事務所に入り、ウドちゃん(ウド鈴木)と組むことになって、最初についてくれたマネジャーが矢島さん。僕らの前はルー大柴さんの担当をされていて、役者の寺田農さんに似た感じのやさしい方でした。
1991年くらいに、他の事務所がまだ事務所ライブをやっていない時期から矢島さんはライブを任されて、舞台の小道具づくりから本番の音響、照明を一人でやってましたよ。
当時はずんも別々のコンビで、僕やアニマル梯団とか8組くらい。それが浅井企画のダイナマイトショーという今も続くライブの1回目。矢島さんがそのライブの礎を築いたんです。
矢島さんは、20代前半の僕らから20歳くらい上だから、かなり年上なのに、まだぺーぺーの僕は生意気なことを言って困らせてました。
「前説の仕事はあまりやりたくない」「大学出て事務所に入ったんだから給料もらえないと困る」とか、今思えばワガママばかり(笑)
[匿名さん]
アイドルの水泳大会の仕事に、当時は芸人がにぎやかしで出るじゃないですか。現場に行くと僕の出番が、アイドルの女の子が渡るでかい発泡スチロールの板を水中で支える役。それが屈辱でねえ。
当時、ウドちゃんは派手さで目立っていたけど、僕は輝けていなかったこともあって、「俺は発泡スチロールを支えるために芸人になったんじゃないから、出ない!」と。矢島さんは「仕事だからやりなさい」と言い合い。でも、僕は楽屋から出なかった。テレビを見ると、ウドちゃんがノリノリで発泡スチロールを支えてた(笑)。考え方が違うんだなあ、と思いました。
これは後々わかったんですけど、ウドちゃんだけにきた仕事を僕に回してくれたり2人の仕事にしてくれていたのに、僕はそれがわかっていなかったんですよ。
僕らがブレークした時は本当に喜んでくれました。最初の、ウドちゃんの爆発力で売れた時は「僕のことは認めてくれてないんじゃないか」という感覚もあって反発していたけど、伊集院光さんの後枠で僕一人でラジオをやらせてもらえたり、僕らの単独ライブもつくってくれたりと、少しずつ信頼ができた。今思えば何でも話せる家族のようなマネジャーさんでしたよ。
「ウリナリ」の現場でも「ヤジー」と共演者やスタッフに呼ばれて親しまれていました。一度、テレビに出そうとしたら、本気で怒ってましたよ。「おまえらはテレビに出たいだろうけど、俺は出たくないからマネジャーやってるんだよ!」と。お酒が大好きで、飲むと上機嫌でした
[匿名さん]
ある時期からセキがすごく出るようになり、病院が好きじゃない人だったので、病院に行った時には呼吸器系のがんが進行していたんです。僕らの担当で10年弱くらいやられていた頃だから40代後半かな。
もしかしたら余命何日かもしれないという時、ウドちゃんと専務とお見舞いに訪ねました。最後の挨拶というわけではないんですけどね……。
矢島さんはがんとは知らず、でも、気づいていたかもしれません。僕は涙を我慢しなきゃいけないのに、痩せた矢島さんを見た瞬間、泣いてしまって。でも、ウドちゃんはちゃんと我慢できているんです。何でもない時にはすぐ泣くんですけどね。「強い男だなあ」と思いました。
「僕、これからも頑張ります」と話したら、矢島さんが「これからいろいろ頑張らなきゃいけない時に、ゴメンな」と言ってくれて。僕が生意気で、いっぱい迷惑かけてきたのに。
そう言われた瞬間、僕は涙が止まらなくなっちゃって、矢島さんに感謝の気持ちを素直に持ちました。
僕らの単独ライブもつくってくれて、いろんな番組に出してくれて、僕らの未来を一番見たかった人なのに、その数日後、亡くなってしまった。志半ばで亡くなった矢島さんの分まで生きなきゃという感覚をもらいました。
[匿名さん]
その日からウドちゃんが「天野くんは人がやさしくなったし、丸くなった」と言ってましたから。「体形的にも丸くなった」と(笑)。どの瞬間で自分が変わったか? と問われると、僕はマネジャーさんの闘病の末の最期が大きかったんです。
あれから20年余り、あの瞬間の思いを持って生きてきました。時折、忘れちゃいますので、この取材を機に忘れないようにします。
[匿名さん]
JohnLennonの暗殺はショックやったな
暗殺後の米国はやりたい放題やから
よっぽどいてもらっては困る人物やったんだろうな
[匿名さん]
24歳で急死した神戸みゆきさん。
なんでヴェロニカ麻由みたいな老害が生きてんの?
[匿名さん]