朝鮮総連の人が何度も家に来ては、「北朝鮮は地上の楽園だから」と北朝鮮行きを勧めてきた。
お母さんは迷っていたが父が決意した。
1963年7月18日、北朝鮮へ着いて船をおりた瞬間、6歳の兄が「日本に帰りたい…」と泣きわめいた。
すると、兄は強引にどこかへ連れて行かれた。
5年たってやっと兄に面会できることになった。母はお弁当を作った。たくさんお弁当を作った。
山深い奥地に進み、コンクリート塀に囲まれた建物にたどり着いた。
1m四方ぐらいの「小さな鉄格子のおり」がたくさん並んでいて、中に人間が入れられていた。四つん這いだった。
おそろしくておそろしくて、私は母親の手をしっかり握った。母親も握りかえしてきた。
父が兄をみつけたが、父は顔を真っ青にしてそこに座り込み、私たちにこっちに来るなと言った。
そして父は党の命令で平壌に行った。
しばらくして収容施設で兄が死んだとの通知が一通来た。
私が卓球で体育大学にすすんだ1995年に、大量の餓死者が出た。地方の道ばたにいっぱい死体が転がっていた。
体育大学の学生が死体の片付けを命令され、人間の死体をまるで物のように穴に埋めていった。
この国は絶対おかしいと思い、私は脱北を決意した。