイクル』を基に、アーサー王物語の包括的で権威ある作品を作り出す意図で書いたと考えられる[99]。おそらくこの意図のおかげで、あるいは1485年にウィリアム・キャクストンの手によりイングランドで最初に印刷された作品の一つになったおかげで、マロリーの作品は後世の多くのアーサー王に関する作品の基礎となった[100]。

[匿名さん]

#872023/06/25 01:40
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1051865479さん

2023/4/18 13:01

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歴史と物語の違いはなんですか

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ani********さん

2023/4/18 14:47

歴史は過去に実際に起きたこと。
物語は起承転結といった話の流れが完成されている一連のお話で、事実かフィクションかは関係ない。
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[匿名さん]

#882023/07/21 17:47
寒川神社(さむかわじんじゃ)は、神奈川県高座郡寒川町宮山に鎮座する神社。相模國一之宮。式内社(名神大社)[注 1]で、旧社格は国幣中社。現在は神社本庁の別表神社。

関東地方における著名な神社の一つであり、年間約200万人に及ぶ参拝者が訪れる。初詣の参拝者数は神奈川県内の神社では鎌倉市の鶴岡八幡宮に次いで2番目に多い。また日本で最も昇殿祈祷者が多い神社としても知られる[1]。

概要
創建時期は不詳であるが極めて古いとされ、約1600年前の雄略天皇の御代には既に朝廷より幣帛の奉勅があり、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では、相模国唯一の国幣大社として朝廷の名神祭に預かる名神大社に列格された神社である[2]。

八方除の守護神として多くの参拝者が集まり、正月三が日だけでも約50万人が初詣に訪れる。元日午前0時には大太鼓の合図と共に八方除祭・元旦祈祷祭が行われ、近年では迎春ねぶたの初点灯も実施されている。

著名人の参拝が多くことで知られ、俳優の高倉健は映画やドラマの撮影の合間に度々参拝に訪れていたことで知られる。(詳細は、その他の項目を参照。)

この他、宗教法人としての寒川神社は寒川病院[3]、老人介護施設「神恵苑[4]」を運営している。

祭神
現在の祭神は以下の2柱で、寒川大明神と総称される[5]。

寒川比古命 (さむかわひこのみこと)
寒川比女命 (さむかわひめのみこと)
2柱とも記紀には記載がなく、詳細は不明[5][6]。寒川比古命・寒川比女命は、大水上命(おおみなかみのかみ)の御子とする説もある[6]。また、この二柱は牟弥乃神社(伊勢神宮末社)で祀られている。大水上命は大山祇神と同一視されるが、詳細は不明[7][8]。

また、祭神については他にも佐河大明神(吾妻鏡十二)、八幡神/八幡大菩薩(諸国一宮神名帳等)[注 2]、あるいは菊理媛命(惣国風土記)、澤女神(神名帳考証、神名帳注釈)、素盞嗚命と稲田姫尊(旧神詞記)、大己貴尊(一宮巡詣記)などの諸説がある[9][5]。

[匿名さん]

#892023/07/21 17:48
歴史
現在は神奈川県中央南部、相模川河口から約7km遡った左岸の低台地上に鎮座するが、弥生時代には相模湾が当地に入り込んでいた。

一説に古代より相模川より東部一帯に勢力を誇った相武国造(さがむのくにのみやつこ)がおり、相武国造の氏神として創祀されたと推定される。近隣に初代相武国造の茅武彦命(かやたけひこのみこと)が埋葬されたと伝わる大神塚古墳がある。5世紀の雄略天皇の代には既に朝廷より幣帛の奉幣があり、以後桓武天皇の代である延暦7年(788年)5月をはじめ、朝廷より幣帛・勅祭が行われた。さらに『続日本後紀』にて承和13年(846年)9月8日には従五位下の叙位が授与される[10]。なお、相武国造の同族である千葉国造の領域にも寒川神社が存在する。

『延喜式神名帳』では「相模国高座郡 寒川神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。

奈良・平安時代の古代東海道は平塚市四之宮付近から相模川を渡り、寒川町南部の田端・一之宮付近を通り北上して寒川神社の東側を通過し、目久尻川に沿うように国分寺がある海老名方面に通過していたと推定されている。

また、鎌倉時代の『吾妻鏡』には「一宮佐河大神」と記載があり、相模国の一宮とされたことがわかる。源頼家が誕生した際には、源頼朝より神馬の奉納等があった[9]。以後も北条氏(鎌倉幕府)から崇敬された[9]。 戦国時代以降、相模国を支配した後北条氏や徳川家康(徳川幕府)より社領を認められた[9]。また、武田信玄が小田原攻めの途中に当社を参拝して戦勝を祈願し、自身の纏っていた兜と太刀を奉納している(後述)。

明治4年(1871年)5月、近代社格制度において国幣中社に列した[9]。 大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で損傷を受け、昭和2年(1927年)社殿修復を終えた[9]。

[かながわ一番の]

#902023/07/21 17:50
玉前神社(たまさきじんじゃ)は、千葉県長生郡一宮町一宮にある神社。式内社(名神大社)、上総国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

祭神
祭神は次の1柱[1]。

玉依姫命 (たまよりひめのみこと)
社伝では、玉依姫命は海からこの地に上がり、豊玉姫命から託された鵜葺草葺不合命を養育した。のち鵜葺草葺不合命と結婚し、神武天皇(初代天皇)らを産んだとされる。
『延喜式』神名帳を始めとして文献上は祭神は1座とされているが、古社記には鵜茅葺不合命の名が併記されている[2]。そのほかに『大日本国一宮記』では前玉命とし、また天明玉命とする説もあった。

歴史
概史
永禄年間(1558年-1570年)の戦火により社殿および古記録等が焼失したため、創建年代は不明。他の文献等により、少なくとも鎮座以来1,200年以上経過していることは間違いないとされる。

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』では、上総国埴生郡に「玉前神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。また、上総国一宮として崇敬を受けたとされる。

江戸時代、貞享4年(1687年)に現在の社殿が造営される。

1871年(明治4年)近代社格制度において国幣中社に列した。1900年(明治33年)と1923年(大正12年)には社殿等の改修が行われた。

[明太子スパゲティー]

#912023/07/21 17:52
伊和神社(いわじんじゃ)は、兵庫県宍粟市一宮町須行名にある神社。式内社(名神大社)、播磨国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

海神社・粒坐天照神社と合わせて「播磨三大社」と総称される。

祭神
主祭神
大己貴神
『播磨国風土記』の記載では、播磨国の神である伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神とみなせる。
配神
少彦名神
下照姫神
『風土記』では伊和大神は出雲から来たという。「伊和」の語源について『風土記』では神酒(みわ)から、或いは大己貴神が国作りを終えて「於和(おわ)」と呟いたためとする[1]。

歴史
成務天皇14年または欽明天皇25年の創祀と伝わる。

『延喜式神名帳』には、「伊和坐大名持魂神社(いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ)」(伊和に鎮座する大己貴神の社)とあり、正暦2年(991年)、正一位の神階に叙せられた。

播磨国一宮とされ、幾度か火災にあって焼失する度に朝廷、国司、守護赤松氏、近隣の藩主などの庇護で再建された。なお、鎮座地である一宮町(現・宍粟市)の地名は、播磨一宮の当社に由来する。[2]。

[匿名さん]

#922023/07/21 17:53
下光比売命(したてるひめのみこと/したでるひめのみこと)は、日本神話に登場する神道の女神である。

概要
『古事記』では本名を高比売命(たかひめのみこと)、亦の名を下光比売命・下照比売命(したてるひめのみこと)、『日本書紀』では下照姫・下照媛、亦の名は高姫、稚国玉(わかくにたま)、『先代旧事本紀』地神本紀では下照姫命と記述される。三輪氏族の系図では阿陀加夜怒志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめのみこと)の別名を伝える。

『古事記』および『日本書紀』正伝によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされた天若日子が、大国主神に取り入ってあわよくば葦原中国を自分のものにしようと目論み、その娘である高比売命と結婚した。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、高比売命の泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いた天若日子の父の天津国玉神や天若日子の妻子らは葦原中国に降臨し、天若日子の喪屋を建て殯を行った。そこに阿遅鉏高日子根神が訪れたが、その姿が天若日子にそっくりであったため、天津国玉神や妻子らは天若日子が生き返ったと喜んだ。阿遅鉏高日子根神は穢わしい死人と間違えられたことに怒り、喪屋を大量で斬り倒し、蹴り飛ばして去って行った。高比売命は、阿遅鉏高日子根神の名を明かす歌を詠んだ。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』正伝にはない)。『日本書紀』の第一の一書では、天稚彦の妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみ下照媛の名が登場し、味耜高彦根神の妹であるとしている。

系譜

大国主の系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神、黄は性別不詳
『古事記』では大国主神(『日本書紀』では顕国玉)と多紀理毘売命の娘で、阿遅鉏高日子根神の妹としており、『先代旧事本紀』地神本紀でも『古事記』同様に大己貴神と田心姫命の娘で、味耜高彦根神の同母妹とする。

[匿名さん]

#932023/07/21 17:55
下光比売命
神祇 国津神
全名 下光比売命
別名 下照比売、高比売命、下照姫命、高姫命、稚国玉、等
神格 雷神
父 大国主神
母 多紀理毘売命
兄弟姉妹 同母:阿遅鉏高日子根神
異母:事代主神、建沼河男命、建御名方神、木俣神 等
配偶者 天若日子
神社 売布神社、比売許曽神社等

何に泣いてたんだろうね。
それでしかなかったのかね?なんか分かったんでしょ?
誰が言ってた?
そんなつもりで一緒になったのに泣いてたのかどうかさ。

[匿名さん]

#942023/07/21 17:55
最初はそんなもんよって
いうタイプ多いところしってる?

[匿名さん]

#952023/08/12 10:42
岩木山神社
中門と拝殿
中門と拝殿
所在地 青森県弘前市百沢字寺沢27
主祭神 顕国魂神
多都比姫神
宇賀能売神
大山祇神
坂上刈田麿命
社格等 旧国幣小社
別表神社
創建 (伝)宝亀11年(780年)
本殿の様式 三間社流造銅瓦葺
例祭 旧暦8月1日(八朔祭)
地図
岩木山神社の位置(青森県内)岩木山神社岩木山神社
岩木山神社 (青森県)
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岩木山神社の位置(日本内)岩木山神社
岩木山神社
岩木山神社(いわきやまじんじゃ)は、青森県弘前市百沢の岩木山の南東麓にある神社。別称、「お岩木さま」「お山」「奥日光」。旧社格は国幣小社で、津軽国一宮とされる。

概要
昔から農漁業の守護神として、津軽の開拓の神として、地元の人々の祖霊の鎮まるところとして、親しまれてきた[1]。なお神社の参道は岩木山の登山道の1つとなっていることでも知られており、この神社の奥宮は岩木山の山頂付近にある。

社殿は、神仏習合の時代の名残りをとどめ、鎌倉時代以後の密教寺院の構造がみられる中に、桃山時代の様式を思わせる色とりどりの絵様彫刻がみられ、そうした外観が日光の東照宮を思わせるとして、「奥日光」と呼ばれるに至った[2]。

祭神
顕国魂神(うつしくにたまのかみ)-大国主神
多都比姫神(たつびひめのかみ)
宇賀能売神(うかのめのかみ)
大山祇神(おおやまつみのかみ)
坂上刈田麿命(さかのうえのかりたまろのみこと)
以上をまとめて岩木山大神(いわきやまおおかみ)と称する[3]。

[おとくいサマー暑すぎ太郎]

#962023/08/12 10:43
歴史
創建については諸説があるが、最も古い説では、宝亀11年(780年)、岩木山の山頂に社殿を造営したのが起源とされる[1]。

延暦19年(800年)、岩木山大神の加護によって東北平定を為し得たとして、坂上田村麻呂が山頂に社殿を再建し、その後、十腰内地区に下居宮(おりいのみや=麓宮、現在の厳鬼山神社)が建立され、山頂の社は奥宮とされた[1]。また、田村麻呂は、父の刈田麿も合祀したとされる。

寛治5年(1091年)、神宣により、下居宮を十腰内地区から岩木山東南麓の百沢地区に遷座し、百沢寺(ひゃくたくじ)と称したのが現在の岩木山神社となっている[1]。岩木山の山頂に阿弥陀・薬師・観音の3つの堂があり、真言宗百沢寺岩木山三所大権現と称して、付近の地頭や領主らに広く信仰された[1]。

天正17年(1589年)岩木山の噴火により、当時の百沢寺は全焼したが、慶長8年(1603年)津軽為信により再建が始められ、その後も信牧・信義・信政らの寄進により再建が行われた[4][5]。本殿、奥門、それに続く瑞垣は、下居宮と称され[5]、江戸時代には津軽藩の総鎮守とされた。

明治の神仏分離により寺院を廃止、津軽総鎮守・岩木山神社とされ、明治6年(1873年)、国幣小社に列格された[2]。

百沢寺(ひゃくたくじ)
百沢寺(ひゃくたくじ)
百沢寺(ひゃくたくじ)

[匿名さん]

#972023/08/12 10:45
北海道神宮
拝殿

地図Wikimedia | © OpenStreetMap
所在地 北海道札幌市中央区宮ヶ丘474
主祭神 大国魂神
大那牟遅神
少彦名神
明治天皇
社格等 旧官幣大社
別表神社
創建 明治2年(1869年)
本殿の様式 神明造
例祭 6月15日(札幌祭)
地図
北海道神宮の位置(札幌市内)北海道神宮北海道神宮
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北海道神宮の位置(日本内)北海道神宮
北海道神宮
北海道神宮(ほっかいどうじんぐう)は、北海道札幌市中央区にある神社(神宮)。円山公園に隣接する。1964年(昭和39年)までは札幌神社。旧官幣大社であり、現在は神社本庁の別表神社。また、全国一の宮会より蝦夷国新一の宮に認定されている。

概要
北海道の開拓当時樺太・千島に進出を進めていたロシア帝国に対する守りということで、大鳥居が北東を向いている。末社である開拓神社には間宮林蔵などの北海道開拓の功労者が数多く祀られている。

北海道神宮崇敬奉賛会がある。

『北の志づめ』という小冊子が社務所から発行されている。

南東側の鳥居
南東側の鳥居


春の表参道
春の表参道

祭神
大国魂神(おおくにたまのかみ)
大那牟遅神(おおなむちのかみ、大国主命〈おおくにぬしのみこと〉の別名)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
明治天皇(めいじてんのう)

全国一の宮会が決めてるんだっけ?★

[匿名さん]

#982023/08/12 10:46
これより古く、安政4年(1857年)から福島出身の早山清太郎[注 3]が札幌に住み着いていた。早山清太郎は豊平街道と元村街道の辻に小祠を建て、周囲からは当時一般的な山神を祀るべきだと言われるにもかかわらず、出雲神を祀っていた[8]。

蝦夷国?

[匿名さん]

#992023/08/12 10:46
歴史
構想
江戸時代から松浦武四郎による石狩大社の構想などがあり、蝦夷地・石狩に大社を建てる構想は早くからあった。

箱館八幡宮の宮司菊池重賢は、箱館八幡宮の末社としてサッポロに石狩鎮守八幡宮を建立する案を持っていた。この案は神祇管領の吉田家により承認されていたが、開拓使の設立によって実現はしなかった。後に菊池重賢は北海道神宮(当時は札幌神社)の事実上の初代宮司となった[1]。

開拓大主典(判官)の相良正勝は、北海道に置かれた11国のうち、札幌に一ノ宮を建て、その他の10国にもそれぞれ一ノ宮を建てて札幌の一ノ宮の下に置くという体系を提言したが、採用されなかった[2]。

後述する島義勇は、開拓三神ではなく、当初は大名持神(大国主)、少名彦に加えて、飛鳥時代に蝦夷討伐を行った阿倍比羅夫を合わせ、三神として祭祀する案を出したが採用されなかった[3]。

開拓三神
北海道の開拓は明治初年から懸案事項となっていたが、開拓にあたって、明治天皇は北海道鎮護の神を祭祀するよう勅を発した(明治2年9月21日)[注 1]。北海道開拓の守護神として、大国魂神・大那牟遅神・少彦名神の開拓三神が奉遷されることになった。北海道鎮座神祭が行われ、開拓長官の東久世通禧以下23名らが参列した。神祇伯中山忠能によって祭祀が行われ、三面の神鏡が東久世通禧に託された[5]。

開拓使の一行は英国船テールス号で品川から函館へ到着した。東久世通禧は函館に赴任したが、函館は北海道の南端にあり、全土を管掌するにはより中央部に行かなければならなかった。そこで、東久世通禧の名代として島義勇が三神鏡を携えて札幌に赴くことになった。島義勇は自ら神体を背負い、雷電、黒松内、岩内、余市を経て10月に銭函に到着した。札幌に官舎[注 2]が完成してすぐの12月3日に札幌に移った[5][7]。

[匿名さん]

#1002023/08/12 10:47
仮社建設まで
これより古く、安政4年(1857年)から福島出身の早山清太郎[注 3]が札幌に住み着いていた。早山清太郎は豊平街道と元村街道の辻に小祠を建て、周囲からは当時一般的な山神を祀るべきだと言われるにもかかわらず、出雲神を祀っていた[8]。

札幌に着任した島義勇は、明治天皇から預かった開拓三神を既に早山清太郎が札幌で祀っていたことに感銘を受け、1870年(明治3年)5月に北海道 (令制)石狩国札幌郡の創成川河畔に仮社殿を造り、官舎から神代を移して開拓神勅祭社とし、北海道一宮と称した[9]。

仮社のあった場所は2通りの説があり、定まらない。一つは現在の札幌市北区北6条東1丁目、もう一つの説は北5条東1丁目で、通りの北側か南側のいずれかということになる。『北海道神宮史』では、各種の史料と当時の地図を検証し、北5条東1丁目が正しいであろうとしている[10]。

早山草太郎は後述の通り、現在の北海道神宮の位置選定に携わった。その後も札幌神社に関わり、昭和30年代までは毎年の祭りの神輿渡御の先頭を務めていた[11]。

[匿名さん]

#1012023/08/12 10:47
札幌神社の成立

札幌神社(1909年刊行の写真帖より)
1871年(明治4年)6月14日に勅旨によって札幌神社と命名され、国幣小社に列せられた[8][4]。当時の東久世通禧の日誌によると、明治天皇の勅命によって奉斎されたことから、札幌神社は勅祭社と同様の扱いとされた[7]。

一宮か
『北海道神宮史』によると、正式に「一ノ宮」とされたことはないが、一般には「一ノ宮」と呼ばれていた[12]。上述のように、構想段階ではしばしば「蝦夷地一ノ宮」とか「北海道一宮」と称するものがあったものの、これらが採用されたことはない。しかし、当時の史料や後世の文献でも「一宮」と称する例は多くみられ[注 4]、例えば当時作られた札幌の地図では「一之御宮」と記されている。北海道神宮(当時は札幌神社)の創建の際、神職の選任にあたって函館本願寺の僧が選ばれたが、この時も「北海道一ノ宮の神職」として発令された[15]。

[匿名さん]

#1022023/08/12 10:47
円山移転
島義勇は早山清太郎を地理係に雇い入れて本格的な神社用地を探させた結果、三方を山に囲まれ一方が開ける丘となる円山(当時は藻岩村大字圓山)の地が相応しいとして社地を定めた[5]。島義勇はここに壮麗な社殿を建てようとするが、計画が壮大すぎるために大蔵省からストップがかかって断念した[注 5]。

この件に限らず、島義勇の札幌の開発計画は壮大で巨額の予算を惜しげもなく投じるもので、6万両の予算をわずか3か月でほとんど使い果たしてしまった[注 6]。この結果、島はその後まもなく職を解かれてしまうが、東久世通禧は島義勇が定めた円山に新社殿を造営することにした。この時建立された社殿はいちおう「仮宮」ということになった。

1871年(明治4年)6月に鎌倉宮を模した新社殿[11]が落成し、9月14日に遷宮を行った[8]。

翌1872年(明治5年)には官幣小社となった。しかし開拓使の職員にとってはこの昇格は必ずしも望ましいものではなかった。国幣小社であるうちは開拓使に権限があったが、官幣小社に昇格したことで、些事に至るまで神祇省、教部省などの許認可を得る必要が生じてしまった[18]。

初代の宮司に任命された者が札幌に赴任しなかったため、事実上の初代宮司を務めたのは箱館八幡宮の宮司だった菊池重賢である[19]。菊池は札幌神社の宮司であるとともに、開拓使神祗官などの公職にも就いて北海道の神社行政全般を執った。

円山への移転は必ずしもよいことばかりではなかった。当時の円山は札幌の中心部から遠い、道も未整備の山奥で、参詣もままならなかった。道路の整備に充てる資金どころか、神社の運営資金が枯渇し、次々と神職が辞めてしまった。神社で独自の収入を得るため配札を行おうとしたが、官社に指定されたことから開拓使がこれに反対した。開拓使は、札幌神社の申請を却下するよう、教部省に働きかけさえした。配札が許されるには1900年(明治33年)までかかった[20]。

[匿名さん]

#103
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#1042023/08/12 10:48
祭事・年中行事
1月
歳元祭(1月1日)
元始祭(1月3日)
古神札焼納祭(1月14日)=どんど焼き参照
祈請祭(1月 第3日曜日)
2月
節分祭(節分の日)
紀元祭(2月11日)
祈年祭(2月17日)
天長祭(2月23日)
3月
入学祭(3月 最終日曜日)
小学校に入学する児童の学業成就と心身健全、交通安全を祈願する儀礼行事
4月
島判官慰霊祭(4月13日)
北海道開拓と北海道神宮の創祀に功績のあった島義勇判官を偲ぶ慰霊祭
5月
お田植祭(5月上旬)
6月
例大祭(6月14日~16日)北海道神宮の最大の祭りで札幌まつりとも呼ばれ、札幌の初夏の風物詩として市民に親しまれている
宵宮祭(6月14日)
例祭(6月15日)
神幸渡御(6月16日) 
明治11年に開始。現在は一千名ほどの奉仕者により四基の鳳輦と九台の山車が市民の安寧を祈願しながら市中を練り歩く
夏越しの大祓い(6月30日)

[お祭りやろう]

#1052023/08/12 10:49
8月
開拓神社例祭(8月15日)
北海道開拓の功労者37柱の霊を称える慰霊祭でみたま祭とも呼ばれる
9月
御鎮斎記念祭(9月1日)
開拓3神が御鎮斎された記念の日を祝う
抜穂祭(9月上旬)
神饌田の穂を収穫する
頓宮例祭(9月15日)
10月
神嘗奉祝祭(10月17日)
七五三(北海道では、11月になると寒さと降雪の影響で外出が制約されるため、10月に実施する地域が多い)
11月
明治祭(11月3日)
北海道神宮の創立の断を下し、祭神でもある明治天皇の誕生日を祝う祭礼行事
新嘗祭・新穀勤労感謝祭(11月23日)
12月
師走の大祓(12月31日)
除夜祭(12月31日)
月次祭
月首祭(毎月1日)
月次祭(毎月15日)
旬祭(毎月10日・20日)
施設
北海道神社庁
境内に所在する。
北海道神宮頓宮(とんぐう)
境外末社。開拓三神を祀る。
鉱霊神社(こうれいじんじゃ)
境内末社。北海道鉱業会殉職者御霊を祀る。
穂多木神社(ほたきじんじゃ)
境内末社。北海道拓殖銀行物故者御霊を祀る。「穂多木」とは「ほっかいどう・たくしょく・ぎんこう」の頭文字を清音化して字を当てたもの[25]。
狛犬は珍しくブロンズ製である[25]。

[七月魔神のつかい]

#1062023/08/12 10:52
少名毘古那神
神祇 天津神
全名 少名毘古那神
別名 少彦名命、宿奈毘古那命、須久那美迦微、須久奈比古、少日子根命、小比古尼命、小彦命、小日子命、小名牟遅神、久斯神、少名彦命、天少彦根命 等
神格 国造りの神、農業神、薬神、禁厭の神、温泉の神
親 神産巣日神または高皇産霊尊
配偶者 伊豆目比売命(市杵嶋姫命)[注 1]
子 菅根彦命(金鋺翁菅根彦根)[注 1]
神社 大洗磯前神社等
関連氏族 梶井氏(金丸村村主)[注 1]
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少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は、日本神話に登場する神。

概要

歌川国芳『日本国開闢由来記』巻一より波に乗ってオオナムチ(大国主神)の前に出現したスクナビコナ(右上)
『古事記』では少名毘古那神、『日本書紀』では少彦名命(すくなひこなのみこと)、『先代旧事本紀』では天少彦根命(あまのすくなひこねのみこと)、『出雲国風土記』では須久奈比古命、『播磨国風土記』では小比古尼命(すくなひこねのみこと)、他に須久那美迦微、少日子根などと表記する。

『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。

『古事記』によれば、スクナビコナは、大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ=ガガイモの実とされる)に乗り、鵝(ヒムシ=ガとされる)の皮の着物を着て波の彼方より来訪し、神産巣日神の命によって義兄弟の関係となって国造りに参加した。『日本書紀』にもこれと同様の記述があるが、ミソサザイの皮の着物を着ている。スクナビコナが登場するのは、『記』・『紀』以外では、『播磨国風土記』や『伊予国風土記』(逸文)、山陰や四国、北陸などの地方伝承である。

スクナビコナはオオナムチ(大国主神)同様多くの山や丘の造物者であり、命名神である。その一方で、スクナビコナは悪童的な性格を有するという記述がある(『日本書紀』八段一書六)。スクナビコナはのちに常世国へと渡り去るが、これは草に弾かれて常世へ渡った、川で溺れて神去りしたなど様々な説話が存在する。

[匿名さん]

#1072023/08/12 10:53
神名
スクナビコナの名前の由来について、『古事記伝』によれば「御名の須久那(スクナ)はただ大名持(オホナムチ)の大名と対であるため」とある。あるいは金井清一によれば「若き日の御子」の意とする説がある。また、この神が必ずオホナムチと行動を共にすることから、二神の関係が古くから議論されている。

スクナビコナは、国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ。

酒造に関しては、酒は古来薬の一つとされ、スクナビコナが酒造りの技術を広めたことと、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えたときの歌に「少名御神」の名で登場することから、酒造の神であるといえる。

石に関しては、記述よりそうした面が見られると想像されるだけであり、あくまで性質的なものである。

大林太良はこの神に「第二の自我」を見、吉田敦彦は双生児的な関係を指摘している。海から来訪したとの記述により渡来人という説もあるが、船で渡来=外国人という単純な図式からの連想であり、奇説の域を出ない。

コロボックルをテーマにした児童文学シリーズを書いた佐藤さとるは、その第一作である『だれも知らない小さな国』において、スクナビコナとコロポックルとが同じ種族ではないかという推測を主人公に語らせている。

後裔
『先代旧事本紀』では鳥取氏の祖神とされている。

能登生國玉比古神社(中能登町金丸)の社伝によると、大己貴命と少彦名命が能登国の国魂神である多食倉長命と共に国土を平定した際、少彦名命が多食倉長命の娘の伊豆目比売命(市杵嶋姫命)を娶り、金丸村村主遠祖の菅根彦命(金鋺翁菅根彦根)を産んだ。その子孫が神主の梶井氏であるという。[1][2]

[匿名さん]

#1082023/08/12 10:54
祀る神社
各地の少彦名神社
北海道神宮(北海道札幌市中央区) - 他、北海道内には同神宮(または札幌神社)から開拓三神として大那牟遅神(大国主神)・大国魂神とともに分祀された神社多数。
雨宮坐日吉神社(長野県千曲市雨宮) - 旧「埴科郡雨宮」。
酒列磯前神社(茨城県ひたちなか市)
大洗磯前神社(茨城県大洗町)
小祝神社(群馬県高崎市)
大田原神社(栃木県大田原市)
神田神社(東京都千代田区) - 二之宮のご祭神。
布多天神社(東京都調布市)
穴澤天神社(東京都稲城市)
阿豆佐味天神社(東京都西多摩郡瑞穂町)
五條天神社(東京都台東区上野公園)
沙沙貴神社(滋賀県近江八幡市安土町常楽寺)
少彦名神社(名古屋市中区)
飽波神社(静岡県藤枝市藤枝5-15-36)
五條天神社(京都府京都市下京区)
少彦名神社 (大阪市)
生根神社(大阪府大阪市住吉区)
生根神社(大阪府大阪市西成区) - 同市住吉区の生根神社より分祀。
大江神社(大阪府大阪市天王寺区)
桑津天神社(大阪府大阪市東住吉区)
服部天神宮(大阪府豊中市)
大神神社(奈良県桜井市)
天神社(奈良県奈良市高畑町)
淡嶋神社(和歌山県和歌山市)
有間神社(兵庫県神戸市北区)
志筑神社(兵庫県淡路市志筑)
十二所神社(兵庫県姫路市)
諸井神社(兵庫県宍粟市一宮町)
粟島神社(鳥取県米子市彦名町)
佐香神社(島根県出雲市小境町)
十二社神社 (掛川市)
少彦名神社 (愛媛県大洲市)
粟嶋神社(熊本県宇土市新開町)
大滝神社 (福山市)
能登生國玉比古神社(石川県鹿島郡中能登町金丸セ35)

[匿名さん]

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