ちょっと何言ってるか分かんない。旧野井倉村民が安楽村に集団で農作物や家畜を強奪していたのは記録があるようだけど?w
[匿名さん]
志布志港は古くは志布志津と呼ばれ、志布志湾に注ぐ前川の河口がそのまま港として利用されていた。文献に最初に登場するのは1316年(正和5年)である。倭寇の拠点の一つとして利用されていたと考えられている。
志布志は、人攫い、放火、人身売買、略奪をして、有明人は。野菜泥棒だったてことでいいんじゃないか?
[匿名さん]
天正十四年(1586年)『フロイス日本史』は島津氏の豊後侵攻の乱妨取りで拉致された領民の一部が肥後に売られていた惨状を記録している『上井覚兼日記』天正14年7月12日条によると「路次すがら、疵を負った人に会った。そのほか濫妨人などが女・子供を数十人引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。」と同様の記録を残している
多聞院日記によると拉致された朝鮮人の女性・子供は略奪品と一緒に、対馬、壱岐を経て、名護屋に送られ奴隷供給を飽和させた。薩摩の武将・大島忠泰の角右衛門という部下は朝鮮人奴隷を国許に「お土産」として送ったと書状に書いている
志布志の前川周辺でいろいろ行われていた模様
[匿名さん]
振られた女が志布志の奴だったとかつまらん恨みだろw
[匿名さん]
奴隷貿易
前期倭寇は朝鮮半島、山東・遼東半島での人狩りで捕らえた人々を手元において奴婢として使役するか、壱岐、対馬、北部九州で奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった。
後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行い、中国東南部の江南、淅江、福建などを襲撃し住人を拉致、捕らえられたものは対馬、松浦、博多、薩摩、大隅などの九州地方で奴隷として売却された。
1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにあった。マニラの戦い (1574)、カガヤンの戦い (1582)で影響力は低下したが、倭寇の貿易ネットワークはフィリピン北部に及ぶ大規模なものだった。
戦国時代の乱妨取りや文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大、東南アジアに拠点を拡張し密貿易を行う後期倭寇によりアジア各地で売却された奴隷の一部はポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこから東南アジア・インドに送られたものもいたという。1570年までに薩摩に来航したポルトガル船は合計18隻、倭寇のジャンク船を含めればそれ以上の数となる
大隅の奴隷貿易の中心は志布志
[匿名さん]
ちょっと小耳に挟んだ事を知ったかぶりして自慢したいミジンコ脳味噌君。
志布志の人間が馬鹿みたいじゃないかやめろよwww
[匿名さん]
野菜泥棒のやつあげとけよ。倭冦と記述は、本当だからむきになるなよ
[匿名さん]