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No.3566138
#137
鶴岡 一人(満83歳没) 日本野球殿堂

初代ミスターホークスと呼ばれ、監督としては、ホークスの黄金時代を築いた名将。


広島県呉市に生まれ、同学年の「藤村富美男(初代ミスタータイガース)」は隣の小学校で当時から近所のライバルだった。

広島商業に進学、1931年に全国制覇。大学では、法政の花形スター・主将として活躍。そのスター性は、当時は珍しかった女性の野球ファンを増やした。

1939年、南海軍に入団。卓越した統率力から1年目にして「主将」に抜擢され、同年に「本塁打王」を獲得。

1940年、陸軍に召集され、1945年に陸軍知覧航空隊機関砲中隊長に就任、200人の部下を率いた。
この時の経験が彼の指揮官哲学を生んだといわれる。

1946年、復員。選手兼任監督となり、「鶴岡親分」と慕われ、戦後初年度を優勝。選手としても打点王、シーズンMVPを獲得。

鶴岡野球は、世界初の「データ野球」の元祖で、機動力野球の元祖でもある。
また、無名選手を中百舌鳥で鍛えて名選手に育て上げる手腕に長け、「グラウンドにゃゼニが落ちとる。ゼニが欲しけりゃ練習せえ」という名言はつとに有名。

野村克也や大沢啓二らを育て上げ、常勝南海ホークスの時代を築いた。

1965年、同率1位でのプレーオフの最終戦で敗れ、「指揮官が悪いと部隊は全滅する」と言い残し、球団に辞任を申し出た。

監督通算優勝「11回」。

「ホークスを語ることは鶴岡を語ることであり、鶴岡を語ることはホークスを語ることである」といわれる。

広島県呉市のスポーツ会館には「鶴岡一人記念展示室」が設けられており、ゆかりの品が納められている。

日本野球殿堂(1965年)、勲四等旭日小綬章(1991年)、従五位(2000年)


[ 匿名さん ]
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