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プロ野球 神宮を沸かせた東大の名選手たちを振り返る
今年のドラフトで注目を集める大学生左腕といえば宮台康平だ。

“最速150キロのサウスポー”というだけでもドラフト上位候補間違いなしだが、ご存知の通り、宮台はなんと日本の最高学府・東京大に在籍。

野球エリートが集う東京六大学リーグ(以下、六大学リーグ)で5チームを相手に大奮闘。

これまでに4勝を挙げているほか、2015年秋は防御率2.17(リーグ4位)、2016年春は2.05(リーグ4位)の好成績を収めている。

話題性だけではなく、ドラ1もあり得る本格的文武両道スターなのだ。

宮台、そして東大の今年の健闘を祈り、歴代・東大野球部の名選手を振り返ってみたい。

■「六大学」の所以となった黄金バッテリー

1925年秋、六大学リーグ発足当時の東京帝大(現東京大)を支えたのが、東武雄と清水健太郎のバッテリーだった。

六大学リーグがまだ東大を除く五大学だった時代、五大学リーグは新規加盟校として東大に声をかけた。

しかし、現在ほどではなかったものの、当時の東大も他の5大学と比べれば戦力は落ちる。

そこで、1925年春に明治大、慶應義塾大、立教大、早稲田大とのテスト対戦が組まれることとなった。

そこで活躍したのが力投派右腕の東だ。

東の負けるものかと力のこもったピッチングもあり、東大は大奮闘。

立教大に3対1で勝利を収めるなど、勝負になることを見せつけ、見事「六」大学リーグ誕生をたぐり寄せた。

そして東・清水の黄金バッテリーは正規のリーグ戦でも大活躍。

東はリーグ戦60試合で16勝(32敗)を挙げ、1927年の立教大戦では東大野球部史上唯一となるノーヒットノーランも達成している。

■優勝まであと1歩にこぎつけた「両山崎」

1946年春のリーグ戦。

東大が史上最高位となる2位につけたシーズンでチームを牽引したのが、投手・山崎諭と捕手・山崎喜暉の山崎バッテリーだった。

静岡県立掛川中(現掛川西高)時代には甲子園にも出場した山崎諭は東大のエースに君臨。

戦後の物資不足もあり、各校1本勝負、全5試合のリーグ戦で破竹の4連勝を挙げ、最後の慶應義塾大戦は「勝てば優勝」という大一番になった。

試合は0対1で惜敗。

これが東大にとって、最も優勝に近づいた瞬間だった。

山崎諭の通算成績は11勝14敗。

「このシーズンがもし5試合制じゃなかったら優勝も……」と、東大野球部で語り継がれる名投手だった。

山崎諭は大学卒業後、日本興業銀行の野球部でも選手として活躍。

のちに東海大三高(現東海大諏訪高)の校長兼野球部監督となり、1980年には指揮官としてもセンバツ甲子園に出場している。

■名投手続々、神宮を沸かせた東大戦士

1960年代に東大史上最多となるリーグ戦17勝(35敗)を挙げたのが岡村甫だ。

アンダースローで打者を翻弄する変則派の岡村は、絶妙な間合いを駆使して、打たせて取るピッチングで通算防御率2.82の好成績を収めた。

また、1974年に「破格の新人投手」として神宮に現れた江川卓(法政大)に、初めて土をつけたのも実は東京大である。

山本隆樹の粘りの投球や魚住弘人(現日立GE取締役会長)の3安打もあり、江川の投げる法政大に5対0の快勝。

意外な大物食いも東大の見どころだ。

1982年の新人戦で歴代最高の準優勝の原動力となったのは、元NHKアナウンサーで現在、NHK本部報道局で政治部記者を務める大越健介だ。

高校時代は新潟高で3年春に県準優勝を果たした実績を誇り、東大在学時は50試合で8勝27敗、防御率3.52の好成績。

アンダースローから繰り出す熱血投球で1983年には日米大学野球の日本代表に選出された文武両道エリートだ。

新治伸治、井手峻、小林至、遠藤良平、松家卓弘は東大からプロへと進んだスーパー野球人。

いずれも東大時代にはエース級の活躍をしたピッチャーで、新治伸治は大洋(1965〜1968年在籍)で9勝を挙げ、井手峻は中日(1967〜1976年在籍)で外野手に転向し、東大出身選手としてNPB初の本塁打も記録している。

そのほか、1995年春のリーグ戦で首位打者になり、「東大のイチロー」と呼ばれた間宮敦など、野手でも好プレーヤーがたびたび出現している。

全体的なチーム力の弱さで判断されがちな東大の野球部だが、これからも野球エリートたちに立ち向かう稀代の好選手の出現に期待したい。
【日時】2017年01月18日 17:05
【提供】デイリーニュースオンライン

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