「あなたがたにも、誰にでも同じような災難がふりかかる可能性がある。だから、いつお迎えが来てもいいように、目を覚ましていなさい」的な話だったかもしれない。
[匿名さん]
「ああ、信仰の薄い者たちよ、エルサレムに立っている神殿が、いつまでもあのまま立っていると思うか。あなたがたに言っておく。将来いつの日か、あの神殿を組み上げている石ひとつのこらず、崩れ去るであろう」
[匿名さん]
「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさりたいのですね。お聞きしますが、イエス自身、完璧な人生を送ったと思いますか」
牧師 「そう思います。完璧な人生を送られたと思います」
「一度も腹を立てたことがなかったとお考えですか」
牧師 「当時行われていたことを不服に思われたことはあると思います」
「腹を立てたことは一度もなかったとお考えですか」
牧師 「腹を立てることはいけないことであると言われている、それと同じ意味で腹を立てられたことはないと思います」
「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことが正当化できるかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなた方(クリスチャン)は何でも正当化なさるんですから……」
ここでメンバーの一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を出した。するとシルバーバーチが続ける―
「私が言いたかったのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチをもって追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別問題です。イエスは怒ったのです。怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情を具えていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐとき、イエスもまた一個の人間であった―ただ普通の人間よりは大霊の心を多く体現した人だった、という風に考えることが大切です。分かりましたか」
牧師「分かりました」
[匿名さん]
アルボムッレ・スマナサーラ著「怒らないこと」という本で、「仏教徒は、たとえ強盗に入られ、妻子を殺され、自分自身ものこぎりで胴体を引かれて今にもまっぷたつになって殺されかけているという状態であっても、一瞬でも怒りを感じたら、それまでのすべての修行が無駄である」というようなことが書いてあって、仏教も無理だと思った。喜怒哀楽という自然にそなわった感情のうち、怒りだけを抑え込むのは異常で不自然な気がする。
[匿名さん]