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No.3566138
#141
濃人渉(満75歳没)


父親はハワイ・カウアイ野球リーグ生みの親でもあり、両親ともカウアイ島に暮らしていたが、妊娠により母親は広島に帰郷。渉は広島で生まれた。

渉の誕生を知った父親がハワイに出生届を出したことで、日本生まれのアメリカ国籍となった。(のち日本国籍に)

1932年、広陵中(現・広陵高)で春の甲子園に出場。夏は広島県決勝で藤村富美男の大正中(現・呉港高)に敗れた。

卒業後、広島専売局(現・JT広島)に入社。

広島専売は、1932年の日米野球に勝利。日本単独チームが初めてアメリカのプロ野球チームに勝ったとして、日米野球史にその名を残している。

1935年、名古屋金鯱軍第1号選手として契約。翌1936年2月9日鳴海球場、巨人との日本初のプロ球団の試合に遊撃手として先発出場した。

1937年7月、軍に召集され中国大陸に上陸、広東の虎門要塞攻略戦に加わり、左半身に砲弾の破片を浴びた。

終戦後は、広島の社会人野球「鯉城園」の選手となり、国民野球にも参加した。

1949年、福岡・筑豊の日鉄二瀬野球部で選手兼任監督に就き、厳しい指導で無名選手を鍛え、強豪チームにした。

古葉竹識、江藤愼一、寺田陽介、吉田勝豊らを育て上げ、「濃人学校」と呼ばれた。

1961年、中日ドラゴンズの一軍監督に就任。巨人より1勝多い72勝をしたにも関わらず引き分けの差で2位に。
翌年も健闘したが、ベテランを放出し、チームの若返りを図ったことで地元ファンの不満を買ったことや、親会社(中日新聞社)の合併騒動などから解任。

1967年、東京オリオンズの一軍監督就任。低迷していたチームをパ・リーグ独走優勝させ、強豪チームにした。

1978年に退団、1979年から地元広島テレビで野球解説者を務めた。1990年10月10日死去。75歳没。


[ 匿名さん ]
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