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2023/01/19 22:24
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🔈 街で話題





NO.2195880

護国神社行ってきたよ
そしたらね傘を忘れてまた取りに行ったの
報告閲覧数164レス数68

#192022/03/06 22:40
数ヵ月後の3月6日、ドイツ帝国は独清条約を結び、膠州湾を99年間清国政府から租借することになった。この租借地に、この周辺最大の膠州の町は含まれていなかったが、湾の水面全部と湾を囲む東西の半島、湾内外の島々は租借地となった。その周囲の幅50kmの地域は中立地帯となり、ドイツ軍の通行の自由が全面的に認められ、ドイツ政府の承認なしで中国側が命令や処分を下すことは出来なくなった。6週間後の4月6日、この地域は公的にドイツ保護下に置かれ、1899年7月1日には条約港として開港した。この時点で租借地内の人口は8万3千人であった。

清独の租借契約の結果、中国側は租借地内および、その周囲の幅50kmの中立地帯のすべての主権を放棄することになった。「膠州湾総督府」 (Gouvernement Kiautschou) はドイツ帝国の主権下にありながらなお清国の領土であったが、租借期間内はドイツの保護国としての状態が続くことになった。さらに、清国政府はドイツ帝国に二本の鉄道敷設権と周辺の鉱山・炭鉱の採掘権を譲渡した。ドイツ保護下の膠州湾租借地以外の山東省各地もこうしてドイツの影響下に入った。租借条約はドイツの勢力拡大に一定の歯止めをしたにもかかわらず、ロシア(大連)、イギリス(威海衛および香港外側の新界)、フランス(広州湾)への、同様の99年間租借に次々とつながってしまった(「9」は「久」につながり、99は久々となり永久の意味になる。イギリスが新界を租借した例は典型である)。

[匿名さん]

#202022/03/06 22:40
租借地の政治

ドイツ海軍の装甲艦 「ドイッチュラント(SMS Deutschland)」と防護巡洋艦「ゲフィオン(SMS Gefion)」の膠州湾への到着。1899年
この保護領には、ドイツ艦隊の母港であり、艦船への燃料補給とそのための石炭採掘という役割を持ち、さらにドイツ海軍の名声を高めるための場所という重要性があったので、膠州湾租借地はドイツ外務省植民地局(1907年以降の植民地省、Reichskolonialamt)ではなく海軍省 (Reichsmarineamt)の管轄となった。

租借地のトップは総督(Gouverneur, 5人の歴代総督はすべて海軍将校)で、海軍大臣ティルピッツから直接任命された。総督は租借地内の軍事指揮権と行政権を握っていた。軍事は副総督(海軍軍令部長)が運営し、行政は「民政部長」 (Zivilkommissar)が運営した。その他、膠州湾租借地で重要な機能を果たした官僚は、港湾・都市建設部長、1900年以降は裁判所・高等裁判所の判事、および「中国問題部長」であった。総督府参事会 (Gouvernementsrat)が、および1902年以降は「中国人委員会」 (Chinese committee)も、総督の諮問機関になった。

[匿名さん]

#212022/03/06 22:41
財政部、建築部、医務部は総督の直轄であり、これらは健康で快適で、経済や貿易が順調に回る、模範的な植民地作りという任務にあたって重大な役割を果たした。独自通貨・青島ドルをもととする厳格な金融制度、輸出入の関税の自由化、中国人からの土地の買収と測量によって土地を安全に取引できるようにする制度、埠頭やドックの整備、ヨーロッパ風で建築規則の厳格な街並み、移住させた中国人用の区画作り、街路樹の整備や禿山だった周囲の山々への植林、上水道と下水道、病院や小学校、ドイツと清の共同出資による徳華大学などがこの地に実現した。小さな港町だった膠澳は、緑が多く商業・法制度の整った一大商港・青島へと発展を遂げた。青島は埠頭やドックの使用料、農産物や石炭の輸出で多くの歳入を得た。

膠州湾租借地はそれ以上に艦隊を宣伝する場であったため、海軍省は経済や、後には文化の発展に力を入れた。最初の総督クルト・ローゼンダール(de:Kurt Rosendahl、1898年3月7日 - 1899年2月19日)は海軍基地建設のみに集中し経済や都市整備などを無視したが、交代させられた後の2代目総督オットー・フェルディナント・パウル・イェシュケ(Otto Ferdinand Paul Jaeschke、1899年2月19日 - 1901年1月27日)の代には植民地都市建設が加速した。第3代総督マックス・ロールマン(de:Max Rollmann、1901年1月27日 - 1901年6月8日)、第4代総督オスカー・トゥルッペル(Oskar Truppel、1901年6月8日 - 1911年8月19日)、第5代で最後の総督アルフレート・マイヤー=ヴァルデック(de:Alfred Meyer-Waldeck、1911年8月19日 - 1914年11月7日)と、全て海軍将校が続いた。

[匿名さん]

#222022/03/06 22:41
租借地の最後
第一次世界大戦開戦直後、日本はドイツに対し、膠州湾租借地を中国に返還するよう最後通牒を発した。その最終期限の1914年8月23日、日本は対独宣戦布告した(日独戦争)。ドイツ東洋艦隊は湾の閉塞を恐れドイツ本国へ回航しようとしたが(開戦時には主力は既に青島から脱出していた)、南米のフォークランド沖海戦で敗北した。9月、山東半島に上陸した日本軍は膠州湾を目指し陸路ドイツ軍との戦闘を続け、湾の内外でも艦船同士の戦いがあった。10月31日からの青島の戦いの結果、1914年11月7日には膠州湾は日本軍が占領した。

なお、日独戦争開戦直前に青島を脱出した軽巡洋艦エムデンのインド洋での活躍は有名。

[匿名さん]

#232022/03/06 22:42
日本軍の占領
第一次大戦参戦にあたり日本がドイツ政府宛に発した「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」(8月15日)では、膠州湾租借地(青島)の全部を支那国(中華民国)に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求しており、膠州湾租借地の解消と支那国への返還は当初からの予定であった。しかしその商業権益は日本政府及び日本人が引き継ぐべきと考えており、一方で中華民国側は日本軍による戦時占領を即時解除して中華民国側に引き渡すよう要求したことから青島占領後ただちにこの認識の違いが問題となった。

[匿名さん]

#242022/03/06 22:43
日本はドイツと開戦しているのであって、戦時国際法によりドイツ海外領土である膠州湾租借地の軍事占領を継続する必要があり、返還を含めた最終協定はドイツとの講和条約を待つ必要があった。日本政府は袁世凱大統領と直接交渉をおこなうことで事態の打開に動いた(対華21ヶ条要求交渉)。この結果作成された2条約13公文により山東省の権益は正式に日本が引き継ぎ、また青島はドイツ講和まで日本軍が統治することとなった。

青島守備軍司令部が1917年10月まで軍政を敷き、その後は民政長官が行政を行っている。この時期、ドイツ風の街路や周囲の地名は全て日本語名に替えられた。神尾光臣、由比光衛らが青島守備軍司令官を歴任している。それなりに成功を収めたドイツ支配に対し、日本軍軍政は現地人から冷たい目で見られたとする文献もある[1]。

1919年パリ講和会議では膠州湾租借地はドイツから中華民国に直接返還されるべきとする中華民国側の主張は退けられ、日本に譲渡されることになり、中国の民衆や学生は強く反発した(特に五四運動)。すでに高まっていた中華民国のボイコット運動などの影響や国際的な報道キャンペーンの圧力の中、日本は当初の予定通り膠州湾租借地を放棄することを決定し、1922年12月10日に日本は中国政府に膠州湾を返還した(山東還附)。膠州湾地区は中央政府直轄の特別地区・膠澳商埠となった。このさい外国人の地方行政への参政権や膠済鉄道の経営権の一部の日本への譲渡が取り決められたが、すでに山東周辺の対日感情は極度に悪化しており、これらの合意は実施されず権益は無視され保護されることは無かった。

この時期の山東省には2万人の日本人居留民が住み、この後も日本軍は1927年から1928年にかけ山東出兵を行い、1937年から1945年にかけても青島を占領統治している。

[匿名さん]

#252022/03/06 22:43
島じゃなかったっけ?
宮崎のじゃなくてさ。

[匿名さん]

#262022/05/12 13:28
ナサニエル・セイヴァリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ナサニエル・セイヴァリーの墓碑
(父島・大根山墓地)
ナサニエル・セイヴァリー(Nathaniel Savory, 瀬堀南山、1794年 - 1874年)は、初めて小笠原諸島に移民したとされるアメリカ人で、日本領有時に父島に居住していた欧米系島民開祖の一人。ナザニール・セボリーまたはナサニエル・セーボレーとも。


目次
1 人物・来歴
2 補註
3 関連資料
4 関連項目
人物・来歴

20世紀前半に撮影されたセイヴァリー家。
ナサニエル・セイヴァリーの直系子孫たち
1794年、アメリカのマサチューセッツ州ブラッドフォード(英語版)に生まれた。1810年代から船員として働き、その後イギリスの商船に乗り組んでいた[1]が、1829年、船がホノルルに入港した際の事故で右手指を負傷し、治療のため下船した[1]。ハワイでの療養中、イギリス領事のチャールストンが小笠原諸島への入植計画を進めていることを知ったセイヴァリーは、イタリアのラグーサ(現:クロアチアドゥブロヴニク)出身のイギリス人[1]マテオ・マザロを団長とした小笠原諸島移民団に参加した[1]。

文政13年5月10日(1830年6月26日)、欧米人5人と太平洋諸島出身者25名が、小笠原諸島父島扇浦に入植した。入植当初、移民団は扇浦に集住していたが、のちに大村や奥村に分かれて住むようになった[1]。移民団は、トウモロコシやタマネギなど野菜類の栽培や、アヒルやブタなどの家畜の飼育を行い、それらを島に寄港する捕鯨船や商船に売ることで生計を立てた[1]。また、セイヴァリーはそれらの寄港する船に手紙を託し、故郷の兄弟姉妹と連絡を取り合っていた[1]。

[匿名さん]

#272022/05/12 13:29
しかし、入植後まもなく移民団の欧米人の間で対立が始まっており、天保10年(1839年)頃にはマザロがセイヴァリーの暗殺計画を企てるまでに関係は悪化した[2]。しかしマザロには人望がなく、天保13年(1842年)にハワイへ去り、もう1人もまもなく島を去ると、事実上セイヴァリーが島民のまとめ役となった[2]。

嘉永6年(1853年)5月、アメリカのマシュー・ペリー提督は日本来航の途中同島に寄港し、植民政府樹立計画をたて、セイヴァリーを移民の頭目に選んだ。

文久元年(1861年)12月、江戸幕府の外国奉行水野忠徳や小笠原島開拓御用の小花作助らが江戸幕府の命により同島の巡検および開拓使として上陸してきたとき、イギリス人ジョージ・ホートンとともに島民代表として水野らの意を受け、同島が日本領であることの再確認と、江戸幕府の定めた開拓規則を守ることを約束した。のち本土で生麦事件がこじれイギリスと戦いが懸念されると、文久3年(1863年)小笠原諸島の日本人住民全員に避難命令が出された[3]。セイヴァリーらは島に留まり、島民に製糖、製塩の技術などを教えていた。

明治8年(1875年)、日本政府は明治丸を父島に送った。到着した明治丸に招かれ日本人と再会したナサニエル・セイヴァリーの息子ホレース(Horace)は、前年の明治7年(1874年)4月に父親が亡くなったことを告げる。ナサニエルは現在の父島奥村にあった自宅の庭に埋葬されたが、後に大根山墓地に改葬された[4]。

[匿名さん]

#282022/05/12 13:29
明治15年(1882年)、息子ホレースは一家そろって日本に帰化した。後に、セイヴァリー家は「瀬堀」と改姓した。

作家有吉佐和子が1980年(昭和55年)7月に父島を訪れた際、ナサニエル・セイヴァリーの曾孫にあたるジュリー・セイヴァリー(当時65歳)を取材しており、父島へ移民した欧米系島民が日本に帰化した際、セイヴァリー家は姓を元にした瀬堀と改姓したのに対し、ポルトガル系のゴンザレス家は岸、アメリカ系のワシントン家は太平、ウェッブ家は上部、ギリー家は南などの姓に改姓した事や、太平洋戦争中、小笠原島民は本土へ送還され、終戦後もアメリカ統治のため帰島は許されなかったが、欧米系島民135名は日本に帰化済みであったにも関わらず、GHQにより1946年(昭和21年)に小笠原諸島への帰島が許可された事が語られている[5][6]。

補註
^ a b c d e f g 田中 pp41-44
^ a b 田中 pp46-49
^ 田中 pp204-206
^ 田中 pp245-246
^ 「うえっぶ」一家が「上部」になったのは姓に由来している。
^ 『日本の島々、昔と今。』有吉佐和子著、集英社、遙か太平洋上に 274-280ページ 1981年4月15日初版発行 ISBN 978-4-08-750736-2
関連資料
NHK(1990) 『日本とアメリカの間で小笠原セーボレー一族の160年』(NHKセミナー現代ジャーナル、1990年4月30日放送)
田中弘之(1997年). 『幕末の小笠原--欧米の捕鯨船で栄えた緑の島』, 中公新書, 中央公論社. ISBN 4121013883
ダニエル・ロング(1998) 小笠原諸島における言語接触の歴史 - ウェイバックマシン(2011年9月29日アーカイブ分)
関連項目
小笠原諸島#言語
小笠原方言
カナカ人
欧米系島民

[カステラドーナッツてるの]

#292022/05/14 00:30
日本の参戦と太平洋戦役
詳細は「アジア・太平洋戦役 (第一次世界大戦)(英語版)」を参照
「第一次世界大戦下の日本」も参照

オーストラリアのメルボルンで行われた募兵(1914年)

大日本海軍の巡洋艦「蔵馬」
東洋で唯一の大国である日本は、同盟国のイギリスからの後押しもあり、1914年8月15日にドイツに対し最後通牒を行った[91]。直接国益に関与しない第一次世界大戦への参戦には異論も存在したため、一週間の回答期限を設ける異例の対応になったが、結局ドイツはこれに回答せず、日本は8月23日に宣戦布告した。

なお、大隈重信首相は御前会議を招集せず、議会承認も軍統帥部との折衝も行わないで緊急閣議において要請から36時間後には参戦を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部との関係悪化を招くことになった。

また、第一次世界大戦でイギリスは本土だけでなく、オーストラリアやインド帝国などイギリス帝国各地から兵を動員した。8月30日、ニュージーランドはドイツ領サモア(英語版)を占領(英語版)した。9月11日、オーストラリア海陸遠征軍(英語版)がドイツ領ニューギニアのノイポンメルン島に上陸した。10月28日、ドイツの軽巡洋艦エムデンがペナンの海戦(英語版)でロシアの防護巡洋艦ジェムチュクを撃沈した。

[匿名さん]

#302022/05/14 00:31
ドイツ領南洋諸島を占領するかについては日本国内でも結論が定まっていなかった。参戦を主導した加藤高明外相も、南洋群島占領はイギリス植民地政府とアメリカを刺激するとして消極的であった。ところが、9月に入り巡洋艦ケーニヒスベルグによるアフリカ東岸での英艦ペガサス撃沈、エムデンによる通商破壊などドイツ東洋艦隊の活動が活発化したことで、イギリス植民地政府の対日世論は沈静化した。アメリカにおいても、一時はハースト系のイエロー・ペーパーを中心として目立った対日警戒論も落ち着いてきた。

このような情勢を受け南洋諸島の占領が決定された。10月3日から14日にかけて、第一、第二南遣支隊に属する「鞍馬」「浅間」「筑波」「薩摩」「矢矧」「香取」によって南洋諸島のうち赤道以北の島々(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)が占領された。これら島々の領有権は戦後に決定するという合意があり、日本の国民感情的には期待があった。

開戦前に南洋諸島に派遣されていたドイツ東洋艦隊は逃亡し、パガン島付近で補給艦からの支援を受けた後に、南アメリカ大陸最南端のホーン岬廻り(ドレーク海峡経由)で本国へ帰還するため東太平洋へ向かった。連合国軍は数か月内に太平洋におけるドイツ領を全て奪取、単独の通商破壊艦やニューギニアで粘った拠点のいくつかだけが残った[92][93]。本国帰還を目指したドイツ艦隊は英艦隊の追跡・迎撃を受け、東太平洋におけるコロネル沖海戦(11月1日)では勝利したものの、南大西洋のフォークランド沖海戦(12月8日 )に敗れて壊滅した。

[匿名さん]

#312022/05/14 00:32
日本海軍のアメリカ西海岸派遣
また、ドイツ東洋艦隊がアメリカ西海岸地域に移動する可能性があることから、イギリスが日本海軍による哨戒活動をおこなって欲しいと要請してきたため、これに応じて1914年10月1日に戦艦「肥前」と巡洋艦「浅間」、同「出雲」に、輸送船や工作船などからなる支隊を「遣米支隊」としてカリフォルニア州南部からメキシコにかけて派遣した。なおまだアメリカは参戦せず、しかし日本とイギリス、アメリカとメキシコの4国で了解済みの派遣であった。

アメリカ沿岸到着後にはイギリス海軍やオーストラリア海軍、カナダ海軍の巡洋艦とともに行動した。また遣米支隊の一部の艦艇はドイツ海軍を追ってガラパゴス諸島にも展開した。また、「出雲」はその後第二特務艦隊の増援部隊として地中海のマルタ島に派遣された。

[匿名さん]

#322022/05/14 00:32
青島の戦い

四五式二十糎榴弾砲で青島要塞を砲撃する日本陸軍
11月7日に大日本帝国陸軍とイギリス軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日 - 11月7日)。

オーストリア=ハンガリーの防護巡洋艦カイゼリン・エリザベート(英語版)が青島からの退去を拒否したため、日本はドイツだけでなくオーストリア=ハンガリーにも宣戦布告した。カイゼリン・エリザベートは青島を守備した後、1914年11月に自沈した[94]。

これらの中国戦線で連合国の捕虜となったドイツとオーストリア=ハンガリーの将兵(日独戦ドイツ兵捕虜)と民間人約5,000人は全員日本に送られ、その後徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など全国12か所の日本国内の俘虜収容所に送られ、終戦後の1920年まで収容された[95]。

特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた[96]。このときにドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本に伝えられた。ベートーヴェンの「交響曲第9番」(第九)はこのときドイツ軍捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。また、敷島製パンの創業者盛田善平は、ドイツ人捕虜収容所のドイツ軍捕虜のパン製造を教えられてからパン製造事業に参入するきっかけをつくった。

[匿名さん]

#332022/05/14 00:35
北欧の中立宣言
北欧諸国は大戦中一貫して中立を貫いた。12月18日にスウェーデン国王グスタフ5世は、デンマーク・ノルウェーの両国王をマルメに招いて三国国王会議を開き、北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。

スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただしロシア革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している[97][98]。

クリスマス休戦
12月24日から26日にかけて、西部戦線の一部でクリスマス休戦と呼ばれる非公式な休戦が行われた。この休戦に参加したイギリスとドイツ将兵は合計で10万人以上とされる[99]。

[匿名さん]

#342022/05/14 00:37
中国
主な記事:第一次世界大戦中の中国
ドイツ政府は、段祺瑞の戦前派が連合国を支援することを阻止するために、中国で張勲の君主制クーデターの背後にいると非難された。1917年7月にクーデターが失敗した後、ドゥアンはこの事件をドイツとの戦争を宣言する口実として使用しました。天津と漢口のドイツとオーストリア゠ハンガリー帝国の譲歩は占領され、彼らの国民は拘留された。中国はまた、西部戦線での主に非戦闘および補助的役割のために連合国に民間労働者を供給した。

第一次世界大戦中の中国
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第一次世界大戦中の中国人労働者
中国は1917年から1918年まで第一次世界大戦に参加し、エンテンテパワーズと同盟を結びました。中国は決して海外に軍隊を派遣しなかったが、14万人の中国人労働者(イギリス陸軍の一部として、中国労工旅)は終戦前にイギリス軍とフランス軍の両方に仕えた。[1] 1914年以来中立であったが、中華民国の首相である段祺瑞は、第一次世界大戦への中国の関与を主導した。[2]1917年8月14日、中国は中立国を終結させ、ドイツ帝国とオーストリア゠ハンガリー帝国に対する宣戦布告を行いました。[3]

[匿名さん]

#352022/05/14 00:39
1916年の出来事

軍需工場の中国人労働者
中国は当初交戦国ではなかったため、中国政府は彼女の市民に戦闘への参加を許可していませんでした。しかし、1916年に、フランス政府は非軍人として働くために中国人を募集する計画を開始しました。1916年5月14日に中国が5万人の労働者を供給する契約が合意され、1916年7月に最初の派遣団が天津を離れてダグとマルセイユに向かった。英国政府も中国当局と労働者を供給する契約に署名した。採用は1916年にロンドンの戦争委員会によって開始されました。そして、それは中国労工旅を形成しました。[9] 1916年10月31日に威海衛(当時はイギリスの植民地)に採用基地が設立された。[1]

中国労工旅団は、主に山東省から来た中国人男性で構成され[10] 、遼寧省、吉林省、江蘇省、湖北省、湖南省、安徽省、甘粛省からはそれほどではなかった。[9]ほとんどが太平洋を経由してカナダを経由してヨーロッパに旅行しました。[1]何万人ものボランティアは、この地域の貧困と中国の政治的不確実性に駆り立てられ、また英国が提供する賃金の寛大さに魅了されました。各ボランティアは20元の乗船料を受け取り、続いて月に10元を中国の彼の家族に支払いました。[2]

労働者は鉱山を片付け、道路や鉄道を修理し、弾薬庫を建設しました。軍備工場や海軍造船所で働いていた人もいました。当時、彼らは安い労働力と見なされ、キャンプから出て地元で友愛することさえ許されず、単なる苦力として解雇されました。[11]

[匿名さん]

#362022/05/14 02:24
10年も前のスレじゃん

[匿名さん]

#372022/05/14 07:01
流石に草
私も今度行こうかな^^

[アクロス]

#382022/05/15 21:11
満洲国建国とその経緯
Question book-4.svg
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: "満洲国" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年1月)

「執政」就任式典

日満議定書の調印式

リットン調査団
柳条湖事件発生から4日後の1931年9月22日、関東軍の満蒙領有計画は陸軍首脳部の反対で実質的な独立国家案へと変更された[17]。参謀本部は石原莞爾らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張し、石原は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねることを条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、9月24日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織され、26日には煕洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、27日にはハルビンで張景恵が東省特別区治安維持委員会を発足した。

翌1932年2月に、奉天・吉林・黒龍江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。2月16日、奉天に張景恵、臧式毅、煕洽、馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織された。2月18日には「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。


東北行政委員会の旗
1932年3月1日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞が委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と命名された。国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。

その後、1934年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した(元号は康徳に改元[18])。国務総理大臣(国務院総理から改称)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。

[匿名さん]

#392022/05/15 21:11
満洲国をめぐる国際関係
一方、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、中華民国は国際連盟にこの事件を提起し、国際連盟理事会はこの問題を討議し、1931年12月に、イギリス人の第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とするリットン調査団の派遣を決議した。1932年3月から6月まで日本、中華民国と満洲を調査したリットン調査団は、同年10月2日に至って報告書を提出し、満洲の地域を「法律的には完全に支那の一部分なるも」[19]とし、満洲国政権を「現在の政権は純粋且自発的なる独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず」[20]とし、「満洲に於ける現政権の維持及承認も均しく不満足なるべし」[21]と指摘した。その上で満洲地域自体には「本紛争の根底を成す事項に関し日本と直接交渉を遂ぐるに充分なる自治的性質を有したり」[22]と表現し、中華民国の法的帰属を認める一方で、日本の満洲における特殊権益を認め、満洲に中国主権下の満洲国とは異なる自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を提案した。

同年9月15日に斎藤内閣のもとで政府として満洲国の独立を承認し、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟総会に送り、満洲国建国の正当性を訴えた。

リットン報告書をもとに連盟理事会は「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」を作成し、1933年2月24日には国際連盟総会で同意確認の投票が行われた。この結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項[23]および6項[24]についての条件が成立した。日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退する。

[匿名さん]

#402022/05/15 21:12
隣国かつ仮想敵国でもあったソビエト連邦は、当時はまだ国際連盟未加盟であり、リットン調査団の満洲北部の調査活動に対しての便宜を与えなかっただけでなく[25]、建国後には満洲国と相互に領事館設置を承認するなど事実上の国交を有していたが、正式な国家承認については満洲事変発生から建国後まで終始一定しない態度を取り続けた。1935年にソ連は満洲国内に保有する北満鉄路を満洲国政府に売却した。国境に関しても日満-ソ連間に認識の相違があり、張鼓峰事件などの軍事衝突が起きている。

満洲国の建国は国際連盟で否決されたが、イギリスやフランスは「日本の言い分もわかる、我々の権益が確保できるならいいだろう」として、陰では承認する用意があり、1935年にイギリスが日本に対して「蒋介石が金に困っているから一緒にファンドを作ろう。この話に乗るなら、満洲国を蒋介石に認めさせてやる」と言い寄こしたことがあり、日本政府は吞もうとしたが、関東軍が拒否した[26]。

モンゴル人民共和国との間にも国境に関して認識の相違があり、ノモンハン事件などの紛争が起きていた。

1941年4月13日、日ソ間の領土領域の不可侵を約した日ソ中立条約締結に伴い、日本のモンゴル人民共和国への及びソ連の満洲国への領土保全と不可侵を約す共同声明が出された[注釈 8]。

第二次世界大戦・大東亞戦争へ

[匿名さん]

#412022/05/15 21:13
どっちの話を聞いてるか?って事だよね。
今のアレをアレしてるってのも前提に入ってくるんだよね。
レンポーとかさ。

満洲国(まんしゅうこく、旧字体:滿洲國、拼音: Mǎnzhōu Guó)は、1932年(大同元年[注釈 5])から1945年(康徳12年)の間、満洲(現在の中国東北部)に存在した大日本帝国の傀儡国家。

大日本帝国および中華民国、ソビエト社会主義共和国連邦、モンゴル人民共和国、蒙古聯合自治政府(後に蒙古自治邦政府と改称)と国境を接していた。

「洲」が常用漢字でないため、日本の教育用図書を含め一般的に「満州国」の表記が使われるが、日本の法令や一部の文献では「満洲国」が用いられる。

中国じゃなくて日本の事聞いてるみたいな調査結果ってことかね?★

[匿名さん]

#422022/05/15 21:14
★満州国建国のきっかけにもなった?

リットン調査団(リットンちょうさだん、Lytton Commission)は、国際連盟に設置された調査委員会(正式名称 : 国際連盟日支紛争調査委員会)の通称である。委員長(団長)はイギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン。

概要
調査団派遣の経緯

柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団。

溥儀
1931年9月18日、柳条湖事件が発生し、中華民国国民党政府は、9月19日国際連盟に報告し、9月21日正式に提訴して事実関係の調査を求めた。

1931年12月10日国際連盟理事会(以下「理事会」)は「国際連盟日支紛争調査委員会」(リットン調査団、以下「調査団」)の設置を決議する[1]。1932年1月14日、理事会は、リットンら5委員任命を承認した。1932年2月29日、調査団は東京に着いた。日本、中華民国および満州の調査をおこない、7月4日ふたたび入京した[2]。

1932年3月、国際連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、調査団は3カ月にわたり日本、満州国、中華民国の各地を調査。10月に理事会に報告書(リットン報告書)を提出した。10月1日、日本政府に報告書を通達し、10月2日に外務省は公表した[3]。

[匿名さん]

#432022/05/15 21:15
★満州国は大日本帝国ってまだしてないよね?日本の範囲ってどこにしている?

調査団の構成
<委員>は下記の5名[4]。

リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン(イギリス):枢密顧問官・元イギリス領インド帝国臨時総督(ベンガル総督)
アンリ・クローデル(フランス語版)陸軍中将(フランス): フランス植民地軍総監
ヴィアーノ伯爵ルイージ・アルドロバンディ・マレスコッティ(イタリア語版)(イタリア): 外交官
ハインリッヒ・シュネー博士(ドイツ): 国会議員・元ドイツ領東アフリカ総督
フランク・ロス・マッコイ陸軍少将(アメリカ)
<参与委員[5]>

吉田伊三郎(日本): 外交官、駐トルコ大使
顧維鈞(中華民国): 外交官、前外交部長
<専門家[6]>

ジョージ・H・ブレイクスリー(アメリカ): クラーク大学教授、国務省極東問題顧問
ヤング博士 : ニューヨーク世界時事問題研究所
なお、調査に関わる経費は、日本と中華民国の負担とされた。

調査団の旅程
調査団は、1932年2月3日フランスの港を出港し、2月29日に横浜港に到着した。東京で日本政府や軍部、実業界などと面会した後中華民国へ向かう。上海、南京、漢口、北京(当時の呼称は北平)などを視察。4月に満洲地域を約1ヶ月間現地調査した後再び日本(東京)を訪問。6月 視察を終えた。北京で報告書の作成を行ない、9月にイギリスに戻った。10月1日、連盟理事会に報告書が提出され、10月2日、世界にも公表された[7]。

[匿名さん]

#442022/05/15 21:16
報告書の内容
正式書名『国際連盟日支紛争調査委員会報告書』(「Report of the Commission of Enquiry into the Sino-Japanese.」)

1932年10月2日に公表された報告書は序説および全10章からなり、その内容は下記のとおり。

序説では委員会設置の過程を明らかにし。
第1章では、支那の最近の発達の概観、すなわち清の没落から説き起こし、共和国の出現、その後の内乱、支那国民党の結成、支那共産党の跋扈を詳述し。
第2章では、満洲国について述べ、すなわち支那が満洲に無関心であり、満洲の今日の発展は日本の努力による旨を述べ、張作霖および張学良時代の政情から露中紛争等に及び。
第3章では、日支両国間の満洲に関する諸論点、すなわち日本の満洲における権利を説明し、世界に類例を見ない特殊性を認識し、鉄道、商租権その他に関する諸争点、殊に事変勃発前数年間の重要問題を解説し。万宝山事件に引き続いて起きた朝鮮排華事件における犠牲を支那人127名虐殺、393名負傷、支那人の財産250万円が破壊されたと支那側の公報をもって報告している。[8]
第4章では、9月18日当日およびその後満洲で起こった事件を述べ、当時は日中両軍の間に感情が緊張し、日本は万一の敵対行為に対し周到な計画を有し、満鉄線路の爆破を蒙り、迅速かつ的確にこれを実施したが、支那側は攻撃の計画を有しなかった。当夜の日本側の軍事行動は正当防衛の措置と認め得ないが、将校等が自衛のために行動しつつありと考えた(誤想防衛)という仮説を排除し得ないと記し、以後の軍事行動の経過を述べ。
第5章は、上海事変について2月20日から日本軍撤退までの行動を略記し、領事委員会の補足し。
第6章では満洲国を取扱い、まず新国家の建設段階を述べ、日本の文武官の一団が、独立運動を計画し、組織したものと見なし、自発的独立を否認し、次に現政府の財政、教育、司法、警察、軍隊、金融を考察し、最後に在満支那人は一般に現政府を支持しないと結び。
第7章は「日本の経済的利益と支那のボイコット」と称し、支那の態度を不法と認め。
第8章では、満洲における経済的利益を詳述し、資源および開発に日支両国の親善回復を不可欠とし、実際的見地から門戸開放を希望し。

[匿名さん]

#452022/05/15 21:19
第9章では、満洲は世界の他の地域に類例を見ないような特殊事情が多くあるゆえに、この紛争は一国の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたという簡単な事件ではないことを指摘し、解決の原則および条件を掲げ、原状回復および満洲国の維持を共に否認し
日支両国の利益に合致すること
ソビエト連邦の利益尊重
現行の多辺的条約と調和し得ること
満洲における日本の利益の承認
日支間における新たな条約関係の設定
将来の紛争解決について効果的施設をなすこと
支那の主権および行政的保全と調和する範囲内で満洲に自治を許す
内部的秩序は能率ある地方的憲兵隊により、外部的侵略に対する安全保障はすべての軍隊の撤退および不侵略条約による
日支間の経済的提携の促進
支那の改造に対する国際的協力等を紛争解決の条件とし
第10章では、上の解決方法を例示的に示すために理事会に対して若干の提議を行ない、日支両国が上の解決を討議することを承認するならば諮問会議を招集すべきこと、ならびにその会議で到達されるべき協定の形態、解決されるべき諸点を説く。すなわち中央政府は満州に関する宣言書に抵触しない限りでの一般的条約の締結と渉外関係の掌握は留保されるべきこと、税関、郵便、塩税、印紙税、煙草税の事務の管理は中央政府に留保され、税収の配分については諮問会議で決定するべきこと、行政長官の一次任命権は中央政府が留保し中央政府の対外条約の履行を確保するために命令を発する権限があり、その他は諮問会議により決定し他の権能はすべて自治政府に帰属すべきことなどである。また特別憲兵隊は外国人の協力を得て組織し、満洲における唯一の武装団体とするため外国軍隊は全部撤退し、行政長官は外国人顧問を任命し、その大部分を日本人とすべきとした。

★なるほどね~。なんで尊重?現地法人でもあったのかね?
別ものだってなったけど、別ものなのに、契約が続いてくれないとみたいなさ。
でも国家の連続性ってそれもあるんでしょ?ルーブルの価値を維持するとかさ。次の政権?選挙だけでもないもんね。
もちろん政権が維持されるようにも前からアレだよね。人が変わるアレなんでしょ?

[匿名さん]

#462022/05/15 21:22
結論
報告書では、

もと不毛の荒野であった満州の住人の大半がいまや支那人でありこれは日本の地域経営の成果である
この地域の主要勢力であった張作霖はこの地域の独立を志向していたのではなく、あくまで支那の政権であると自認していた
支那中央政府の権力が脆弱であり日本人が保護されていない
といった中華民国と満洲国の実情を述べた後、下記のように論じている。

柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。
満洲国は、地元住民の自発的な意志による独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている。
と、中華民国側の主張を支持しながらも、

満洲に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきである。国際社会や日本は支那政府の近代化に貢献できるのであり、居留民の安全を目的とした治外法権はその成果により見直せばよい。一方が武力を、他方が「不買運動」という経済的武力や挑発(irritation)を行使している限り、平和は訪れない。
などの日本側への配慮も見られる。

紛争解決に向けた提言
また、日支両国の紛争解決に向けて、下記のような提言を行っている。

「柳条湖事件以前への回復(支那側の主張)」「満洲国の承認(日本側の主張)」は、いずれも問題解決とはならない。
満洲には、支那の主権下に自治政府を樹立する。この自治政権は国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下、充分な行政権を持つものとする。
満洲は非武装地帯とし、国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担う。
日支両国は「不可侵条約」「通商条約」を結ぶ。ソ連がこれに参加を求めるのであれば、別途三国条約を締結する。

ソ連が入ってきたかったって事?!デカくなるの嫌がってたって言われてたよね。
主張がぶつかってるから完全な解決にならないとかなんでしょ?!
元々、別の国家だったのか、元々1つの国家だったのか?だよね。
独立を認めるボーダーってのが当時もあったはずだよね?ボーダーは年々上がってきてるとも言える昨今?!★

[匿名さん]

#472022/05/15 21:23
報告書への各国の反応
この報告により、イギリスやフランス、イタリアをはじめとする連盟各国は「和解の基礎が築かれた」と大きな期待をもった。リットンを長とする委員会は、1932年3 - 6月にわたり日本、満州国および中華民国を調査し、9月に報告書を提出した。この間の3月1日に満州国が独立を宣言、中華民国政府は承認しなかったが報告書提出前の9月15日に日本は同国の独立を承認した。

リットン報告書は「柳条湖事件における日本軍の活動は自衛とは認められず、また、満州国の独立も自発的とはいえない」とした。しかし、「事変前の状態に戻ることは現実的でない」として日本の満州国における特殊権益を認め、日支間の新条約の締結を勧告したが、この報告書をめぐり日支は対立した。内容的には日本にとって「名を捨て実を取る」ことを公的に許す報告書であったにもかかわらず、報告書の公表前に満洲国を承認し、「満洲国が国際的な承認を得る」という1点だけは譲れない日本はこれに反発した。この報告書への日本側の反論を書いたのが、日本外務省の法律顧問でイギリス人のトマス・バティであった。

1933年2月24日の国際連盟総会では「支日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」の採択が付議された。この報告書はリットン調査団報告書を基礎に作成されたものであるが、その結論をすべて採用したわけではなく、満州の主権については明確に踏み込んだ表現を使用し、法的帰属については争う余地がなく支那にあり、日本が軍事行動をとったことを自衛とは言えないとしたうえで、法律論及び事実の両面から満州国の分離独立を承認すべきではなく、日本軍が満州鉄道の鉄道地区まで撤退すべきである[9]とした。また日本の特殊権益を確認したうえで九カ国条約の原則を維持することを勧告した。

[匿名さん]

#482022/05/15 21:24
この総会報告書に対する同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項[10]および6項[11]についての条件が成立した。松岡洋右全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場し、日本政府は3月8日に脱退を決定(同27日連盟に通告)し、日本国内世論は拍手喝采をもって迎えた。42対1は当時日本で流行語になり語呂合わせで「向こうは死に体でこっちは1番なんだ」等と一部で評された。

なお、シャム(タイ)の棄権は各国代表を驚かせたが、当時の駐シャム公使矢田部保吉が、同国外相に対する再三再四の働きかけによって、「暹羅国ハ東洋ノ一国ナレハ日支両国何レニモ味方シ得ス、又敵トモ為シ得ス仍テ同国代表ハ満州事変二関スル国際連盟ノ表決ニハ棄権スヘシ」(シャムロ国は東洋の一国なので日本・支那どちらの味方でも敵でもない。よって同国代表は連盟での票決には棄権する)との言質を引き出していたという経緯があった[12][13]。当時の同国では、1932年の立憲革命によって、対日関係を重視した政権が成立していた上、同国自身、膨張する華僑勢力との民族摩擦という国内問題を抱えており、支那の立場に同情できなかったという事情が指摘されている[14]。

★新たに認めたみたいなのあるじゃん。
前のアレあるでしょ。
ただ、アレが解散って言っただけで変わるんだっけ?
民主主義なんだっけ?社会主義なんだっけ?そうじゃないよねって対義語だったっけ?独裁しゃー!

[匿名さん]

#492022/05/15 21:25
その後
1933年2月24日の連盟総会では、国際連盟が「公正かつ適当」(国際連盟規約15条4)とした当報告書による勧告において日本軍の自衛行為や満州国建国の自発性は否認され、同日、リットン報告を基礎とした「支日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」の同意確認にもとづき中華民国は連盟規約第16条(経済制裁)の対日適用を要求、また同日午後の総会では日本軍の熱河攻略を取り上げおなじく第16条の制裁適用を要求した。これらの要求は他の代表の沈黙および討議打ち切り宣言により黙殺された[15][16]。

その後、委員を出していたドイツ(1938年2月承認[17])やイタリア(1937年11月承認[18])が最終的には満州国の国家主権を承認したほか、枢軸国や中立国を中心に十数カ国が承認をした(当時の独立国は今の4分の1程度の60か国程度)。

ただし、ドイツは再軍備に伴いベルサイユ条約を破棄し1935年に既に国際連盟を脱退しており、イタリアもエチオピア侵攻で侵略認定され、1937年12月には連盟脱退している。ポーランド第二共和国は満州国と1938年10月19日交換公文により相互の最恵国待遇を承認した例外的な国であり、満州国からは事実上の国家承認とみなされていた[19]。他の承認国について、ソ連の侵略を受けてドイツに頼らざるを得なくなったフィンランドや、独伊のユーゴスラビア侵攻の際に親ドイツ政権として分離独立したクロアチア、内戦時にドイツの義勇軍の支援を受けたスペイン、ドイツ占領下におかれたデンマーク、タイ王国など、日本の友好国や同盟国、同盟国の友好国が大半であった。

その他にも、ドミニカ共和国やエストニア、リトアニアは正式承認しなかったが国書の交換を行った。ソビエト連邦は日ソ中立条約締結時に出された声明書で「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重することを確約し、正式な国交こそ結んでいなかったものの、日本に対しては外交上一定の言辞を与えていたと言える。さらにイギリスやアメリカもフォード・モーターや香港上海銀行などの大企業の支店を満州国内に設置するなど、国交こそ結んではいなかったものの様々な形で交易を行っていた。

[匿名さん]

#502022/05/17 01:01
冷戦
れいせん
1947年3月12日 – 1991年12月26日
冷戦もしくは冷たい戦争は、第二次世界大戦後の世界を二分した西側諸国と、東側諸国との対立構造。米ソ冷戦や東西冷戦とも呼ばれる。 ウィキペディア
日付: 1947年3月12日 – 1991年12月26日
各国軍隊、情報機関等: 各国共産党、軍隊、警察、情報機関等
場所: アメリカ合衆国、 ソビエト連邦、 ヨーロッパ、 ベトナム、 キューバ、 朝鮮、 ギリシャ、 南アメリカ、 東アジア

冷戦(れいせん、英: Cold War、露: Холодная война)もしくは冷たい戦争(つめたいせんそう)は、第二次世界大戦後の世界を二分した西側諸国(アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営)と、東側諸国(ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営)との対立構造。米ソ冷戦(べいそれいせん)や東西冷戦(とうざいれいせん)とも呼ばれる。「冷戦」とは、読んで字の如く「戦火を交えない戦争」、つまり米ソが武力で直接衝突はしないと言う意味であるが、冷戦下では朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連・アフガン戦争のように両国が介入する戦争が多数勃発した。

[匿名さん]

#512022/05/17 01:01
朝鮮戦争
Korean War Montage 2.png
上段:長津湖戦役に参加する米軍
中段左:アメリカ空軍のF-86戦闘機
中段右:仁川上陸作戦
下段左:仁川に上陸するアメリカ海兵隊
下段右:避難する韓国の難民
戦争:朝鮮戦争
年月日:1950年6月25日 〜 1953年7月27日
場所:朝鮮半島とその周辺
結果:停戦協定により停戦。軍事境界線の設置。
交戦勢力
韓国側
Flag of South Korea (1949–1984).svg 韓国
国際連合の旗 国連軍
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
カナダの旗 カナダ
トルコの旗 トルコ
オーストラリアの旗 オーストラリア
Flag of the Philippines (1936–1985, 1986–1998).svg フィリピン
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
タイ王国の旗 タイ
Flag of Ethiopia (1897).svg エチオピア帝国
ギリシャの旗 ギリシャ王国
フランスの旗 フランス
コロンビア
ベルギーの旗 ベルギー
南アフリカの旗 南アフリカ連邦
オランダの旗 オランダ
連合国軍占領下の日本の旗 日本
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク
北朝鮮側
Flag of North Korea (1948–1992).svg 北朝鮮
中華人民共和国の旗 中華人民共和国
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦

[匿名さん]

#522022/05/17 01:02
指導者・指揮官
Flag of South Korea (1949–1984).svg 李承晩
Flag of South Korea (1949–1984).svg 丁一権
Flag of South Korea (1949–1984).svg 白善燁
Flag of South Korea (1949–1984).svg 申性模
アメリカ合衆国の旗 ハリー・S・トルーマン
アメリカ合衆国の旗 ドワイト・D・アイゼンハワー
アメリカ合衆国の旗 ジョージ・マーシャル
アメリカ合衆国の旗 ロバート・A・ラヴェット
アメリカ合衆国の旗 ダグラス・マッカーサー
アメリカ合衆国の旗 マシュー・リッジウェイ
アメリカ合衆国の旗 マーク・W・クラーク
イギリスの旗 クレメント・アトリー
イギリスの旗 ウィンストン・チャーチル Flag of North Korea (1948–1992).svg 金日成
Flag of North Korea (1948–1992).svg 朴憲永
Flag of North Korea (1948–1992).svg 崔庸健
Flag of North Korea (1948–1992).svg 金策
中華人民共和国の旗 毛沢東
中華人民共和国の旗 周恩来
中華人民共和国の旗 彭徳懐
中華人民共和国の旗 陳賡
中華人民共和国の旗 鄧華
中華人民共和国の旗 洪学智
ソビエト連邦の旗 ヨシフ・スターリン
ソビエト連邦の旗 ゲオルギー・マレンコフ
ソビエト連邦の旗 パーヴェル・ジーガレフ

[匿名さん]

#532022/05/17 01:03
戦力
韓 602,902
米 326,863
英 14,198
加 8,123
土 5,453
豪 2,282
比 1,496
新 1,385
泰 1,290
哀 1,271
希 1,263
仏 1,185
哥 1,068
白 900
南ア 826
蘭 819
日 120
盧 44

朝 266,600
中 1,450,000
蘇 72,000
損害
227,800人戦死
32,585人行方不明
566,434人負傷 398,000 〜 926,000人戦死
145,000人以上行方不明
686,500人負傷

[匿名さん]

#542022/05/17 01:04
ベトナム戦争
VietnamMural.jpg
(左上より時計回りで)
テト攻勢で防御にあたる海兵隊員と南ベトナム軍(1968年)
第14歩兵連隊第2大隊の兵士を運ぶUH-1D(1966年)
ベトコンが潜伏したと見做され焼却される村落
ベトナム人の犠牲者
戦争:ベトナム戦争
年月日:1955年11月 - 1975年4月30日
場所:南北ベトナム
結果:北ベトナムの勝利
北ベトナムによるベトナム統一
ベトナム社会主義共和国の成立
交戦勢力
南ベトナム側
南ベトナムの旗 南ベトナム
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
大韓民国の旗 韓国
オーストラリアの旗 オーストラリア
タイ王国の旗 タイ
フィリピンの旗 フィリピン
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
北ベトナム側
ベトナムの旗 北ベトナム
南ベトナムの旗 ベトコン
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
中華人民共和国の旗 中華人民共和国

[匿名さん]

#552022/05/17 01:04
指導者・指揮官
南ベトナムの旗グエン・バン・チュー
南ベトナムの旗ゴ・ディン・ジエム
南ベトナムの旗ラム・クァン・チ
南ベトナムの旗グエン・カオ・キ
南ベトナムの旗グエン・カーン
南ベトナムの旗ゴー・クァン・チュロン
南ベトナムの旗ズオン・バン・ミン
南ベトナムの旗チャン・バン・フォン
アメリカ合衆国の旗ジョン・F・ケネディ
アメリカ合衆国の旗リンドン・ジョンソン
アメリカ合衆国の旗リチャード・ニクソン
アメリカ合衆国の旗ロバート・マクナマラ
アメリカ合衆国の旗ウィリアム・ウェストモーランド
アメリカ合衆国の旗クレイトン・エイブラムス
アメリカ合衆国の旗フレデリック・ウェイアンド
アメリカ合衆国の旗エルモ・ズムウォルト・ジュニア
アメリカ合衆国の旗ジョン・ポール・ヴァン
アメリカ合衆国の旗ロビン・オールズ
大韓民国の旗朴正煕
大韓民国の旗蔡命新
タイ王国の旗タノーム・キッティカチョーン
オーストラリアの旗ハロルド・ホルト
ニュージーランドの旗キース・ホリオーク
フィリピンの旗フェルディナンド・マルコス ベトナムの旗ホー・チ・ミン
ベトナムの旗レ・ズアン
ベトナムの旗レ・ドゥク・ト
ベトナムの旗グエン・チー・タン
ベトナムの旗ファム・フン
ベトナムの旗ヴォー・グエン・ザップ
ベトナムの旗ヴァン・ティエン・ズン
ベトナムの旗レ・ドゥック・アイン
FNL Flag.svgホアン・ヴァン・タイ
FNL Flag.svgグエン・フー・ト
FNL Flag.svgフイン・タン・ファット
FNL Flag.svgチャン・ヴァン・チャ
FNL Flag.svgレ・チョン・タン
中華人民共和国の旗毛沢東
中華人民共和国の旗周恩来
中華人民共和国の旗林彪
ソビエト連邦の旗ニキータ・フルシチョフ
ソビエト連邦の旗アレクセイ・コスイギン
ソビエト連邦の旗レオニード・ブレジネフ
朝鮮民主主義人民共和国の旗金日成

[匿名さん]

#562022/05/17 01:05
戦力
延べ2,000,000
南ベトナム軍
1,400,000
アメリカ軍
548,383
韓国軍
312,853[1][2]
タイ軍
22,000
フィリピン軍
6,110[3]
オーストラリア軍
49,968
ニュージーランド軍
2,500[3]

延べ1,260,000
北ベトナム軍
280,000
ベトコン
800,000
ソ連軍
3,000
北朝鮮軍
600
中国軍
(高射2個師団)
損害
推定戦死者 285,000
行方不明者 1,490,000
民間人死者 1,581,000 推定戦死者 1,177,000
行方不明者 604,000
民間人死者 3,000,000
ベトナム戦争
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[匿名さん]

#572022/05/17 01:05
ソ連・アフガン戦争
Mortar attack on Shigal Tarna garrison, Kunar Province, 87.jpg
ソ連の侵攻に対する抵抗運動の中心となったムジャーヒディーン
戦争:アフガニスタン紛争
年月日:1979年12月24日 – 1989年2月15日
場所:アフガニスタン
結果:ジュネーヴ協定によりソ連軍撤退。
アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)へ継続。
交戦勢力
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
アフガニスタン民主共和国の旗 アフガニスタン民主共和国
援助国
インドの旗 インド[1]
東ドイツの旗 東ドイツ[2][3]
ムジャーヒディーン
援助国
パキスタンの旗 パキスタン
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
中華人民共和国の旗 中国[4]
イランの旗 イラン
イラクの旗 イラク
ヨルダンの旗 ヨルダン
モロッコの旗 モロッコ
レバノンの旗 レバノン
サウジアラビアの旗 サウジアラビア
リビアの旗 リビア
クウェートの旗 クウェート
アルジェリアの旗 アルジェリア
スーダンの旗 スーダン
チュニジアの旗 チュニジア
エジプトの旗 エジプト

[匿名さん]

#582022/05/17 01:06
指導者・指揮官
ソビエト連邦の旗 レオニード・ブレジネフ
ソビエト連邦の旗 ユーリ・アンドロポフ
ソビエト連邦の旗 コンスタンティン・チェルネンコ
ソビエト連邦の旗 ミハイル・ゴルバチョフ
ソビエト連邦の旗 ドミトリー・ウスチノフ
ソビエト連邦の旗 セルゲイ・ソコロフ
ソビエト連邦の旗 ドミトリー・ヤゾフ
ソビエト連邦の旗 イーゴリ・ロジオノフ
ソビエト連邦の旗 ボリス・グロモフ
アフガニスタン民主共和国の旗 ハフィーズッラー・アミーン
アフガニスタン民主共和国の旗 バブラク・カールマル
アフガニスタン民主共和国の旗 ムハンマド・ナジーブッラー
アフガニスタン民主共和国の旗 ラシッド・ドスタム
アフガニスタン民主共和国の旗 アブドゥル・カディル
アフガニスタン民主共和国の旗 シャフナワーズ・タナイ ブルハーヌッディーン・ラッバーニー
アフマド・シャー・マスード
ムラー・ナキーブ
アフガニスタン民主共和国の旗 イスマーイール・ハーン
ムハンマド・ユーヌス・ハーリス
アブドル・ハク
ハジ・アブドゥル・カディール
ジャラルッディン・ハッカニ
ネク・ムハンマド・ワジル
ムハンマド・オマル
アブドゥル・ラスル・サイヤフ
ムハンマド・ナビ
シブガトゥッラー・ムジャッディディー
サイード・アフマド・ギラニ
アブドゥッラヒム・ワルダク
アブドゥッラー・アッザーム
ウサーマ・ビン・ラーディン

[匿名さん]

#592022/05/17 01:07
戦力
ソビエト連邦軍 115,000
アフガニスタン軍 55,000 ムジャーヒディーン
200,000–250,000
損害
ソ連軍
合計:14,453
戦死:9,500
戦傷死:4,000
病死・事故死:1,000
負傷:53,753
行方不明:312
アフガニスタン軍
戦死:18,000 戦死:75,000–90,000
負傷者:75,000+(推定)
アフガニスタン紛争
4月革命1978年-1989年1989年-2001年2001年-2021年

[匿名さん]

#602022/05/17 01:08
デジタル大辞泉「場所」の解説
ば‐しょ【場所】
1 何かが存在したり行われたりする所。ある広がりをもった土地。「魚の釣れる場所」「約束の場所」
2 人がいる所。また、物が占めるために要する広さ。「立っている場所もない」
3 相撲の興行をする所。また、その期間。「初場所」
[補説]書名別項。→場所
[下接語]秋場所・在り場所・居場所・岡おか場所・死に場所・出場所・夏場所・初場所・春場所・本場所
[類語]箇所・所・地点・点・部分
ばしょ【場所】[書名]
瀬戸内寂聴の私小説。著者が80歳で訪れた自らのゆかりの地で、自身の過去を再構築する。平成13年(2001)刊行。同年、第54回野間文芸賞受賞。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

デジタル大辞泉プラス「場所」の解説
場所

高良留美子の詩集。1963年、第13回H氏賞受賞。
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

[匿名さん]

#612022/05/17 01:09
第二次世界大戦の終結直前の1945年2月から1989年12月までの44年間続き、連合国としては味方同士であったアメリカ合衆国とソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力(火力)で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。

冷戦 - Wikipedia

なにいってんだ?

[匿名さん]

#622022/05/17 01:09
語源
第二次世界大戦の終結直前の1945年2月から1989年12月までの44年間続き、連合国としては味方同士であったアメリカ合衆国とソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力(火力)で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。

「冷戦」という語は、ジョージ・オーウェルがジェームズ・バーナムの理論を評した時に使っており[1][2][3]、後にバーナード・バルークも使い[4]、アメリカの政治評論家ウォルター・リップマンが1947年に上梓した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。

各陣営とも構成国の利害損得が完全に一致していたわけではなく、個別の政策や外交関係では協力しないこともあったなど、イデオロギーを概念とした包括的な同盟・協力関係である。

[匿名さん]

#632022/05/17 01:10
ノート:冷戦
ナビゲーションに移動検索に移動

中国における共産主義政権の成立や中国とベトナムなど共産主義国家間における対立の構図なんかもあるといいですね。0null0 07:37 2004年5月15日 (UTC)

いいえ、むしろそれは「中国史」、「中ソ対立」や「中越紛争」などのテーマで取り上げて補足すればよいと思いますよ。利用者:kato 2004年5月21日

「総括」コメントアウトについて
歴史の総括などは、まだ時間が経たず、流動的な現代において、また、このような一般人が編集する百科事典で簡単に語れるものではなく、さらに後世の判断を待たねばならないと思います。ここは歴史の流れを書くにとどめるほうが良いと思います。このような場で無理に簡単にまとめようとしても、結局は浅い内容となってしまうのではないでしょうか?なお、私の見る限り他の歴史項目に「総括」という項目はなく、無理にまとめようとはしていないと見えますが、いかがでしょうか。--202.248.88.154 2005年9月29日 (木) 12:44 (UTC)

地球は未来の子供からの預かりモノってCMってなんだったっけ?★

[匿名さん]

#642022/07/19 21:36
戦病死(せんびょうし)は、兵士が軍事活動中に病気で命を落とすこと。一般に直接的な戦闘行為で死傷する戦死とは区別されるが、戦争に関連して死亡すること全般を指す戦没には含まれる。

戦病死の一覧
餓死
凍死(低体温症)
破傷風
壊疽
赤痢
敗血症
マラリア
チフス
インフルエンザ、スペインかぜ
結核
脚気
関連項目
戦死
戦傷
野外病院(野戦病院)
殉職

[匿名さん]

#652023/01/09 00:42
あの顔もさ、なんかいるって1つか、それを多少止めるアレなのかね?
そこまで止めるもんなのかね?

[匿名さん]

#662023/01/09 00:51
靖国も同じようなアレなんだっけ?明治大正昭和神話?

宣言してそうなった!

???

[匿名さん]

#672023/01/13 13:27
私引きこもり精神病院連合の

三分あればわかる


興信所を使ったらスレ主の


後藤は
靖国神社と

護国神社にて


神殿にうんちして奉納しました











んだよ

[匿名さん]

#682023/01/19 22:24最新レス
護国神社って全国にあるのかな?

[匿名さん]


『護国神社行ってきたよ』 へのレス投稿
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