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2019/01/16 22:04
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NO.6525088

デッツォーラ島根③
観光列車[あめつち]運行開始…(KYODO)
新つぶやき⑦⇒島根
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#9512019/01/09 18:37
◇スペイン人女性 ミラグロス・マルティネス・ドミンゲス氏 監督就任のお知らせ◇

いつも鈴鹿アンリミテッドFCをご支援いただきまして誠にありがとうございます。

鈴鹿アンリミテッドFCのトップチーム監督に、スペイン人女性、ミラグロス・マルティネス・ドミンゲス氏の就任が決定しましたので、お知らせいたします。

氏名 Miragros MartÍnez DomÍnguez
フリガナ ミラグロス・マルティネス・ドミンゲス

保有ライセンス UEFAプロライセンス(日本のS級に相当)
生年月日 1985/4/23(おうし座)
出身 スペイン
指導歴 2007-2008〜2008-2009
アルバセテ・バロンピエ U6〜U12男子コーチ
2011-2012〜2013-2014
アルバセテ・バロンピエ U18女子コーチ
2013-2014〜2016-2017
アルバセテ・バロンピエ 女子チーム監督兼GM(2013/2014 2部,2014/2015〜 1部)
2017-2018
アルバセテ・バロンピエ コーディネーター&スポーツディレクター
2018-2019
アトレティコ・トメロッソ 女子チーム監督
本人コメント

まず始めに、来季の監督の機会を私に用意していただいた鈴鹿アンリミテッドFCに感謝したいです。
また女性に男子チームを率いる機会をくれたことにも感謝しています。
日本のような国でチームを指導できて、とっても嬉しく、ワクワクしています。日本の文化、日本のサッカーを知ることは、私の夢の実現の一つです。
クラブの目標を達成すると共に、スペインサッカー界で培ったやり方を鈴鹿でお見せしたいと思っています。
このチャレンジは、私にとって、とても美しく、魅惑的です。そして勝てるチームを作るために選手達のベストを引き出したいと思います。
本当にありがとうございます。ミラと呼んでください。
ご声援よろしくお願いいたします。行くぞ!鈴鹿!

[匿名さん]

#9522019/01/10 00:46
◇いわきFC◇
ROOM-社長の論説-

■スポーツ文化を醸成する■
日本における16歳から19歳までの女性スポーツ参加率は40%。これは米国と同じだそうだ。
しかし、20歳から24歳になると日本人の参加率は11%と一気に減り、米国人は逆に54%と増えるそうだ。
こんな恐ろしいデータがあることを私は知らなかった。一体、これは何を意味するのだろうか?
株式会社ドームのウーマンズプロジェクトによると、厳しい部活動によって、高校を卒業すると何かに解放されたかの如く、スポーツをすることに距離をおくそうだ。
多くの女性が、スポーツはきつい、つらい、やりたくない、とネガティブなイメージをこの年代でもってしまうのかもしれない。
青春時代に打ち込んだスポーツが、逆にスポーツ嫌いを引き起こしていることになるのか。
40年前の米国における法整備(*1)によって、男性アスリートに対する女性アスリートの割合は、入学者数に占める男性と女性の割合にはほぼ比例し、米国企業の女性管理職の8割がスポーツをしていた、スポーツを続けている、というデータが生まれた。
しかし、スポーツの本質は、人間の健康を維持する活動であり、子供を大人に成長させる活動であり、人として思いやりを育む活動である。
だから、もし青春時代にスポーツ嫌いになってしまったのであれば、そうさせた指導者、それを許す管理団体は、自らの言動を振り返るべきであろう。
スポーツの文化を醸成する。
株式会社ドームの目指すところであり、株式会社いわきスポーツクラブの目指すことろである。
いわきFC Girlsは、コンセプトを「The Athletic Woman」とおいた。
強くて美しい、意志を持った女性になることを目指し、子供たちが、生涯にわたってスポーツを楽しんで続けてくれるマインドを育むをことを第一に考えて活動している。

[匿名さん]

#9532019/01/10 00:46
*1 アメリカにおいて、女性は20代以降もスポーツを楽しみ続けているが、その基礎となった連邦法が1972年6月に可決された教育法第9編、通称「タイトルⅨ」である。
「公的な教育機関において、性別による差別を禁止する」という内容で、すべての学生が学校内外で平等な機会を受ける権利を保障され、連邦政府の財政支援を受けるすべての教育制度または活動において、性差別を禁止している。

[匿名さん]

#9542019/01/10 00:56
ディオッサ出雲F.C.(ディオッサイズモFC、Diosa Izumo F.C.)は、島根県出雲市を中心に活動する、中国女子サッカーリーグに所属する女子サッカーチーム。

■呼称
ディオッサ出雲
■愛称
ディオッサ
■創設年
1991年
■所属リーグ
中国女子サッカーリーグ
■ホームタウン
島根県出雲市
■ホームスタジアム
島根県立浜山公園陸上競技場

■運営法人
NPO法人ディオッサスポーツクラブ
■代表者
落部仁司
■監督
片岡操

ディオッサ(diosa)とは、スペイン語で「女の神」という意味を持ち、地域(行政・大学・学校・民間等)と協力、密着した活動を展開し、出雲を代表する女子サッカークラブを目指し、県リーグを制覇し、中国リーグへの参戦、2021年には「なでしこリーグ」昇格を目標に活動している女子サッカークラブです。


沿革

1991年
̇̇地域のスポーツクラブとして設立

2011年
̇̇̇̽創立20周年を期に新たなビジョンとして「なでしこリーグ」参入を目標に掲げ、島根県サッカー協会の支援体制をはじめ出雲市の積極支援を得ることになり、チーム体制の充実を進める

2014年
▪ 島根県女子サッカーリーグ優勝。
▪ チャレンジリーグ参入戦に挑戦するも昇格ならず。
▪ 中国女子サッカーリーグ昇格戦に島根県代表として参加、中国リーグ昇格決定。

[匿名さん]

#9552019/01/10 07:37
常名 秀則
 ・1993年中学校を卒業後ブラジルへサッカー留学
 ・1987年サン・パウロ州1部リーグE.C.サント・アンドレと日本人2番  目のプロ選手として契約
  ※E.C.キンゼ・デ・ジャウーでは三浦知良と共にプレー
 ・1992年帰国後、京都紫光クラブ(現京都サンガ)にてプレー
  古河電工千葉を最後に現役を引退
 ・千葉敬愛高校、三井千葉SCなどを指導し市原市でちはら台SCを設立
 ・現在エクサスグループ総監督を務めちはら台SCなどアカデミーを指導

               ・日本サッカー協会、アジアサッカー連盟公認A級コーチジェネラル
               ・日本体育協会上級コーチ
               ・日本サッカー協会こころのプロジェクト「ユメセン」講師
               ・日本サッカー協会公認3級審判員
               ・千葉市サッカー協会4種委員・花見川区サッカー協会理事長
               ・千葉県・千葉市4種技術委員

[匿名さん]

#9562019/01/10 17:28
同じ内容の度重なる長文の書き込みに対して、利用規約違反として運営に通報します。

[匿名さん]

#9572019/01/11 09:04
✴浜田市のご当地グルメ✴

浜田市でオススメのご当地グルメをセレクト!

■しまねお魚センター 
原井町/その他軽食・グルメ

■江木蒲鉾店 
朝日町/その他軽食・グルメ

■リフレパークきんたの里 
金城町七条/日本料理・懐石
 
■すし蔵 浜田本店 
朝日町/寿司

■鈴蘭別館 
港町/郷土料理
 
■村さ来浜田店 
浅井町/居酒屋
 
■きらら 
浅井町/居酒屋
 
■清香苑 
黒川町/その他軽食・グルメ
 
■大阪王将 浜田店 
黒川町/飲茶・点心・餃子

■ポークレストラン ケンボロー 
黒川町/居酒屋
 
■菜の華 
朝日町/ラーメン

■山源すしうなぎ店 
錦町/寿司


※じゃらん ご当地グルメガイド

[匿名さん]

#9582019/01/11 09:19
今シーズン、中国リーグ復帰できなかったら、

もう終わりかもね・・・。

[匿名さん]

#9592019/01/11 09:45
>>958
選手、サポーターのモチベーションはどうなのよ?

[匿名さん]

#9602019/01/11 09:46
>>958
次でもうラストだろ・・・。

[匿名さん]

#9612019/01/11 09:52
■チーム名
デッツォーラ島根
●ホームタウン
島根県浜田市など
●チーム概要
 2001年に現在のチームの母体となるFCセントラル中国を発足。08年から「デッツォーラ島根」へ改称しました。名前の由来は、ポルトガル語で「神」を意味する「デウス」と、「やあ」や「ようこそ」を表す「オラ」を合わせた造語です。05年に島根県社会人リーグ1部優勝を果たし、中国サッカーリーグに昇格。07年に初めて全国地域サッカーリーグ決勝大会に出場しました。しかし、この時は1次リーグ敗退。今年は島根県勢としては初めて中国リーグ優勝を果たし、4年ぶり2度目の地域決勝大会に挑みます。

 試合は浜田市陸上競技場や出雲市の浜山公園陸上競技場を使っていますが、チームは元々は広島県北広島町にあり、練習場も同地にあるため、残念ながらなかなか地域の方に認知されていないのが現状です。今回の地域決勝大会で少しでもいい結果を残し、地元の人に愛されるクラブづくりのステップにしたいと思います。みなさん、応援よろしくお願いいたします。

【Q&A】
-クラブのセールスポイントを教えて下さい。
 『攻撃サッカー』を掲げていることでしょうか。2001年のチーム設立以来『楽しく、厳しく、いい加減に』をモットーに、観客、サポーターの方々を楽しませる、魅せるサッカーを目指しています。とにかく攻撃サッカーを掲げ、1点でも多く得点を奪うことを主眼においています。

[匿名さん]

#9622019/01/11 09:54
>>961

 システムは絶対に4バックで、「サイド攻撃」を主な戦術にしています。4-4-2がメインシステムですが、時には2-4-4になるくらい、サイドバックが攻撃にしっかりと顔を出すサッカーを目標にしています。そして、個人能力を活かすという点も大事にしています。全国の舞台でどこまで実戦できるかわかりませんが、自分たちのサッカーを展開したいと思います。

-注目選手を教えてください。
▽FW隅田航
 元京都サンガの選手で、ドリブルが得意なFWです。今年から加入しましたが、中盤でチャンスメークもこなせるユーティリティーな能力があるうえ、今季中国リーグで8位タイの10得点とゴール嗅覚もあります。
▽FW平田翔太
 強烈な弾丸シュートが持ち味のストライカーで、今季20得点で中国リーグの得点王を獲得しました。Jリーグの経験はありませんが、2009年にはV・ファーレン長崎に加入。10年より、チームの柱として活躍してくれています。隅田とともにゴール量産を期待したいところです。

-元Jリーグ所属選手を教えて下さい。
FW隅田航(京都)

以下、監督・選手リスト
●総監督
若三康弘
●監督
庄司孝
●選手一覧
▽GK
笠川太郎
田中慧
斎藤正紀
林一章
加藤賢士
▽DF
下村尚文
渥美高二
望月陽介
錦織哲也
佐藤啓太
細貝ジュニオール
▽MF
前田昇吾
庄司孝
空山浩輝
平野賢児
幸野屋敏行
河村旬記
清水俊典
田栗史康
田平謙
▽FW
隅田航
平田翔太

[匿名さん]

#9632019/01/11 10:02
>>962
この頃のデッツォーラ島根が最強でしたね。好きな選手も多かった。個々の能力も高かった。ほとんどの選手のスカウティングを若三さんがされていたんですよね?
サイド攻撃も魅力的だったな。5人のGKはビックリでしたが。当時は、中国リーグもよく観戦したし、天皇杯で千葉に行ったり、全社で岐阜まで応援に行ったものです。若い頃の田平選手、下村選手もチームの主軸として活躍していました。

[匿名さん]

#9642019/01/11 10:05
このまま消滅するのは、勿体ないチーム。

[匿名さん]

#9652019/01/11 10:10
サッカーは地域密着型のスポーツだから、地元民に愛されなければ、難しいですよね。ただ強いだけでは、クラブは発展しません。

[匿名さん]

#9662019/01/11 11:02
>>956
あの監督はチームが勝つ事や地域の人達の事とかより、自分が有名になる事で毎日頭がいっぱいなんだから、逆にいっぱい紹介してあげた方があの人にとっては嬉しい事だと思うよ。

[匿名さん]

#9672019/01/11 18:49
次でラストだろうね。

去年のリーグ前半の試合は、

非常に恥ずかしかった。

[匿名さん]

#9682019/01/11 20:27
ドリブル教室か〜。香川真司みたいな選手を発掘させる気かな?

[匿名さん]

#9692019/01/11 23:03
日本サッカーリーグ(JSL)は、1965年から1992年まで存在した日本のサッカーリーグ。日本サッカーの競技レベル向上を目的に発足。

■JSLに参加したクラブ

◇創設時の8クラブ

古河電気工業サッカー部
※創設時の8クラブで唯一2部への降格経験なし

日立製作所本社サッカー部
三菱重工業サッカー部
豊田自動織機製作所サッカー部
名古屋相互銀行サッカー部
ヤンマーディーゼルサッカー部
東洋工業蹴球部(1970年 - 東洋工業サッカー部、1980年 - マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部、1984年 - マツダスポーツクラブサッカー部、1986年 - マツダサッカークラブ)
八幡製鉄サッカー部

◇昇格によりJSL1部に所属したクラブ

日本鋼管サッカー部
藤和不動産サッカー部
トヨタ自動車工業サッカー部
田辺製薬サッカー部
永大産業サッカー部
富士通サッカー部
読売サッカークラブ
日産自動車サッカー部
ヤマハ発動機サッカー部
本田技研工業サッカー部
住友金属工業蹴球団
全日空横浜サッカークラブ
松下電器産業サッカー部
東芝堀川町サッカー部

◇JSL2部にのみ所属したクラブ

甲府サッカークラブ
京都紫光サッカークラブ
日本軽金属サッカー部
大日日本電線サッカー部
電電公社近畿サッカー部
帝人松山サッカー部
日立製作所茨城日立サッカー部
ヤンマークラブ
古河電気工業千葉事業所サッカー部
大協石油四日市サッカー部
名古屋サッカークラブ
埼玉県教員サッカークラブ
東邦チタニウムサッカー部
西濃運輸サッカー部
京都府警察本部サッカー部
TDKサッカー部
大阪ガスサッカー部
川崎製鉄水島サッカー部
電電公社関東サッカー部
マツダオート広島サッカー部
藤枝市役所サッカー部
読売サッカークラブ・ジュニオール
大塚製薬サッカー部
東京ガスサッカー部
中央防犯サッカー部

[匿名さん]

#9702019/01/11 23:39
社会の底辺化するJリーガー…給料12万、平均25歳で引退 「スペックなし」で就職困難
取材・文=酒井政人/スポーツライター2016.07.29

近年、男の子の「なりたい職業ランキング」でトップに君臨するのが、「サッカー選手」だ。しかし、プロサッカー選手たちの現状は、キラキラしたものではないのかもしれない。2016年の日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)1部の選手の平均年俸は、2017万円。これがJ2になると各段に下がり、平均年俸は400万円強。さらにJ3では、平均値が算出できないほど危うい状況になっていく。

J3のクラブチームは、「プロ契約選手の保有人数が3人以上」という規定になっており、プロとアマチュアの選手が入り混じっている。プロ契約でも年俸の下限はなく、ほとんどの選手がアルバイトをしながらプレイしているのだ。しかも、引退後のセカンドキャリアはさらに厳しいという。

子供たちの「夢」を叶えたはずの男たちに、どんな「現実」が待ち構えているのか。昨季までJ3のY.S.C.C.横浜でプレイし、現在はリクルートキャリアに勤務する服部大樹氏に話を聞いた。

■月収は20万円弱
桐蔭学園、早稲田大学で活躍した服部氏は、14年にJ3リーグへ参入したY.S.C.C.横浜とプロ契約を結び、2年間プレイした。Y.S.C.C.横浜のプロ契約選手は初年度が4名、2年目が8名で、ほかの選手はアマチュア契約だったという。
「プロといっても、給料は驚くほど低かったです。チームメイトがいくらで契約をしていたかは知りませんが、全員が何かしらの副業をしていました。私の月収はアルバイト込みで20万円弱でした」(服部氏)

月収の内訳は、チームからの支給が週に1回のスクールコーチ代込みで12〜13万円、他チームのスクールコーチ代が3〜4万円、空き時間にしていたテレアポのアルバイトが1〜2万円だった。

[匿名さん]

#9712019/01/11 23:39
プロサッカー選手になれたとしても、年俸の上限がない「プロA契約」は1チーム原則25人までと人数が限られている(J1チームは15人以上、J2チームは5人以上)。「プロB契約」と、「プロC契約」の年俸は、上限が480万円。その結果、J2ではサラリーマンの平均年収ほど、J3ではフリーターのような稼ぎにしかならないのだ。

しかも、Jリーグの平均引退年齢は25〜26歳。一部のトップ選手を除けば、プロ契約を結んでもサッカーでリッチな生活を送るのは難しい。

[匿名さん]

#9722019/01/12 08:12
おいおい、どうしたんだ急に饒舌になって?

しかも何役もやって何がやりたいんだ?

[匿名さん]

#9732019/01/12 10:46
いい歳してまともに働かず、しかも勝てないのでは何の為にサッカーやってるのかわからない…。

サッカースクールの前に、まず、やる事あると思う。

[匿名さん]

#9742019/01/12 10:55
1000まで、あとちょっと。

[匿名さん]

#9752019/01/12 11:05
>>972
掲示板見ながら采配しようとしても、もうできないな!

[匿名さん]

#9762019/01/13 00:56
デッツォも面倒くさい奴にとり憑かれたもんだぜ。

[匿名さん]

#9772019/01/13 01:30
現役20年でたった1ゴール…下手なのにプロで稼ぎ続けた“詐欺師FW”の手口がすごい
16/8/29 19:30 ゲキサカ

ストライカーでありながら20年間で記録したゴールはわずかに「1」。それでも引退まで世間をだまし通し、プロで稼ぎ続けた伝説の選手がいた。

 米『アトラス・オブスキュラ』によると、その選手はブラジル人のカルロス・カイザー氏。貧困から脱出するべくプロの道を目指したカイザー氏は、ボタフォゴの下部組織を経て1979年にメキシコのプエブラFCに入団したが、実力が足りずに数か月で退団。ただ、その後も3〜6か月の短期契約ながらさまざまなクラブを渡り歩き、プロとして20年間プレーした。

カイザー氏がプロ生活を維持するために仕組んだ手口は多岐にわたる。まずは、有名選手たちに取り入り、彼らに気に入られることで他クラブに推薦してもらうというシンプルなもの。当時はまだ過去のプレー映像を見ることはできず、クラブのスカウトは有名選手のアドバイスを信じてカイザー氏と契約を結んでしまっていたようだ。

 さらに入団後もカイザー氏の策略に抜かりはない。嘘の怪我を申告して調整という名目のもとで時間の引き伸ばしを行い、そのまま数か月の契約期間を満了し、次のクラブに移籍するというパターンを繰り返していた。

 また、記者に賄賂を渡して自分を良く見せる記事を書かせたり、当時は高価とされていた携帯電話を手にチームスタッフの理解できない英語で話し、世界的に名が知れていることを装ったりと、カイザー氏は周囲の人々を洗脳し続けた。

[匿名さん]

#9782019/01/13 01:30
そんなカイザー氏にもピンチがあったという。フランスのアジャクシオに移籍した際、現地で「ブラジルの有名選手が来た」と話題になり、クラブは公開練習を実施してカイザー氏にファンの前でテクニックを披露してもらうことに。ここでカイザー氏がとった秘策は、ファンサービスのふりをしてボールを全て客席に蹴ってしまうというものだった。最後にユニフォームのエンブレムにキスをすると、ファンはカイザー氏の粋なパフォーマンスに大興奮。その後、カイザー氏はいつも通りほとんどプレーすることなく、契約満了でクラブを去った。

あらゆる手段を駆使してクラブをだまし、1990年代初めまで現役生活を続けたカイザー氏。自身の行いに対して「全く後悔はしていない。クラブは多くの選手たちをだましてる。誰かが仕返ししなければいけなかったんだよ」と語っている。

[匿名さん]

#9792019/01/13 01:45
>>976
女代表のせいだ!

[匿名さん]

#9802019/01/13 21:54
観客動員数が減少傾向にある浦和レッズ その要因と改善策とは!?
2018年10月05日 ゴラッソ

■アジア制覇2回のビッグクラブである浦和レッズ

「浦和レッズ」という名は日本人の多くの人が耳にしたことがあるだろう。三菱重工業サッカー部が前身の同クラブは1993年のJリーグ開幕時にオリジナル10の1つとしてJリーグへ参入を果たした。開幕から2、3年は最下位という結果に終わり、2000にはクラブ史上初のJ2の戦いとなるも、2位でJ1への復帰を決め、2006年にはポンテ、ワシントン、田中マルクス闘莉王を擁し、J1初優勝、さらに翌年はACL(アジアチャンピオンズリーグ)でも初優勝を飾った。2017年には2度目となるACL優勝を果たし、国内のクラブで唯一ACLを2度制覇した経験のあるクラブとなった。
なお、2006年のホーム開幕戦で初期のJリーグを含めJ1主催試合観客動員数が500万人を突破した。これはJリーグ加盟クラブ初の記録となった。

■解決策は地道な努力やスタジアムに足を運ぶきっかけ作り

観客が多いクラブも少ないクラブも必ずそこに理由がある。今のレッズには、川崎のような日頃からの地道な努力の積み重ねが足りないことは間違えない。学校訪問やトークショー、サイン会の定期的な開催、ユニフォームなどのグッズ配布や小学生などの試合に招待するなど、ファン・サポーターを満足するために日々試行錯誤し、努力し続ける必要がある。
娯楽が多く、人口減少が続く日本で観客動員数を増やすのは容易ではない。さらに、近年はDAZNの影響でスマホやパソコンで気軽に試合を見ることができる環境にある。日頃からの地道な活動を行い、試行錯誤して努力していくことがスタジアムに足を運んでもらうことに繋がるのではないだろうか。

[匿名さん]

#9812019/01/13 22:00
松江スタジアム満員化計画
@matsuefamily
松江シティFCのJFL昇格をきっかけに設立した私設サポーター団体。ゆっくり時間をかけていつの日か【ホームゲームを満員】にすることが目標。ゆるく楽しく活動します。声出し活動をする団体ではありません。合言葉は『松江のスタジアムを満員に。』/noteで松江シティマガジン(非公式)配信中。

[匿名さん]

#9822019/01/13 22:01
YELLOW JACKET ゴール裏
@mcfc_goal_ura
松江シティのサポーターグループ「YELLOW JACKET」の声出し担当です。 試合会場情報や応援練習の告知、コール&チャントを載せていきます。トモニタタカイ トモニワラオウ
主にトップチームの応援。時々女子も。


✴来季の目標、3ない運動✴

・ブーイングをしない
・選手や審判を野次らない
・絶対に諦めない

1番最後のは絶対に守ります。

[匿名さん]

#9832019/01/14 00:34
「彼らは敗者でないことを証明した」涙の敗戦後、ゴミ拾いをする日本サポーターに感動広がる

史上初となるベスト8入りは叶わなかったが...

2018年07月03日 長澤 史佳


サッカー・ワールドカップの日本対ベルギー戦をスタジアムで応援した日本人サポーターたちが、試合後に客席のごみを拾った。すっかりおなじみの光景となったが、日本が敗れた後にも黙々と清掃活動をこなした彼らを、海外メディアは改めて称賛した。
試合は7月3日未明(日本時間)にあり、日本が一時、2−0とリードしたものの、その後ベルギーの猛攻に遭い、試合終了間際に逆転ゴールを決められ、負けた。

世界ランキング3位のベルギーにあわや勝利かと思われていただけに、サポーターたちのショックは大きく、試合後も泣きじゃくったり、うなだれたりする姿も見られた。だが、しばらくすると、気持ちを切り替えてビニール袋を手に客席のごみを拾い集めた。

敗戦の後にも関わらず、 ごみ拾いする日本サポーターを海外メディアは絶賛した

イギリス紙・The Sunは「彼らは敗者でないことを証明した」「最高のゲストだ」と称賛。USA TODAYは記事中で「負けても彼らの素晴らしい精神は無くならなかった」とコメントした。

ツイッター上でも日本サポーターがごみ拾いをする写真が上げられた。ツイートには「リスペクト。素晴らしい、涙が出そう」「さすが日本だ!」「なぜ日本の街があんなに綺麗なのかがわかった」など、多くのコメントがついた。

日本人サポーターによる清掃活動は、日本が初出場した1998年のフランス大会にさかのぼる。礼儀正しい姿を地元メディアが報道。以来、ほかの海外メディアも注目するようになった。今回も海外の複数メディアがこうした活動を評価する記事を掲載していた。

[匿名さん]

#9842019/01/14 12:08
ヤンマーディーゼルサッカー部は、かつて存在した日本のサッカークラブ。「企業アマ」の体制確立に最も早くから着手したチームの内の1つでもある。日本代表で活躍した釜本邦茂を中心としたチーム構成で1970年代に全盛期を築き上げた。セレッソ大阪の前身となったクラブ。

日本サッカーリーグ初年度は最終節の東洋工業サッカー部戦で0-11という記録的な大敗を喫して7位。翌年は最下位に終わり入替戦に回るなど惨憺たる結果に終った。
そこで監督の鬼武健二、コーチの加茂周、マネージャーの安達貞至らが中心となり改革に取り組む。環境面では天然芝の照明設備付きグラウンド、サウナ付きの選手寮の建設。待遇面でも残業手当に相当する「運動部手当」を支給、従来夕方からの練習参加としていたのを、午前中で仕事を切り上げ午後からの練習参加を可能にするなど、企業アマ体制を確立させた。この背景には関西出身の大型ストライカー釜本邦茂が加入したことにより会社が積極的な支援を行う様になった面もある。
またヤンマーがブラジルに自社工場のヤンマーディーゼル・モトーレス・ド・ブラジルを所有していた事もあり、そこで勤務していた日系人のネルソン吉村を獲得、日本リーグ初の外国籍選手となった。吉村や黒人選手のカルロス・エステベスを獲得すると、それまでの守備一辺倒のスタイルからラテン志向のパスサッカーへ転換を果たし、1969年の天皇杯を制覇。これは創部11年目にして初のビッグタイトルとなった。
釜本、吉村のコンビを中心としたブラジル流攻撃サッカーは人気を集め、ドイツ流の組織的サッカーを志向するライバルの三菱重工業サッカー部との試合は人気を集め1968年11月17日に国立霞ヶ丘陸上競技場で行われた試合は40,000人の観衆を集め、この記録は20年近くJSLでの最多入場記録であった。

[匿名さん]

#9852019/01/14 12:16
釜本 邦茂は、日本の元サッカー選手、元サッカー指導者、元参議院議員、実業家。日本サッカー協会 (JFA) 顧問。京都府京都市右京区太秦出身。現役時代のポジションはフォワードで、日本サッカーリーグでは、251試合出場し、通算202得点(歴代1位)、通算79アシスト(歴代1位)を記録。得点王7回、アシスト王3回、年間優秀11人賞14回、日本年間最優秀選手賞7回受賞(歴代1位)と傑出した活躍を見せた。また、サッカー日本代表として国際Aマッチ76試合75得点(総通算231試合153得点)を記録し、1968年メキシコオリンピックでは、アジア人初の得点王となった。2005年第1回日本サッカー殿堂入り。


生年月日
1944年4月15日(74歳)
出身地
京都府京都市右京区太秦

身長
179cm
体重
79kg

選手情報
ポジション
FW
利き足
右足
ユース
早稲田大学

クラブ
1967-1984
ヤンマーディーゼル
251 出場
(202) 得点

代表歴
1964-1977
日本
76 出場
(75) 得点

監督歴
1978-1984
ヤンマーディーゼル
1991-1994
松下電器/ガンバ大阪
2009
藤枝MYFC
 
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック

1968

日本サッカー協会やRec.Sport.Soccer Statistics Foundation (RSSSF) の認めるサッカー日本代表の男子の単独最多得点記録保持者(75得点)であり、国際サッカー連盟 (FIFA) でも2014年時点では最多得点記録保持者(80得点)としている。趣味は、ゴルフ、時代劇のテレビ鑑賞。座右の銘は「己に剋つ」である。

[匿名さん]

#9862019/01/15 01:44
サッカーは南米も好きだけど、

やっぱり欧州の方が面白いかな。

[匿名さん]

#9872019/01/15 12:52
セルジオ越後(1945年7月28日 - )は、ブラジルサンパウロ出身の元プロサッカー選手。現在は、サッカー評論家・指導者。日系ブラジル人(二世)。現役時代のポジションは右ウイング。


国籍
ブラジル
生年月日
1945年7月28日(73歳)
出身地
サンパウロ
身長



クラブ
出場
(得点)
1964-1965
コリンチャンス
11
(0)

1967-1968
トレス・ポンターノ
 ?
(?)

1971
ブラガンチーノ
 ?
(?)

1971
パウリスタ
 ?
(?)

1972-1974
藤和
40
(6)

■JSL時代
1972年に日本サッカーリーグ(JSL)1部の藤和不動産サッカー部(湘南ベルマーレの前身)に入り、1974年までプレー。セルジオは当初、あくまでもアマチュア選手として仕事の余暇にサッカーをプレーするものだと考えていたが、実際には藤和不動産はほぼ一年中合宿生活を送っており、プロ時代以上の練習量に驚かされることになる。日本人の監督・コーチの非合理的な指導に対し、セルジオが戸惑うこともしばしばあった。

JSL初の「元プロ選手」の加入は大きな話題となり、日本デビュー戦となった1972年開幕戦の三菱重工戦には、同年のJSLの1試合平均観客動員数の4倍となる2万人の観客が国立競技場に集まった。日本サッカー協会では元プロ選手のプレーの是非を巡って議論が起き、その後、外国人選手の試合出場は来日・登録から半年間は認めないとする新たな制限が設けられた。

1974年に藤和不動産の新外国人選手としてセルジオ自らブラジルで探し当てたカルバリオは、その後2度のJSL1部得点王に輝いた。

来日当時日本サッカーの故郷ブラジルとのレベルの差とサッカー人気の低さに大きな失望と戸惑いを感じたが、サッカー教室を清水で開いた際子供たちのレベルの高さとサッカー熱を見て「日本にもブラジルがあった」と感激したと語っている。

[匿名さん]

#9882019/01/15 16:27
第21回 日本フットボールリーグ第1節・第2節 日程決定
2019年01月15日
■第21回 日本フットボールリーグ第1節・第2節 日時・対戦カード決定のお知らせ



2019シーズンより参戦いたします「第21回日本フットボールリーグ(JFL)」の第1節・第2節の日時・対戦カードが決定いたしましたので、下記の通りお知らせいたします。

また、試合会場の詳細は2月1日(金)に発表予定、全日程の発表は2月15日(金)に改めて行います。



<第1節>

2018年3月17日(日)13:00キックオフ

Honda FC vs 松江シティFC

会場:静岡県内



<第2節>

2018年3月24日(土)13:00キックオフ

松江シティFC vs ソニー仙台FC

会場:島根県内



※松江シティFC以外のチームのホーム開幕戦については、JFLオフィシャルサイトをご覧ください。

※上記日時は変更になる場合もございます。

[匿名さん]

#9892019/01/15 16:32
Honda都田サッカー場では、車椅子専用の観戦エリアを設けております。
ご利用方法につきましては、ご入場の際に運営スタッフにお問い合わせ下さい。
場内での落し物につきましては、お近くの運営スタッフまたはメインゲート横の管理棟までお問い合わせ下さい。
また、後日お気づきの際にはHonda FC事務局(TEL:053-439-2050)までお問い合わせ下さい。

■アクセスのご案内
Honda都田サッカー場 住所 : 静岡県浜松市北区都田町7945


■交通のご案内
バスでお越しの場合
• 浜松駅バスターミナル16番のりばより都田線(46 市役所 都田 フルーツパーク方面)に乗車し、
• 都田口にて下車(およそ40分)都田口バス停より東へ徒歩12分
• 浜松駅バスターミナル16番のりばより都田線(46 市役所 葵町 都田口 テクノ方面)に乗車し、
• 本田サッカー場にて下車(およそ40分)本田サッカー場バス停より徒歩1分
• 浜松駅バスターミナル13番のりばより(56 市役所萩丘住宅テクノ都田)に乗車し、
• 相羽内科入口で下車(およそ40分)相羽内科入口バス停より西へ徒歩15分

 詳細な時刻表、路線図は、遠州鉄道株式会社ホームページをご覧下さい。

■タクシーでお越しの場合
浜松駅よりおよそ45分

■お車でお越しの場合
• 東名浜松西インターチェンジより、およそ20分
• 新東名浜松浜北インターチェンジより、およそ25分
• 新東名浜松SAスマートインターチェンジよりおよそ15分

調整池または役員駐車場をご利用ください。
住所:静岡県浜松市北区都田町7948-1

[匿名さん]

#9902019/01/16 10:27
来季、再度中国リーグ昇格を果たして、中国リーグで浜田コスモスと浜田ダービーやろう!

[匿名さん]

#9912019/01/16 12:33
社員選手ばかりのソニー仙台が鹿島撃破
2014年7月12日 デイリー

 「サッカー天皇杯2回戦 ソニー仙台(JFL・宮城県代表)2‐2(PK戦2‐1)鹿島(J1)」(12日、等々力ほか)
 カテゴリーにして3段階下の実業団クラブ・ソニー仙台が天皇杯優勝4回の名門・鹿島を相手に大番狂わせを演じた。
 前半23分にMF細見が直接FKをたたき込むと、同28分にはFW田中が抜け出して左足で追加点を奪った。前半のうちに同点とされてしまい、後半は守勢に回ったものの、集中力を途切れさせずに延長戦を含めた120分間で鹿島に勝ち越しを許さなかった。

PK戦突入を告げるホイッスルの直後には、大半の選手がピッチ上に倒れ込む消耗ぶり。後攻で2人目までが失敗する苦しい展開だったが、GK金子が鹿島の2人目・野沢を止めると、鹿島も連鎖反応的に柴崎、中村、山本が外す。ソニー仙台は3人目・中村と4人目・澤口が決めて、PK戦1‐2で激闘を制した。

ソニー仙台は2人のプロ契約選手以外は社員として普段は働いており、午前8時半から午後2時までの通常業務を終えた後に、午後3時から約2時間の練習を行っている。PK戦で活躍したGK金子も工場勤務の社員選手。「企業スポーツが何を求められているかを考えています。社員としては会社を盛り上げたい。力を与えられるのではないかと考えています」と語る。

地域貢献にも力を入れており、仙台市内の幼稚園にサッカーコーチを派遣している。プロを目指す選手、社員として活動を志向する選手と、いろんな立場の選手がいるが、この日は気持ちを一つにしてジャイアント・キリングを達成した。

[匿名さん]

#9922019/01/16 13:01
✴松江市陸上競技場✴

〒690-0015
島根県松江市上乃木10丁目4−1
0852-21-3500

■施設情報
野球場・庭球場・補助競技場・こどもスポーツ広場 09:00〜21:00
陸上競技場 09:00〜日没
定休日
12月29日-1月3日
野球場は12月29日〜2月末日

■アクセス
山陰自動車道松江中央ICから約5分
JR松江駅からバス約30分、運動公園入口下車、徒歩約2分

駐車場
あり
駐車場料金無料
※備考開門時間6時〜22

◇松江市陸上競技場のアクセス情報

■最寄り駅

◇乃木

JR

徒歩22分1.8km


◇松江
JR

徒歩36分2.9km


◇松江しんじ湖温泉

私鉄・地下鉄

徒歩46分3.7km



◇玉造温泉

JR

徒歩60分4.8km



◇東松江(島根)

JR

徒歩70分5.6km



■最寄りのバス停

◇南高校前

〔松江市営バス〕
徒歩4分329m


◇八雲台入口

〔松江市営バス〕

徒歩5分377m


◇県立短大前

〔松江市営バス〕

徒歩6分440m


◇矢の原

〔松江市営バス〕

徒歩6分442m


◇運動公園入口

〔松江市営バス〕

徒歩7分568m

[匿名さん]

#9932019/01/16 13:29
✴松江市のご当地グルメ✴



■神代そば
奥谷町/うどん・そば
 


■島根県物産観光館
殿町/その他軽食・グルメ


■松江 月ヶ瀬 

末次本町/スイーツ・ケーキ
 


■中国山地蕎麦工房ふなつ 

外中原町/うどん・そば
 


■松江堀川地ビール館 

黒田町/郷土料理

■海鮮問屋博多
伊勢宮町/海鮮



■スターバックス・コーヒー・シャミネ松江店

朝日町/その他軽食・グルメ



■八雲庵 

北堀町/うどん・そば



■宍道湖しじみ館 松江名産センター しじみ茶屋 

千鳥町/その他軽食・グルメ

■ミートショップきたがき
西茶町/その他軽食・グルメ



■美保関灯台ビュッフェ 

美保関町美保関/その他軽食・グルメ



■レストラン 西洋軒 

片原町/洋食全般



■松江 和らく 

御手船場町/日本料理・懐石
 


■珈琲館 湖北店 

西浜佐陀町/カフェ



■龍頭 

玉湯町玉造/その他軽食・グルメ



■へるんの小径 

殿町/スイーツ・ケーキ



■庄助 

八軒屋町/居酒屋



■たこ焼き 櫻 

玉湯町玉造/その他軽食・グルメ
 


■ウエダの洋菓子南田町店 

南田町/その他軽食・グルメ
 


■日本海庄や シャミネ松江店 

御手船場町/海鮮



■長浜ラーメン 博多屋 松江店

津田町/ラーメン



■旬菜 松江 

西嫁島/うどん・そば
 


■味皆美 ふじな亭

玉湯町布志名/居酒屋
 


■山陰漁酒場 丸善水産 松江店 

御手船場町/居酒屋



■ミスタードーナツ イオン松江ショップ 

東朝日町/その他軽食・グルメ



■てまひま料理 根っこや 

伊勢宮町/居酒屋



■市場前食堂 磯の家 

朝日町/居酒屋
 


■みな美

末次本町/その他軽食・グルメ
 



※じゃらん ご当地グルメガイド

[匿名さん]

#9942019/01/16 18:14
デッツォーラ島根④へ

[匿名さん]

#9952019/01/16 21:30
川淵 三郎(1936年12月3日 - )は、日本の元サッカー選手、元日本代表監督、Jリーグ初代チェアマンを経て、第10代日本サッカー協会(JFA)会長を務めた。早稲田大学第二商学部商学科卒業。日本サッカー殿堂入り。2009年、秋の叙勲で旭日重光章を受章した。

愛称
キャプテン,槍の川淵

生年月日
1936年12月3日(82歳)
出身地
大阪府高石市

選手情報
ポジション
MF、FW
利き足
右足

代表歴
1958-1965
日本
24 (6)

監督歴
1972-1975
古河電工

1980-1981
日本代表

JFA会長は、それまで無給だったが、川淵の代から有給となった(推定3000万円)。会長退任後は日本サッカー協会の名誉職を歴任しており、名誉会長を経て、2012年6月より最高顧問、2018年3月30日時点では相談役である。日本トップリーグ連携機構代表理事会長[2]。2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会評議員会議長[3]。日本バスケットボール協会エグゼクティブアドバイザー。元公立大学法人首都大学東京理事長。実業界では、古河グループの古河産業の取締役を務めた。公式な愛称は「キャプテン」、渾名は「サブ」。家族は妻と2女の4人家族。

■現役選手時代まで
1936年12月3日 大阪府泉北郡高石町(現在の高石市)出身、父・川淵眞一、母・淑子の3男として出生。1943年 大阪府高石町立高石国民学校入学。吉岡たすくの指導を受ける。1945年 大東亜戦争(太平洋戦争)終戦。1949年 大阪府高石町立高石中学校入学、野球部に所属。1952年 大阪府立三国丘高等学校入学、同年7月同校サッカー部に入部。1955年同校卒業
1957年 2浪の後早稲田大学第二商学部商学科に進学。早稲田大学ア式蹴球部でプレー。関東大学リーグ優勝。
▪ 1958年 日本代表に初選出。関東大学リーグ優勝。
▪ 1959年 ローマ五輪アジア予選出場。
▪ 1960年 第7回チリW杯アジア予選出場。関東大学リーグ優勝。
▪ 1961年 3月、早稲田大学第二商学部商学科卒業後、古河電気工業入社。4月、横浜電線製作所勤務。同社サッカー部でプレー。
▪ 1962年 インドネシア・ジャカルタで開催された第4回アジア競技大会に出場。12月、結婚。
▪ 1964年 日本代表として東京オリンピック出場、対アルゼンチン戦でゴールを挙げる。

[匿名さん]

#9962019/01/16 21:34
■引退後
▪ 1970年 現役引退(日本代表通算68試合、18得点)。古河電気工業サッカー部コーチ就任。
▪ 1972年 古河電気工業サッカー部監督就任(1975年退任)。
▪ 1976年 日本サッカーリーグ常任運営委員就任(1979年退任)。10月、伸銅事業部第1販売部課長。
▪ 1980年6月、LA五輪強化部長に就任。8月、系列会社「谷商株式会社」の常務取締役に出向。11月、日本代表監督代行就任。
▪ 1981年 日本代表監督退任。
▪ 1982年6月、古河電気工業・名古屋支店金属営業部長。
▪ 1984年4月、日本サッカー協会強化部長退任。
▪ 1988年6月、古河産業へ出向、取締役伸銅品部長。8月、JSL総務主事就任。10月、日本サッカー協会理事就任。
▪ 1989年6月2日、JFA・プロリーグ委員会委員長就任。
▪ 1990年8月、プロリーグ検討委員会委員長就任。
▪ 1991年3月、強化委員長、プロリーグ設立準備室長就任。11月、社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)設立、初代チェアマン就任。11月、30年勤続した古河電気工業退社。
▪ 1993年5月、Jリーグ開幕、国立競技場にて開幕宣言。
▪ 1994年5月、日本サッカー協会副会長就任。6月、W杯日本招致委員会実行副委員就任。10月、強化委員長退任。
▪ 1996年7月、2002年W杯開催準備委員会実行副委員長就任。
▪ 1997年12月、2002年FIFAW杯日本組織委員会理事就任。

[匿名さん]

#9972019/01/16 21:34
▪ 2002年7月、Jリーグチェアマン退任。後、日本サッカー協会会長(キャプテン)に就任。
▪ 2008年6月、3期6年務めた日本サッカー協会会長を退任、名誉会長に就任。
▪ 2010年9月、日本サッカーミュージアム館長に就任。任期は2年。
▪ 2011年5月、日本将棋連盟非常勤理事に就任。
▪ 2011年6月、東京都教育委員に就任。(2012年11月22日退任)
▪ 2012年3月、心の東京革命推進協議会会長に就任。
▪ 2012年4月、JFAアカデミー堺スクールマスターに就任。
▪ 2012年6月、日本サッカー協会名誉会長を退任し、同最高顧問に就任。
▪ 2012年11月、東京都教育委員を退任し、東京都知事選に出馬する猪瀬直樹選挙事務所の選対本部長に就任。
▪ 2013年3月、公立大学法人首都大学東京理事長の就任が決まる。任期は、4月1日から4年間[8]。
▪ 2015年1月、国際バスケットボール連盟主導で設立された日本バスケットボール協会改革のためのタスクフォース「JAPAN 2024 TASKFORCE」のチェアマンに就任[9]。
▪ 2015年4月、一般社団法人ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ理事長に就任
▪ 2015年5月、日本バスケットボール協会会長に就任。
▪ 2015年5月、日本トップリーグ連携機構会長に就任。
▪ 2016年6月、日本バスケットボール協会会長を退任し、エグゼクティブアドバイザーに就任。
▪ 2017年3月、公立大学法人首都大学東京理事長を任期満了で退任[13]。
▪ 2018年3月、日本サッカー協会最高顧問を退任し、同相談役に就任

[匿名さん]

#9982019/01/16 22:03
◇WASEDA魂を胸にサッカー日本代表を率いた名将たち◇

世界への道は長く遠く ─ ジョホールバルの歓喜までの軌跡 ─

鈴木重義(故人・大正15年卒/1930年・1936年─ベルリンオリンピック)
ア式蹴球部の創設メンバーの一人である鈴木重義が、初めて日本代表監督に就任したのは1930年。第9回極東大会で中国と引き分けタイトルを分け合っている。ちなみに、第1回FIFAワールドカップ、ウルグアイ大会が開催されたのもこの年の7月である。
鈴木が次に世界の舞台で采配を振るのは、1936年ベルリン五輪でのこと。早稲田主体の連合チームで臨み、強豪スウェーデンを相手に3-2で勝利。その大逆転劇は「ベルリンの奇跡」として語り継がれている。
工藤孝一(故人・昭和8年卒/1942年)
コーチとして参加したベルリン五輪の後代表監督に就任、東亜競技大会などを率いた。2度のア式蹴球部監督時代に指導した選手は、ベルリン五輪、メキシコ五輪、それぞれの大会において中核として活躍している。
高橋英辰(故人・昭和16年卒/1957年・1960-62年)
ロクさんの愛称で親しまれる。1960年の欧州遠征でコーチのデッドマール・クラマーとともに、東京オリンピックに向けた強化に励む。代表監督就任前の1955年は、ア式蹴球部監督として関東大学リーグ2連覇、大学日本一を達成している。

[匿名さん]

#9992019/01/16 22:04
川本泰三(故人・昭和12年卒/1958年)
ベルリン五輪のスウェーデン戦で日本人初得点を挙げ、「ベルリンの奇跡」のきっかけとなった。日本代表として初のワールドカップ予選(スイス大会)に40歳で出場。1958年、東京で開催されたアジア大会で2試合だけ代表監督として指揮を執っている。
川淵三郎(昭和36年卒/1980-81年)
前監督渡辺正の病気退任の後を受けて、強化部長との兼任で就任。W杯スペイン大会予選で25歳以下の選手を中心にチームを編成、思い切った若返りを図る。若手指導者の育成にも力を入れるなどGM的な役割をこなし、後にJリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会会長(キャプテン)を務める。
森孝慈(故人・昭和42年卒/1981-85年)
川淵監督時代の1980年に代表コーチに就任、翌81年より正式に指揮を執る。1982年ニューデリーで行われたアジア大会で、国外の大会で初めて韓国を撃破したが、ロス五輪予選で惨敗、W杯メキシコ大会予選もあと一歩のところで韓国に敗れ本大会出場を果たせなかった。森はこの闘いを通じて「プロ化の必要性」を痛感、各方面へ働きかけた。代表監督のプロ契約が始まるのは森の退任から3年後のことである。(1988年横山健三が日本初のプロ監督)

[匿名さん]

#10002019/01/16 22:04最終レス
このあと、1992年に日本サッカーは初めての外国人監督ハンス・オフトを招聘。ピッチ内外での規律や基本的な戦術など、大きな変貌・成長を遂げていく。1993年にはJリーグがスタート、サッカー人気の高まりとともに、プレーのレベルもアップ。アンダー世代の躍進などもあって、世界への道はすぐそこまでのように感じられた。しかし、ドーハで行われたW杯アメリカ大会最終予選、まさかのロスタイムの失点(ドーハの悲劇)で、またしても世界への道は閉ざされてしまう。
1996年「第17回FIFAワールドカップ(2002年)」が日韓共同開催となることが決定されるが、一度も本大会へ行かないまま開催国枠での出場かという一抹の不安を抱いたまま、1997年フランス大会の予選は始まった。
ホーム・アンド・アウェー方式となった最終予選の最中に監督が更迭されるという極限状況の中、岡田武史が緊急登板、ジョホールバルの歓喜を経て、フランス大会に駒を進めたのである。

(敬称略)

※早稲田大学ア式蹴球部 公式サイト より

[匿名さん]

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