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おしえて


No.3078985
#608
>>607
「弾左衛門屋敷は江戸の被差別民から『新町役所』、関東の被差別民からは『浅草役所』と言われていました。弾左衛門も江戸後期に
は『御役所様』と呼ばれ、この屋敷は政府の所在地として機能した役所だったのです。歴代の弾左衛門の中でこの支配体制を確立した
のが、6代弾左衛門集村(たねむら)です。時代にすると8代将軍吉宗のころで、集村は町奉行大岡越前守と政治的な駆け引きを繰り
返し、弾左衛門体制を築き上げ、全関東で10万人の被差別民を支配する日本一の被差別民の頭に上り詰め、巨万の富を抱えたのです」

弾左衛門の財力について幕府は「10万石の大大名の財力を上回る」と認定し、庶民は江戸の大富豪として「西は越後屋三井八郎衛門、
東は浅草の弾左衛門」と呼んでいたという。しかし、明治維新後、弾左衛門体制は大きく変化を余儀なくされる。


[ 匿名さん ]
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