>>8
白村江(ハクソンコウ・ハクスキノエノ)の戦い
中国語名:白江口の戦い
朝鮮語名:白江の戦い
663年(天智2年)8月27日~28日の2日間
朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で百済の復興を目指す目的で、倭(日本)と百済遣民の連合軍VS唐と新羅の連合軍の戦い
結果は唐と新羅連合軍の勝利
遣唐使
倭国(日本)が中国の唐に派遣した使節
日本側の史料では、唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢を執ろうとしたが、唐の認識としては朝貢国として扱い、旧唐書や新唐書の記述では、倭国が唐に派遣した朝貢使とされる
倭国側の目的は、唐の先進的な技術や政治制度や文化、並びに仏教の経典などの収集とされた
遣唐使は、日本から原材料の朝貢品を献上し、唐の皇帝から質量の高い返礼品の工芸品や絹織物などが、回賜として下賜される旨味のある公貿易で、物品は正倉院に残存する
十数年から二十数年の間隔で200年以上に亘り、当時の先進国であった、唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した
朝貢とは、外国人が唐に来朝して朝廷に貢ぎ物を差し上げること
皇帝側は、恩恵として返礼品を持たせて帰国させることで外交秩序を築くもの
日本と中国に関する朝貢の記録は、後漢と倭国の時代から記録が残存する
白村江の戦いが事実であるならば、倭と唐の関係をカムフラージュする目的か後の時代にでっち上げたのかだろう
天智天皇の時代
天智天皇は墓陵からして百済人か