鉄剣は出雲の須佐之男が日本各地を訪問した時、常に持ち歩いていたので、ステータスシンボルとして地方の豪族が欲しがったから全国に普及した。
[匿名さん]
銅鏡は太陽信仰の祭祀の時に使われた。日光を鏡に当てて反射させていた。
[匿名さん]
後漢鏡は凸面鏡ですから光を拡散
しますよね。
太陽の下で凸面鏡を掲げれば全て
の見物人は鏡に映った太陽の光を
見ることになる。
平面鏡や凹面鏡では、一部の人に
しか光は向かわない。
[お犬]
邪馬台国とべつにあったというもうひとつの倭人の国ってどこになるの?
[匿名さん]
医学的には、ご飯・味噌汁・納豆・漬物が健康にいいらしい。卑弥呼は日本食て長生きしたんだろ?
[匿名さん]
『三國志』の別の箇所における
「齢すでに長大」という用法を検討
したところ、概ね三十代を表現して
いる。
という話を、どこかで読んだ記憶が
あります。が、『三國志』のどこに
「齢すでに長大」という表現がある
のか?実例を知りません。
[お犬]
佐原真先生の本だったか?
森浩一先生の本だったか?
記憶が曖昧ですが、骨を分析すると
何をどのくらい食べていたのか?
概ねわかるんだそうです。
弥生時代の倭人は栄養バランスの
良い豊かな食生活をしていた。
しかし時代と共に日本人の食生活は
貧しくなり、江戸時代の庶民は飢餓
の一歩手前になったんだそうです。
近藤義郎先生の『農民と耳飾り』
というエッセイも興味深い。
古墳時代の「ナンとか千塚」などの
庶民の墓からは、しばしば耳飾りが
発掘される。農民もお洒落を楽しん
でいたらしい。が、聖徳太子の時代
を迎えると無くなってしまう。
国家というものが、誰のために何の
ために作られたのか?
考えちゃいますよね。
[お犬]
130〜170年は雨が少なく水不足で稲作農家にとり不利。そういう中で卑弥呼(百襲姫)が倭国大乱の仲裁して女王に担ぎ上げられ、魏に使者を派遣し、二十四節気の農法を伝授してもらった。纒向石塚古墳と伊都国・平原方形周溝墓は同時期に建てられ、纒向石塚古墳からは2月4日頃に三輪山の頂上の方角で朝日が見れる。平原方形周溝墓からは2月4日頃に日向峠の方角で朝日が見れる。これらは偶然の産物とは考え難い。
[匿名さん]
一緒に強烈な苦労乗り越えてきたのに、自分をよく分かってくれてた、お互い足らない所が補えていけるかと
[匿名さん]
ただ仰る通り、江戸時代は災害や悪天候が続き、食料不足でした。渡来系弥生人は家畜を持ち込み、犬肉まで食ってましたから。
[匿名さん]
縄文前期の曽畑式土器が西九州・沖縄・釜山に分布して、福岡県では見つからない。
福岡と熊本は縄文前期から争ってたようです。
[匿名さん]
神話によれば、弥生中期の北陸は、能登半島と富山で争っていたらしく、能登半島も江南人に征服されてたのかもしれない。
[匿名さん]
古代中国では持ち出し禁止だった養蚕技術をこっそり日本に持ち込んだのは徐福
[匿名さん]
金印は箸墓古墳内を捜索すれば、見つかるかもしれない。盗掘されてるかもしれない。
[匿名さん]
石川県は海運業や製鉄事業で栄えていた。
福井平野は菊池盆地と並ぶ稲作適地
景行天皇が近江に遷都したのも、北陸との関係重視の表れと言える。
[匿名さん]
宗像地域は紀元前後にいち早く瀬戸内産土器や山陰産土器が流入してる。
この時期を境に大陸文化の受け入れ窓口が伊都国の傀儡王権に一本化して、商業的利権が徐々に本州側へと移って行ってるのは否定しようが無い。
[匿名さん]
新羅の脱解尼師今は、元丹波皇子
新羅側は大和朝廷との関係改善を望んで3世紀初頭、国王に選んだ。
[匿名さん]
見つかってない遺跡もあるでしょうから、あくまで概算ですが。
[匿名さん]
中国は韓国や沖縄〜九州まで歴史的に自国領だと仄めかしてる。邪馬台国九州説は中国共産党の歴史歪曲プロパガンダに利用されてる。
[匿名さん]
方形周溝墓の広域化に伴って、大阪湾岸の人達が全国各地に移住してますから、畿内の弥生遺跡が貧弱なのは、全国制覇の裏返しと言えますね。
[匿名さん]
AD115年頃、埼玉県の人出不足を補うため、懿徳天皇の要請で、出雲から農民が大量移住させられてる。スサノオを主祭神とする氷川神社系はその時代の名残り。古今和歌集序聞書三流抄にそれらしき記述有り。
[匿名さん]
日本の方がはるかに進んだ文化文明を認めようとしなかった中国が大和国の日巫女を邪馬台国の卑弥呼と見下した当て字にした
[匿名さん]
北部九州に水稲栽培をもたらした長江人と、近畿にアワ・キビ栽培をもたらしたアルタイ系の両方が争っていた模様。
縄文人は野生の大豆・小豆を育てていた。
[匿名さん]
日本に文化が産まれた時代の最重要人物である卑弥呼
と認知している
未だに正式な場所すら確定していないのに金印、金龍、鏡等を求めるのは順番違い
昔より科学等が進歩して歴史等も訂正中の今現在
これだけ言えるのは
真実は一つ!
四面楚歌に成らずに学習しましょう
人間は一生学習です
[匿名さん]
九州には肝心の王宮跡が見つからない
甕棺墓や北九州系土器が衰退してる
[匿名さん]
弥生後期は各地域に独自の文化が鼻開いた時代で、どうしても畿内説有利になってしまいますね
[匿名さん]
小学生のときに選ばれしみなこに学研より金印を贈られました。そう、吾こそ卑弥呼の生まれ変わりなんです!
[むちむちぼいん姫]
大型古墳が集中してる地域(宮崎・筑前・山陽・近畿)と神武東征ルートがだいたい一致してる。
これはおそらく信仰の力でもって労働力を確保したんだろうと推測します。
[匿名さん]
古墳には宗教施設と導水施設が備わってる事から、ヤマト王権による政治連合体制を各地の有力豪族たちが自発的に受け入れたと見られます。
[匿名さん]