1000
2020/12/23 13:31
爆サイ.com 南東北版

🛁 山形風俗・お店





NO.9017738

おばさんの店 山形店⑤
合計:
報告 閲覧数 1335 レス数 1000

#8512020/12/20 13:04
新春シャンソンショー

[匿名さん]

#8522020/12/20 13:05
あざす

[匿名さん]

#8532020/12/20 13:06
あざす

[匿名さん]

#8542020/12/20 13:06
現在のPFPランキングでもクロフォード、スペンス、ウシク、ロマチェンコ、パッキャオと入ってるとこを見ると、やはりサウスポーは有利な

[匿名さん]

#8552020/12/20 13:10
領収書

[匿名さん]

#8562020/12/20 14:06
このスレに、馬鹿がちょくちょく現れる。
イミフでウザイ

[匿名さん]

#8572020/12/20 18:21
山形駅のレンタルルームリラックスは使えませんと言われた!
前は使えたのに、、、

[匿名さん]

#8582020/12/20 21:58
大東亜戦争における南方作戦の一環として、イギリスに対するマレー作戦に次いで実施された。

[匿名さん]

#8592020/12/20 21:59
戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失し、開戦初頭にアメリカ軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという目的を達成した。

[匿名さん]

#8602020/12/20 21:59
オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年(明治41年)に設置され、以来日本海軍にとって脅威となっていた。

[匿名さん]

#8612020/12/20 22:00
真珠湾の海軍基地はオアフ島要塞と呼ばれた要塞群で守られており、戦艦を圧倒できる16インチ砲を備えた砲台もあり、水上艦船での接近は不可能だった。上陸可能な死角も存在しなかったため、艦砲射撃や上陸作戦には成功の見込みはなかった。また1910年(明治43年)11月、山本英輔海軍少佐が斎藤実海軍大臣に真珠湾の港湾部図面を提出している[4]。

日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。だが1939年(昭和14年)に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六海軍大将は異なる構想を持っていた。アメリカに長期滞在経験を持ち、海軍軍政・航空畑を歩んできた山本は対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えており、1928年(昭和3年)の時点でハワイ攻撃を提唱していた。

[匿名さん]

#8622020/12/20 22:01
1941年(昭和16年)1月14日頃、連合艦隊司令長官の山本五十六が第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎少将に手紙を送り、1月26日 - 27日頃に戦艦長門(連合艦隊旗艦)を訪ねた大西は、山本からハワイ奇襲作戦の立案を依頼された[5]。山本から大西への手紙の要旨は

「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の已むなきに至るかもしれない。日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦初頭、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。」

[匿名さん]

#8632020/12/20 22:01
鹿屋の第十一航空艦隊司令部に戻った大西は、参謀の前田孝成大佐に詳細を伏せて真珠湾での雷撃攻撃について相談したが、真珠湾は水深が浅いために不可能という回答だった。大西は第一航空戦隊参謀の源田実中佐を2月中旬に鹿屋に呼び、同様の質問をした。源田は、雷撃は専門ではないから分かりかねるが、研究があれば困難でも不可能ではないと回答した。大西は源田に作戦計画案を早急に作るように依頼した。源田は計画案を2週間ほどで仕上げて大西に提出、それに大西が手を加え、3月初旬頃、山本に提出した[7]。源田案は、出発基地を小笠原諸島の父島か、北海道東部の厚岸として、空母部隊を真珠湾から200海里まで近づけて往復攻撃を行う二案であった。一つ目は雷撃可能な時、艦攻は全力雷撃を行い、艦爆で共同攻撃する案、二つ目は雷撃不可能な時、艦攻を降ろして全て艦爆にする案である。

[匿名さん]

#8642020/12/20 22:02
鹿屋の第十一航空艦隊司令部に戻った大西は、参謀の前田孝成大佐に詳細を伏せて真珠湾での雷撃攻撃について相談したが、真珠湾は水深が浅いために不可能という回答だった。大西は第一航空戦隊参謀の源田実中佐を2月中旬に鹿屋に呼び、同様の質問をした。源田は、雷撃は専門ではないから分かりかねるが、研究があれば困難でも不可能ではないと回答した。大西は源田に作戦計画案を早急に作るように依頼した。源田は計画案を2週間ほどで仕上げて大西に提出、それに大西が手を加え、3月初旬頃、山本に提出した[7]。源田案は、出発基地を小笠原諸島の父島か、北海道東部の厚岸として、空母部隊を真珠湾から200海里まで近づけて往復攻撃を行う二案であった。一つ目は雷撃可能な時、艦攻は全力雷撃を行い、艦爆で共同攻撃する案、二つ目は雷撃不可能な時、艦攻を降ろして全て艦爆にする案である。

[匿名さん]

#8652020/12/20 22:02
実施部隊である第一航空艦隊(4月10日に編制)に作戦構想が伝えられると、第一航空艦隊司令長官の南雲忠一中将は、先任参謀の大石保中佐、航空甲参謀の源田にハワイ奇襲作戦実行計画の完成を命じた[13]。企図秘匿のために航海条件の悪い北方航路を選んだため、予定通り洋上燃料補給ができない場合を考慮して艦艇の航続力が問題となったが、軍務局の暗黙の了解を得て、第一航空艦隊司令長官の権限で、燃料庫以外にもドラム缶で各艦の強度が許す限りの燃料を搭載することで解決した[14]。

使用する航空母艦は当初第一、第二航空戦隊の4隻を胸算していたが、9月1日に編成された第五航空戦隊は翔鶴(8月8日就役)・瑞鶴(9月25日就役)の新鋭大型空母2隻を擁しており、連合艦隊ではハワイ空襲の成功を確実にすること、山本の抱く作戦思想に基づく作戦目的をより十分に達成することから、搭乗員や器材の準備が間に合うなら五航戦も使用したいと考えた。山本はかねがね日露戦争劈頭の旅順港外の敵艦隊の夜襲失敗の一因は兵力不足によると述懐していた。しかし、軍令部は4隻案で考えていた[15]。10月9日 - 13日に連合艦隊司令部で研究会が行われた。軍令部航空部員の三代辰吉はこの研究会に出席するために出張してきたが、研究会が終わった後に連合艦隊司令部に着き、6隻使用は到底望みがたい旨を伝えて東京に帰った[16]。

軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに味方正規空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。

大西と第一航空艦隊参謀長の草鹿龍之介少将は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得のために、アメリカの植民地のフィリピン方面に集中するべきとしてハワイ奇襲作戦に反対したが、山本は両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話して説得した[13]。

[匿名さん]

#8662020/12/20 22:03
海軍省軍務局や作戦部は大反対であった。大西が9月末に開かれた航空艦隊首脳部の打ち合わせの席上で「日米戦では武力で米国を屈服させることは不可能である。……対米戦に突入する以上、当然戦争の早期終結を考えねばならず、それにはある一点で妥協をする必要がある。そのためには、フィリピンをやってもどこをやっても構わないが、ハワイ攻撃のようなアメリカを強く刺激する作戦だけは避けるべきだ」と述べたように、これらの反対論は、攻撃自体の危険性もさることながら、米国世論の激変を危惧したものであった[17]。

10月19日、連合艦隊先任参謀の黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長の伊藤整一中将に言い、これに驚いた軍令部総長の永野修身大将は作戦実施を認めた。永野総長は戦後、東京裁判の検察尋問に対し、「私はもともと海軍軍令部案に賛成していたのです。……海軍作戦部は南太平洋でアメリカ軍を何年も待つことに計画を使うことに賛同していました」「私は海軍省軍務局の方が理にかなっていると思ったのでこちらの計画に賛成だったのです。しかし、艦隊の指揮者が辞任するのは反対でした。……一番良いのは承認だと思ったのです」と証言した。

また、草鹿によれば、山本は自らを連合艦隊司令長官から機動部隊司令長官に格下げして陣頭指揮に当たり、連合艦隊司令長官には米内光政を据えると言う腹案も抱いていたという[18]。

援護作戦として駆逐艦二隻によるミッドウェー島砲撃が計画された。

[匿名さん]

#8672020/12/20 22:08
真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池・鹿屋・笠之原・出水・串木野・加世田・知覧・指宿・垂水・郡山・七尾島、志布志湾の各地で行われた。従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていたが、第一航空艦隊の航空訓練は機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた[19]。また、この作戦のため空中指揮官の淵田美津雄中佐と雷撃専門家の村田重治少佐が指名されて一航艦に異動した[20]。海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とするため、空母の集中配備が採用された。敵から発見された際、一挙に攻撃を受ける弱点があるが、集中配備で防空戦闘機を多く配備できる利点もあった[21]。

当初、真珠湾の北200海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ300海里圏外に脱出する案だったが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田から反対があり、フォード北230海里で一次攻撃、南下して200海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された[22]。

技術的な課題は、第1に水深12メートルという浅瀬でどうやって魚雷が海底に突き刺さらないようにするか、第2に戦艦の装甲にどうやって爆弾を貫通させるか、の2点であった。

詳細は「九一式魚雷」を参照
第1の魚雷に対しては、魚雷そのものを航空技術廠が改良し、航空隊は超低空飛行が行えるようにして、最低60メートルの水深が必要だったものを10メートル以下に引き下げることに成功した。九一式魚雷は、ジャイロと安定翼(ロール・ラダー)を用いて空中姿勢を安定させ、水平舵を上げ舵にして沈降を抑えることに成功した。鴨池航空隊は、飛行訓練によって超低空で投下できるようになった。実際の攻撃では、投下された魚雷40本のうち射点沈下が認められたのは1本だけであった。

[匿名さん]

#8682020/12/20 22:09
真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池・鹿屋・笠之原・出水・串木野・加世田・知覧・指宿・垂水・郡山・七尾島、志布志湾の各地で行われた。従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていたが、第一航空艦隊の航空訓練は機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた[19]。また、この作戦のため空中指揮官の淵田美津雄中佐と雷撃専門家の村田重治少佐が指名されて一航艦に異動した[20]。海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とするため、空母の集中配備が採用された。敵から発見された際、一挙に攻撃を受ける弱点があるが、集中配備で防空戦闘機を多く配備できる利点もあった[21]。

当初、真珠湾の北200海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ300海里圏外に脱出する案だったが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田から反対があり、フォード北230海里で一次攻撃、南下して200海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された[22]。

技術的な課題は、第1に水深12メートルという浅瀬でどうやって魚雷が海底に突き刺さらないようにするか、第2に戦艦の装甲にどうやって爆弾を貫通させるか、の2点であった。

詳細は「九一式魚雷」を参照
第1の魚雷に対しては、魚雷そのものを航空技術廠が改良し、航空隊は超低空飛行が行えるようにして、最低60メートルの水深が必要だったものを10メートル以下に引き下げることに成功した。九一式魚雷は、ジャイロと安定翼(ロール・ラダー)を用いて空中姿勢を安定させ、水平舵を上げ舵にして沈降を抑えることに成功した。鴨池航空隊は、飛行訓練によって超低空で投下できるようになった。実際の攻撃では、投下された魚雷40本のうち射点沈下が認められたのは1本だけであった。

[匿名さん]

#8692020/12/20 22:09
真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池・鹿屋・笠之原・出水・串木野・加世田・知覧・指宿・垂水・郡山・七尾島、志布志湾の各地で行われた。従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていたが、第一航空艦隊の航空訓練は機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた[19]。また、この作戦のため空中指揮官の淵田美津雄中佐と雷撃専門家の村田重治少佐が指名されて一航艦に異動した[20]。海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とするため、空母の集中配備が採用された。敵から発見された際、一挙に攻撃を受ける弱点があるが、集中配備で防空戦闘機を多く配備できる利点もあった[21]。

当初、真珠湾の北200海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ300海里圏外に脱出する案だったが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田から反対があり、フォード北230海里で一次攻撃、南下して200海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された[22]。

技術的な課題は、第1に水深12メートルという浅瀬でどうやって魚雷が海底に突き刺さらないようにするか、第2に戦艦の装甲にどうやって爆弾を貫通させるか、の2点であった。

詳細は「九一式魚雷」を参照
第1の魚雷に対しては、魚雷そのものを航空技術廠が改良し、航空隊は超低空飛行が行えるようにして、最低60メートルの水深が必要だったものを10メートル以下に引き下げることに成功した。九一式魚雷は、ジャイロと安定翼(ロール・ラダー)を用いて空中姿勢を安定させ、水平舵を上げ舵にして沈降を抑えることに成功した。鴨池航空隊は、飛行訓練によって超低空で投下できるようになった。実際の攻撃では、投下された魚雷40本のうち射点沈下が認められたのは1本だけであった。

[匿名さん]

#8702020/12/20 22:10
1898年(明治31年)7月、アメリカはハワイ併合を行うと[27]、順次海軍基地を整備していき、太平洋上における戦略上の軍事拠点として、またフィリピンへの中継拠点として、その存在意義が高まっていった。1940年(昭和15年)5月には、日本の南方政策を牽制するためサンディエゴに駐留していた太平洋艦隊の主力が、ハワイの真珠湾に駐留するようになった[28]。当時のハワイはアメリカが巨費を投じて構築した要塞であり、太平洋のジブラルタルと呼ばれ、難攻不落と思われていた。軍事評論家フレッチア・ブラッドは「真珠湾はおそらく、世界中で最良の海軍基地であり、これほど最良の位置にあり、最高に防御され、また最高に補給された基地は他のどこにもない。」と評価し[29]、アメリカ極東陸軍司令官のダグラス・マッカーサー少将も「真珠湾はアメリカが太平洋にもっていた最も強力な軍事基地だった。基地の防衛陣は高射砲陣地、アメリカの持つ最も優秀な航空機、それに高度に防備された飛行場と警報設備を備え、さらにアメリカ太平洋艦隊に守られ、当時私がもっていた不完全な陸海空の間に合わせ部隊に比べれば、お話しにならないほど強力なものだった。」と分析していた[30]。アメリカの新聞が「日本は我々を攻撃することはできない。それは軍事的に不可能なことである。ハワイの基地でさえ日本の艦隊の有効な攻撃力の圏外にある。」と報じ、ジャーナリストのクラーク・ビーチが「日本の真珠湾に対する攻撃は、もっともありうべからざることで ある。成功のチャンスは百万にひとつしかない。」と寄稿したように、アメリカの国民や軍の多くの人々は“金城鉄壁の真珠湾”という真珠湾の触れ込みを信じ切っており、日本軍の攻撃への警戒が非常に希薄であった[31]。

[匿名さん]

#8712020/12/20 22:10
しかし、ハワイへの空からの攻撃の可能性については、かなり前から指摘され続けており、古くは1920年代に航空主兵論の熱心な論者ウィリアム・ミッチェルが、ハワイ・オアフ島の防空体制の不備を指摘する意見を公表しており[32]、また1932年(昭和7年)にはアジア艦隊(英語版)司令長官のハリー・E・ヤーネル大将が、日本が宣戦布告前に空母でハワイもしくはアメリカ西海岸を攻撃する可能性を指摘し、2月7日日曜日、実際に就役間もない空母レキシントンとサラトガと4隻の駆逐艦を使用し、152機の攻撃機がオアフ島沖96kmの海上から防御体制のできていない真珠湾を早暁に奇襲する模擬訓練を行ったところ、理論上湾内に碇泊するすべての艦船を沈め、地上の航空機もすべて破壊する計算で、完全に成功している。この演習の模様はホノルルの日本領事館から本国に報告されていた[33][34][35]。第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍の快進撃が続いていた1940年(昭和15年)になると、太平洋艦隊司令長官のジェームズ・リチャードソン大将はフランクリン・ルーズベルト大統領に太平洋艦隊主力を真珠湾に置いていることの危険性について進言すると共に、日本軍の奇襲に備え洋上哨戒(しょうかい)を強化したが、ルーズベルトとは意見が合わず解任され、1941年(昭和16年)2月にはハズバンド・キンメル大将が太平洋艦隊司令長官に就任している[36]

[匿名さん]

#8722020/12/20 22:11
キンメルも前任のリチャードソンと同様に、オアフ島の危険性については十分認識しており、太平洋艦隊司令長官になると直ちに「開戦の布告に先立って、真珠湾の艦船に攻撃があるかも知れない」と極秘指令を出し艦隊に警戒をよびかけたが、結局は潜水艦による攻撃に備えての駆逐艦の哨戒強化の指示に止まった。昼夜を問わず360度の警戒を行うだけの偵察機を有さなかったことを理由に、初めから航空哨戒についての努力を放棄していたのである[37]。 1941年(昭和16年)8月にはハワイ陸軍航空隊指揮官、フレデリック・L・マーチン少将と第5爆撃航空隊指揮官ウィリアム・C・ファーシング大佐と数名のスタッフによる作戦研究で「日本海軍は6隻の空母を使用し、北方から攻撃をかけてくる。オアフ島に対する攻撃は早朝が敵にとってもっとも有利であろう。」という、ほぼ完全に日本軍の作戦を予見した研究結果が出て、キンメルや陸軍省にも報告されているが、その報告により航空哨戒が強化されることはなかった[38]。 この頃のアメリカは大西洋の戦局に大きな関心を向けており、日本軍の真珠湾での攻撃の可能性については十分に認識していたが、それを現実的な脅威とは考えていなかった。キンメルは海軍作戦部長のハロルド・スターク大将に「大西洋の問題を軽く見るわけではないが、ここから見ていると、太平洋は依然として世界情勢の一部である。」と愚痴めいた書面を贈ったのに対し、スタークは「私自身はジャップがやってくるとは思わない」と答えている[39]。

[匿名さん]

#8732020/12/20 22:11
それは、ハワイ方面陸軍司令官のウォルター・ショート中将の陸軍も同様で、ハワイには二個師団の防衛部隊が配置されていたが、常に補給と訓練の問題に悩まされていた。強力な戦力となる「空の要塞」B-17はアメリカ本土の工場で製造されると、オアフ島に空輸されて武装その他の最終装備が施されるが、それからB-17はハワイにほとんどとどまることなく、フィリピンに送られていた。陸軍の誰もがハワイでB-17が必要になるとは思っていなかったからである[40]。ハワイの陸海軍の総指揮官であるキンメルとショートは一週間おきの日曜日に一緒にゴルフを楽しむなど個人的には懇意であったが[41]、陸海軍の連携や協力は無いに等しく、ショートは海軍が航空哨戒をしていると思い込んでおり、陸軍は哨戒活動をほとんどしていなかった[42]。 こうした、陸海軍の警戒態勢の不備、大西洋重視、日本軍に対する過小評価がアメリカ軍の油断を生じさせていた。

1941年(昭和16年)11月27日午前9時にホノルルにて、キンメルとショートを筆頭とするハワイ駐屯のアメリカ陸海軍の幕僚が、ウェーク島とミッドウェイ島への増援について協議していた。両島に陸軍航空隊の戦闘機を増援として送ることの是非について話し合われていたが、両島ともに荷揚げ桟橋の設備がなかったため、陸軍機を空母に搭載して、両島に到着したら空母から発艦して飛行場に着陸させる必要があった。陸軍機は発艦はできても着艦はできなかったため、両島へ送った陸軍機はハワイの防衛に再び利用できない可能性があった。

[匿名さん]

#8742020/12/20 22:12
会議が終わった後にキンメルとショートはそれぞれ陸海軍省から日米交渉が破局に至ったことの連絡と、日本軍が近日中に戦争行為を起こす可能性が高いので警戒を怠らないようにとの指示があったが、キンメルに届いた警報については、日本軍の侵略的行動に対する警戒の呼びかけの後段に、日本軍が上陸作戦を行う可能性が高い地域として、フィリピン、タイ、マレー半島、ボルネオが挙げられていたため、深刻には受け取られず、哨戒が取り立てて強化されることもなかった。そのため予定通りウェーク島とミッドウェイ島には増援を送ることとし、翌28日に、ウェーク島にはウィリアム・ハルゼー・ジュニア中将率いる第8任務部隊の空母エンタープライズと3隻の重巡洋艦と駆逐艦隊を派遣することとした。キンメルはハルゼーに「戦艦を連れていくかね?」と尋ねるとハルゼーは「高速で行かなければいけないときに足手まといになるからいりません」と拒否している。逆にハルゼーが「日本軍と行き会った場合はどうするんです?」とキンメルに指示を仰ぐと、キンメルは「常識でやるんだよ」と暗に攻撃を許可した。それを聞いたハルゼーは「射程距離に入ってきたらただちに撃沈します。」と宣言している。ただし、前日の会議の陸軍の意見を尊重し、陸軍の戦闘機は搭載せず、海兵隊の兵士と戦闘機を搭載し出港した[44]。

11月30日、ハワイ島ヒロの新聞『ヒロ・トリビューン・ヘラルド』はその一面で[45]、「日本、来週末にも攻撃の可能性」(JAPAN MAY STRIKE OVER WEEKEND)と報じた。

[匿名さん]

#8752020/12/20 22:12
また、オアフ島の有力紙『ホノルル・アドバタイザー』も同様の見出しで報じた。その上、ルーズベルト政権は、議会にも国民にも、日本に対して疑似最後通牒であるハル・ノートを提示したことを隠し、外面的には日米交渉は続いていると説明していたにもかかわらず、『ヒロ・トリビューン・ヘラルド』には、「日米交渉の失敗で日本(東京)は自暴自棄になっている」(Tokyo Desperate As Talks Collapse)という小見出しがあった。歴史学者のスチーブン・スニエゴスキによると、コーデル・ハル国務長官が親しい新聞記者のジョセフ・リーブに、「ルーズベルト大統領は、日本が数日のうちに真珠湾を攻撃することを知っている」と漏らした。ルーズベルト大統領は「そのまま放っておく。そうすればこの国が参戦できる」という考えだったが、このやり方に反発したハル国務長官は、絶対に情報源を明かさないことを条件にして、内容をメディアに明かすことにし、真珠湾奇襲計画の内容を含んだ解読済みの日本暗号文書を、リーブに渡した。リーブは当該文書をユナイテッド・プレスに持ち込んだが、同社はそれをニュース配信することを拒んだ。それでも、その内容の一部を同社の外信として配信することができ、それをハワイの2紙が記事にした[46]。

12月2日には、無線機で日本海軍の暗号無線を傍受していたハイポ基地が日本軍の空母のコールサインが消えたことに気がつき、情報将校エドウィン・レイトン少佐がキンメルにその事を報告したが、キンメルは「誰も気づかないうちに、連中がダイヤモンドヘッドまで来ているっていうのかね?」と言ってまともに取り合わなかった[47]。 さらに、12月4日に空母レキシントンが陸軍機を満載し、重巡洋艦3隻と駆逐艦を護衛に引き連れてミッドウェイに向けて真珠湾を出港し、日本軍攻撃前に真珠湾から全ての空母がいなくなってしまった[48]。

[匿名さん]

#8762020/12/20 22:13
12月6日、パープル暗号により、東京からワシントンの日本大使館に『帝国政府ノ対米通牒覚書』が送信された。パープル暗号はすでにアメリカ側に解読されており、その電信を傍受したアメリカ陸軍情報部は、その日の夕方にルーズベルト大統領に翻訳文を提出したが、それを読み終わるとルーズベルトは「これは戦争を意味している」と叫んだ。しかしこの覚書にはハワイを攻撃するとか、具体的な攻撃計画についてのヒントはまったくなかった。しかし、午後1時に覚書をハル国務長官に手渡した後にすべての暗号機を破壊せよとの指令も付されており、攻撃時間を連想されるものであったが、その(東部標準時)午後1時が、ハワイ・アリューシャン標準時7時30分であることを思いつく者はいなかった[49]。この情報を陸軍情報部から知らされた海軍は、海軍情報部長セオドア・S・ウィルキンスン大佐がスターク作戦部長にすぐにでもキンメルに知らせるべきと進言したが、スタークは「ハワイの防衛は陸軍の責任であるため、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル大将からハワイに連絡するべき」と考え、マーシャルに要請した。マーシャルもこの覚書が開戦を意味すると考えて、ハワイとマニラに警報を送ることとしたが、手続きに時間がかかった上に、ハワイの陸軍無線機が故障しており、商用チャンネルを通じてこの警報がショートに届いたのは、攻撃が終わった数時間後でそれも自転車にのった少年から配達された[50]

[匿名さん]

#8772020/12/20 22:13
12月6日の夜には「日本軍の2個船団をカンボジア沖で発見した」というイギリス軍からもたらされた情報がキンメルとショートにも届いた。キンメルは太平洋艦隊幕僚と、真珠湾にある艦船をどうするかについて協議したが、空母を全て出港させてしまったため、艦隊を空母の援護なしで外洋に出すのは危険という意見で一致したのと、週末に多くの艦船を出港させると市民に不安を抱かせると判断し、艦隊をそのまま在港させることとした。しかし、これは真珠湾の攻撃を予測していたのではなく、あくまでもワシントン当局の警告通り、日本軍が攻撃してくるのは東南アジアだと考えていた[51]。ショートにはさらにFBIが盗聴したホノルル東京間の新聞特派員の国際電話通話記録の情報が報告された。その通話記録では、特派員が東京とオアフ島上空の天候などを頻繁に話し合うなど、航空攻撃を示唆するような情報であったが、ショートも幕僚もこの情報の重要性に気が付くことはなかった。真珠湾攻撃前夜となったこの夜は、キンメルもショートももたらされる重要情報に気を配ることもなく、どちらもパーティに出席し飲酒している[52]。ショートは帰路の車中で妻に真珠湾の夜景を見ながら「何とも美しい眺めだね」「でも恰好の攻撃目標になりそうだ」と話しかけたが、奇しくもこの予言はこの約11時間後に実現することとなってしまった[53]。

[匿名さん]

#8782020/12/20 22:15
ニイタカヤマノボレ
1941年(昭和16年)11月1日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対英米蘭戦争の準備を本格化した。

11月13日、岩国航空基地で連合艦隊(南遣艦隊を除く)の最後の打ち合わせが行われた。司令長官の山本五十六大将は「全軍将兵は本職と生死をともにせよ」と訓示するとともに、日米交渉が妥結した場合は出動部隊に直ちに帰投するよう命令した。これに二、三の指揮官が不服を唱えたが、山本は「百年兵を養うは、ただ平和を護るためである。もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら、ただいまから出勤を禁ずる。即刻辞表を出せ」と厳しく言ったという[54]。


海軍機を満載して航行する「蒼龍」

「翔鶴」から発艦する九七式艦上攻撃機。

魚雷攻撃を受けるアメリカ戦艦群、日本軍機から撮影

ショー (DD-373)の爆発炎上

雷撃を受け着底する戦艦カリフォルニア

手前が爆沈したアリゾナ、その奥にテネシーとウェストバージニアが見える
11月17日、山本は佐伯湾にあった赤城を訪れ、機動部隊将兵を激励するとともに、「この作戦の成否は、その後のわがすべての作戦の運命を決する」とハワイ作戦の重要性を強調している[55]。11月22日、第一航空艦隊司令長官である南雲忠一中将指揮下の旗艦赤城および加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴を基幹とする日本海軍空母機動部隊は択捉島の単冠湾に集結[56]。出港直前、空母赤城に搭乗員達が集合し、南雲がアメリカ太平洋艦隊を攻撃することを告げた[57]。赤城艦長は山本の「諸子十年養うは、一日これ用いんが為なり」という訓示を代読している[57]。11月26日8時[58]、南雲機動部隊はハワイへ向けて単冠湾を出港した[59]。

[匿名さん]

#8792020/12/20 22:26
航路は奇襲成立のため隠密行動が必要であった。連合艦隊参謀の雀部利三郎中佐が過去10年間に太平洋横断した船舶の航路と種類を調べ、その結果11月から12月にかけては北緯40度以北を航行した船舶が皆無である旨を発見し[60]、困難な北方航路が採用された[61]。

草鹿龍之介によれば、奇襲の一撃で初期の目的を達成できなかった時、もしくは敵に発見され奇襲に失敗した時には、強襲を行う事に定められていた。ただしどこまで強襲を重ねるかについては状況次第であったという[62]。

12月1日、御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきことが決定された。12月2日17時30分[58]、大本営より機動部隊に対して「新高山登レ一二〇八ひとふたまるはち」の電文が発信された[63]。新高山(二イタカヤマ)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰(3952m)、一二〇八とは12月8日のことで、「Xデーを12月8日(日本時間)と定める」の意の隠語[注釈 1]であり、5桁数字を用いた乱数加算のコード暗号(仮名文字を一音ずつ変換する文字暗号=サイファではない)[64]で発信された[注釈 2]。真珠湾攻撃に先立ってコタバル上陸作戦が行われることになる陸軍では「日の出は山形」の電報を発信している。日の出がXデー、山形が8日の意。こちらは4桁数字8個の羅列の暗号文で発信された。

[匿名さん]

#8802020/12/20 22:26
ちなみに、海軍では戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「ツクバヤマハレ」や「トネガワクダレ」であったなどと諸説あり、ラジオ・トウキョウの外国向け短波放送プログラムの最後にいつもの詩吟「山川草木転荒涼」がなかったら、攻撃中止を意味したとの話もあるが[65]、単冠湾での作戦説明の記録には「東京からの海外放送中に、『山川草木転荒涼』の詩吟放送が三回あれば、ホノルルの放送中に同一波長でB放送(内地からの対外宣伝)の符号を入れるという合図である」とあり、[66]、攻撃中止の説明ではない。重責を背負った南雲は航海中、えらいことを引き受けてしまった、断ればよかった、うまくいくかしら、と草鹿に語りかけたと言う[67]。

12月7日、伊号潜水艦隊から特殊潜航艇が発進した。現地時間12月7日午前6時45分(日本時間12月8日午前1時45分)、その内の1隻が米駆逐艦ワードに米領海内で発見され国籍不明船として撃沈されている(ワード号事件)。この件は太平洋艦隊司令部に報告されたが、暗号解読の遅れと鯨などへの誤射が頻発していたため重要視されずに終わった。

12月8日午前1時30分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進。草鹿は189機が発進したとしているが、爆装の艦攻50機が戦艦を、雷装の40機が戦艦および空母を目標とし、艦爆54機は航空基地を、艦戦45機は空中および地上の敵機を目標と定めていたという[68][69]。

[匿名さん]

#8812020/12/20 22:27
午前2時45分、第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機、計171機が発進した。草鹿によれば54機の艦攻は航空基地を、81機の艦爆は空母および巡洋艦を、36機の艦戦はやはり敵機を目標と定めていた[68][69]。

なお敵空母の動勢は不明であったが、付近を索敵するなどの案は排され、真珠湾攻撃に全力が向けられた[70]。また攻撃隊を二波に分けているのは航空母艦の飛行甲板の広さや滑走距離による制限である。当時の日本の航空母艦は、搭載する全航空機を全て甲板に並べ、一斉に発進させることはできなかった[71]。

なおこの攻撃に先立ち、陸軍はイギリスの植民地のマレー半島コタバルで奇襲上陸作戦を行っていた。真珠湾とマレーで一方が先行すれば、その情報が直ちに同盟国同士のイギリスからアメリカに伝えられることとなり、他方の奇襲が成り立たなくなると予想された。しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。これにより、真珠湾攻撃はコタバル奇襲上陸作戦開始の2時間遅れとなった[72]。

しかし、結果的に陸軍のマレー上陸の報が、イギリス軍から真珠湾に展開するアメリカ軍に伝達されるのはコタバルへの攻撃開始のはるか後の事になり、その結果真珠湾並びにアメリカ領フィリピンを含む太平洋地域のアメリカ軍の迎撃体制のゆるみに影響することはなかった。

[匿名さん]

#8822020/12/20 22:28
トラ・トラ・トラ

航空隊の発進準備をする加賀(手前)と瑞鶴(奥)。赤城艦尾より撮影。
ハワイは現地時間12月7日日曜日の朝だった。当時ハワイには移動式のサーチレーダーステーションが6箇所設置されていた。その中でオアフ島北端のオパナに設置されてあったレーダーステーションでレーダーを操作していたのはジョーゼフ・ロッカードとジョージ・エリオットの2人の二等兵であったが、エリオットは新米でロッカードからレーダーの操作法を学んでいる途中であった。この当時、真珠湾のレーダーは朝4時から7時までたった3時間操作されているにすぎず、この日も終了時間の7時となり撤収準備していた矢先、レーダーのオシロスコープスキャナーに50機を超える飛行機の大編隊とおぼしきものがキャッチされた。ロッカードはすぐにレーダーステーションを統括するために新設された情報センターに電話をしたが、この日は日曜日で本職の管制官は休んでおり、レーダーのしくみを理解するための訓練として管制官役をしていた若手陸軍航空隊パイロット、カーミット・タイラー陸軍中尉が応対した。本来であれば未熟なパイロット管制官を補佐するため情報センターには多くの下士官も勤務していたが、7時までの勤務時間を終えて全員退室しており不慣れなタイラー1人で対応することとなってしまった。タイラーはロッカードから電話で80マイルまで接近している問題の編隊についての報告を受けたが、その際にロッカードはレーダースクリーン上の編隊の大きさについて報告をしていなかった。タイラーは本日フィリピンに配備される予定である12機のB-17がオアフ島に飛来する予定であることや、2隻の空母が航行中であることを知っており、その機影が友軍のものであると誤認したが、それらの情報は士官のみが知っている軍事機密扱いであったため、二等兵2人に伝えることができず、ただ「気にするな」という曖昧な返事をするに止まった。後日、タイラーはこのミスによる処罰を受けることはなく戦後創設されたアメリカ空軍中佐まで昇進したが、「あの(気にするなという)何気ない一言がなければもっと昇進できた」と悔やむこととなった。一方「気にするな」と指示された2人の二等兵は、その後もレーダーで機影を追い続けたが22マイルまで接近したところで丘陵の影に紛れて見えなくなった[73]。

[匿名さん]

#8832020/12/20 22:28
7時10分(日本時間8日午前2時40分)には、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃によりこれを撃沈した(ワード号事件)。これは日本軍の特殊潜航艇「甲標的」であった。ワード号は直後に「未識別の潜水艦」を撃沈した旨を太平洋艦隊司令部へ打電したが、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されなかった。また、その直後にはカタリナ哨戒機が湾口1マイル沖で潜水艦を発見し爆雷攻撃を行ったという報告もなされたが、その報告を聞いた海軍参謀らはワードからの報告も含めて長々と議論するばかりで結論を出すことができず、陸軍に連絡することすらしなかったため、陸軍は警戒態勢の強化を図ることができなかった[74]。このようにアメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を何度も逃しており、ワシントンかハワイにいる責任のある者の中に、一人でももう少し用心深いものがいたら日本軍の奇襲は成功しなかった[75]。

7時35分(同3時5分)に航空隊はオアフ島北端カフク岬を雲の切れ目に発見し7時40分(同3時10分)に「突撃準備隊形作れ」を意味する「トツレ」が発信され、信号弾が発射された。この際、奇襲の場合[注釈 3]には合図が信号弾1発で火災による煙に妨げられることない状況で対艦攻撃を実施させるべく艦攻による攻撃を先行させ、強襲の場合には合図が信号弾2発で艦爆による対空防御制圧が先行させる作戦計画になっていたが、信号弾1発で村田重治率いる雷撃隊が展開行動を起こさないのを見て淵田美津雄は合図を見逃したと誤解しもう1発信号弾を発射、艦爆隊指揮官である翔鶴飛行隊長の高橋赫一海軍少佐はこれを合わせて信号弾2発と誤解し先行した[76]。

間もなく重巡洋艦筑摩の偵察機から「在泊艦は戦艦一〇、甲巡一、乙巡一〇」との報告があり、それと前後してラハイナ泊地に向かった重巡洋艦利根の偵察機からは「敵艦隊はラハイナ泊地にはあらず」との報告が入った[76](草鹿によれば筑摩より、3時10分に入った報告とされている[77])。

7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト……のト連送)を下命した[58]。

[匿名さん]

#8842020/12/20 22:29
7時52分(同3時22分)、淵田は旗艦赤城に対してトラ連送「トラ・トラ・トラ」を打電した[58]。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号である[76]。この電波は赤城で中継したが、中継を待つまでもなく広島湾にいた戦艦長門でも、東京の大本営でも指揮官機の電波を直接受信した[76]。7時53分(同3時23分)に赤城から「隊長、先の発信、赤城了解」と返信があった[76]。奇襲に成功したことを知った草鹿は南雲の手を固く握り落涙したと言う[78]。

航空機による攻撃は8時00分(同3時30分)に雷撃により開始される予定だったが、これより5分早い7時55分(同3時25分)に急降下爆撃隊がフォード島のウィーラー(ホイラー)陸軍飛行場へ250kg爆弾による爆撃を開始し、これが初弾となった[58]。

ホノルル海軍航空基地作戦士官のローガン・ラムジー中佐は7時55分ごろに基地に対して急降下してくる航空機の耳をつんざく音に気が付き、近くにいた当直士官の大尉に「あいつの機体番号を調べろ。あいつの安全ルール違反を報告しなきゃならん」と命令した。その航空機はさらに突っ込んできたため、ラムジーは「機体番号はわかったか?」と当直士官に聞いたが「いや、わかりません。赤のバンドがついてるから隊長機と思います。」という返答があった。ラムジーが苦々しい顔をしていると当直士官が「急降下爆撃機が機体を引き起こして上昇するとき何か黒いものが落下しました。」と報告した瞬間に凄い爆発音が格納庫の方で鳴り響いた。ラムジーは表情を強張らせ「ディック、飛行隊長を調べる必要はない、あれは日本の飛行機だ」と叫ぶと、無線室に向かって廊下を走り、当番兵に次の電文を平文で打てと命じた[79]。

airraid on pearlharbor x this is not drill(真珠湾空襲さる ※これは演習ではない)

[匿名さん]

#8852020/12/20 22:29
xは注意を促すために記号として打たれた。「no」と「not」、2通りの記述の受信紙が存在する。

この史上もっとも有名なものの一つとなった電報には、フォード陸軍基地司令官のパトリック・ベリンジャー少将が署名し、アラスカに至るまでアメリカ海軍全基地に警戒を呼び掛けた[80]。攻撃が始まってしばらくしてからようやく海軍省へ、フランク・ノックス海軍長官にも伝えられた。電報を手にしたノックスは「何だと! こんなことはあり得ない! フィリピンのことに違いない!」と報告した海軍作戦部長ハロルド・スターク大将に向かって叫んだが、スタークは「いや長官、これは真珠湾のことです。」と答えている[81]

[匿名さん]

#8862020/12/20 22:30
真珠湾空襲、演習にあらず
機雷敷設艦オグララ(英語版)の甲板上を歩いていた太平洋基地部隊司令官のウィリアム・ファーロング(英語版)少将は、航空機が急降下して航空基地の格納庫に向けて爆弾を落とすところを見た。しかし、これがアメリカ軍機でないとは夢にも考えず「爆弾投下装置をしっかり止めておかないとは、なんとまぬけなパイロットだ」と舌打ちしたが、その航空機が左に大きく機首を起こした際に、主翼の日の丸マーク(国籍マーク)がはっきりと見えた。ファーロングは状況を理解すると、「日本軍だ」「配置につけ」と叫びながら、オグララの艦橋に向かい「在港の全艦艇出撃せよ」と警報を出させた[82]。

続いてヒッカム飛行場からも爆煙が上がった[76]。雷撃隊を率いていた村田は正しく奇襲と理解し予定通りヒッカム飛行場上空を通る雷撃コースに入ろうとしていたがヒッカム飛行場からの爆煙に驚き、目標が見えなくなっては一大事と近道を取り、7時57分(同3時27分)に雷撃を開始した[76]。淵田は飛行場攻撃の爆煙があまり激しくならないうちに水平爆撃を開始する旨を決意し、水平爆撃隊に「突撃」(ツ・ツ・ツ……のツ連送)を下命した[76]。8時00分(同3時30分)、戦闘機隊による地上銃撃が開始され、8時5分(同3時35分)、水平爆撃隊による戦艦爆撃が開始された。

アメリカの軍艦は朝8時ちょうどに艦尾に星条旗を掲揚するという習わしがあり、この日も各艦の後部露天甲板に士官と水兵が整列していたが、その時に日本軍の攻撃が開始された[83]。ネバダでは23名の軍楽隊による国歌「The Star-Spangled Banner」の演奏が開始されていた。その上を魚雷を投下した九七式艦上攻撃機が低空飛行で飛び越えていったが、軍楽隊は誰も隊列を離れることなく最後まで演奏している[84]。

[匿名さん]

#8872020/12/20 23:07
オアフ島各航空基地は、日系人による破壊工作を警戒し、警備しやすいように航空機を分散せず、集結させて配置していた。これが、裏目に出て、日本軍の爆撃や銃撃で航空機の損害を大きくする結果を招いた[87]。ハワイ航空軍のオアフ島防衛の要となるホイラー飛行場は、真珠湾攻撃で一番目に日本軍の攻撃を受けることとなった。ホイラー飛行場には、アメリカ陸軍航空隊主力戦闘機P-40、87機を主力とする180機が配備されていたが、坂本明大尉率いる急降下爆撃隊25機の爆撃で、集結駐機していたアメリカ機の燃料に引火し、次々と航空機が炎上、また板谷茂少佐率いる制空隊の戦闘機43機も地上に並んでいるアメリカ軍戦闘機に機銃掃射を行い次々と撃破、たちまち半数の88機が撃破され戦闘力を喪失した。爆撃機が主力のヒッカム飛行場も同様の攻撃で大打撃を被り、34機の爆撃機が撃破され、航空基地では最大の人的被害となる182名の戦死者を出し壊滅した[88]。

太平洋艦隊司令官キンメルは、この日は早朝からハワイ方面陸軍司令長官ショートとゴルフの予定であったが、ワード号事件の報告があり、司令部に出頭するため、ゴルフを諦めて着替えに一旦自宅に帰っていた。そこへ司令部から「日本機、真珠湾を攻撃中」という電話が入ったため、驚愕(きょうがく)したキンメルは受話器を叩きつけ、慌てて戸外に出ると、戦艦列に群がる日本軍機が見え呆然と立ち尽くした。キンメルは迎えに来た車両に飛び乗ると、8時5分には司令部に到着したが、車から降りる際には爆弾の爆発音や対空砲火の砲声などの爆音や、火薬や燃料の匂いで、周囲は地獄さながらの状況となっていた[89]。司令部についてもキンメルにできることは、戦艦隊が日本軍機に攻撃される状況を見守るだけであった。その時、流れ弾がガラスを破って、窓際で戦況を見つめていたキンメルの胸に当たった。しかし、流れ弾には勢いがなく、軍服の胸の部分に黒い汚れを残しただけであったが、キンメルは悲嘆と絶望で「いっそのこと、この弾が私を殺してくれたらよかったのに」とつぶやいたのを副官が聞いている

[匿名さん]

#8882020/12/20 23:08
一方のショートはゴルフ場から官舎に戻ると、爆発音が聞こえだしたためベランダから外の様子をうかがったが、海軍か海兵隊のパイロットが迫真的な演習をしているものと勘違いした。その後、参謀の知らせによりようやく事態を飲み込めたショートは、陸軍全部隊に第3警戒態勢を命じたが、「2隻の戦艦が沈んだ」という情報部長補佐の報告に対しては「そんなこと、笑止千万だ!」とはねつけ信じようとしなかった[91]。

ホノルルの繁華街では、水兵たちがバス、タクシー、乗用車、軍用トラックといったあらゆる交通手段を使って基地にたどり着こうとしていた。それにパトカーや消防車などの緊急車両も加わり、真珠湾に向かう二車線のアスファルト道路は車で溢れたが、制限速度を守っている車はなかった[92]。その頃、真珠湾で日本軍の攻撃にさらされているアメリカ兵たちは、日本軍のパイロットの技量に驚愕していた。この日の朝までアメリカ人は日本軍の航空戦力など取るに足らず、三流のパイロットが操縦する二級品の飛行機の寄せ集めと思い込んでいた。しかし、日本軍の急降下爆撃機は見事な降下で針の先に命中させるような精度で爆弾を命中させ、雷撃機は教科書通りの魚雷投下を行っていた。特にアメリカ兵を驚かしたのは日本軍機の低空飛行であり、あまりにも巧みに低空を飛行していくため、戦艦泊地に突撃を開始した雷撃機は、海軍工廠病院の最上階(3階)から見下すことができ、日本軍機の操縦席どころかパイロットの表情まで見えたほどであった[93]。

日本軍の第一波攻撃がひと段落した頃に被った損害が明らかになってきたが、戦艦2隻が完全に撃沈、戦艦3隻が大破し、多数の死傷者が出ているとの報告を聞いてキンメルは苦悶の声を上げた。キンメルは日本軍に対する復讐のチャンスを願ったが、この大敗北が自身の海軍生活に終止符をうつものであるということも十分認識しており、事実、その通りとなった[90]。

[匿名さん]

#8892020/12/20 23:10
第二波攻撃

日本軍の攻撃で炎上する海兵隊所属JO-2 エレクトラジュニア
ハワイ時間午前8時54分(日本時間4時24分)、第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命した。水平爆撃隊の艦攻54機は航空基地を爆撃し、急降下爆撃隊78機が第一波が大損害を与えたアメリカ艦船に追い打ちをかける作戦であった[94]。しかし、アメリカ軍は第二波攻撃隊襲来まで攻撃が下火になった15分 - 30分の“小休み”を使って、攻撃に対する準備を行っていた。飛行場の滑走路に飛び散った残骸を片付け、対空機銃や高射砲を据えつけ、海兵隊や陸軍歩兵は陣地を構築したが、中には小銃で対空射撃をした兵士や[95]、私物の拳銃や狩猟用ライフルを使う兵士もいた[96]。旗艦赤城の阿部善次大尉は熾烈なアメリカ軍の対空砲火を見て「オアフ島の北端に達するやいなや、激しい防空放火が次第に我々に近づいてきたので、ぞっとするものを感じた。」と述べ、急降下爆撃隊の千早猛彦大尉は「敵の防御砲火熾烈(しれつ)」と打電している。また、攻撃隊が真珠湾に侵入したときには大火災の黒煙で戦艦泊地(バトルシップ・ロウ)が覆われており、正確に爆撃するのが困難となっており、攻撃隊は激しい対空砲火をあびながら、狙うことが可能な目標を攻撃するしかなかった[97]。

[匿名さん]

#8902020/12/20 23:11
戦艦ネバダは第一波攻撃で魚雷が命中していたのと、近くで爆沈したアリゾナの燃料火災が迫っていたため、外洋に退避することとした。そのために戦艦泊地の投錨地(とうびょうち)のブイに係留している舫を解くためエドウィン・J・ヒル(英語版)大尉と部下が作業していたところに急降下爆撃機が襲い掛かり、舫を解いた刹那に日本軍機が投下した爆弾がヒルらが作業していた近くの海面に着弾し、ヒルらは戦死した。舫が解けたおかげでネバダは戦艦泊地を脱出することができ、外洋に向け南水路を前進始めた[98]。しかし、急降下爆撃隊隊長の江草隆繁少佐が発見、江草は源田より戦艦を主水道で沈没させ真珠湾を封鎖できるチャンスをつかむよう指示されており、これが絶好のチャンスと感じ、攻撃を集中した[99]。激しいネバダや地上からの対空射撃に急降下爆撃機はたちまち3機を撃墜されたが、ネバダも6発の直撃弾と2発の至近弾を浴びて沈没の危機に瀕した。それを地上の艦船管制塔から見ていたファーロングが、ネバダに浅瀬に退避するよう信号を送ると共にタグボート2隻を派遣した。ネバダは指示通り外洋脱出を諦め、ホスピタル・ポイント(避難用浅瀬)にタグボートの支援を得ながら到達し、自ら座礁し沈没を回避した[100]。他の急降下爆撃機は戦艦ペンシルバニアや駆逐艦が収容されていたドックへの攻撃を行ない、ペンシルベニアを損傷させ、駆逐艦3隻に大きな損害を与えた[101]。

[匿名さん]

#8912020/12/20 23:28
かえでちゃん
かわいい❤️

[匿名さん]

#8922020/12/21 00:17
気持ち悪い長文で流してる人
これ荒らしだよ。通報します。

[匿名さん]

#8932020/12/21 13:06
なんも気持ち悪くねーだろ
真珠湾攻撃だ。知らないのか?

[匿名さん]

#8942020/12/21 13:57
>>893
場違いなんだよ 分からないのか?

[匿名さん]

#8952020/12/21 14:28
>>809 >>810のレスでいきなり誰か発狂した

[匿名さん]

#8962020/12/21 14:37
りり、本日完売だって。スゲー

[匿名さん]

#8972020/12/21 14:58
>>809 >>810のレス直後いきなり荒らしキタ

[匿名さん]

#8982020/12/21 17:01
>>894
ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん、英語: Battle of Midway)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年(昭和17年)6月5日(アメリカ合衆国標準時では6月4日)から7日(6月3日から5日とする場合もある[1])にかけて、ミッドウェー島付近で行われた海戦。同島攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で発生し、日本海軍機動部隊とアメリカ海軍機動部隊および同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は投入した空母4隻とその搭載機約290機の全てを喪失した。ミッドウェー海戦はMI作戦の一部であり、この敗北で同作戦は中止された。

[匿名さん]

#8992020/12/21 17:01
MI作戦の成立
詳細は「MI作戦」を参照
太平洋戦争開戦前、日本海軍は対米作戦の基本的な方針として守勢の邀撃作戦を採っていた[2]。連合艦隊司令長官であった山本五十六海軍大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた[3]。大島一太郎大尉(後に大佐、1928年〈昭和3年〉海軍水雷学校高等科学生)の戦後の回想によれば、1928年(昭和3年)に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べている。これは、まず国力から見て圧倒的に劣勢の日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戦力で攻撃するアメリカに勝ち目がなく、また短期戦に持ち込むためには、早期に敵の弱点を叩くことで相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機がないと判断したためと言われている。さらに山本長官は太平洋戦争開戦前より、敵の空母部隊が日本本土を航空攻撃した場合、国内へ物質的な打撃だけでなく精神的打撃が大きいと考えていた点も関係している[4]。及川海軍大臣宛の書簡、黒島参謀の回想によると、山本長官のミッドウェー作戦の第一の狙いがアメリカ海軍とアメリカ国民の士気を喪失させることで、また本土空襲の精神的打撃を大きいと認めている点が分かる。すなわち相当の危険性を承知でアメリカに対し、戦争で勝利するためには積極的な攻勢しかないと考えていた[5]。アメリカ海軍は、1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃で米太平洋艦隊主力の戦艦部隊が行動不能となった後、稼動状態にあった機動部隊を中部太平洋方面に出撃させ、日本軍拠点に対する一撃離脱戦法による襲撃を繰り返した。その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされた[6]。日本軍はマーシャル諸島、ウェーク島、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戦力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。アメリカ軍の奇襲による被害は小さかったが、連合艦隊は受け身の作戦の困難性を認識した[7]。

[匿名さん]

#9002020/12/21 17:02
日本の連合艦隊は、真珠湾攻撃後は南方作戦に機動部隊主力を投入していたが、インド洋の英領セイロン島を攻略する作戦案が採用されなかったために、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間で代替案を作成しなければならなかった[8]。連合艦隊幕僚は戦争を早期終結できる作戦が思いつかなかった。連合艦隊幕僚は、これまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、かといって守勢の困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断した。結果、黒島亀人連合艦隊先任参謀を中心に、ハワイ諸島攻略を見据えた作戦計画を立案した[9]。軍令部は日本の国力からみてハワイ諸島の攻略と維持など不可能と判断し、むしろインド洋方面の作戦を強化してイギリスを追い詰め、間接的な同盟国ナチス・ドイツ支援を構想していたという意見もある[10]。

ハワイ攻略が企図できるようになるまで間隔が空くため、連合艦隊はMI作戦を提案した。これはハワイ攻略の準備ではなく、つなぎであったが、この作戦によって米空母を撃滅できれば、ハワイ攻略作戦は容易になるとは見ていた[11]。軍令部と連合艦隊司令部はこの作戦について対立した。軍令部はアメリカとオーストラリアのシーレーンを断ち切る米豪遮断を企図して、フィジー方面の攻略を計画していた[12]。軍令部航空担当部員の三代辰吉中佐は「仮に日本軍が同島を占領しても、米艦隊は本当に来るのか。日本軍の補給路がアメリカ軍に遮断され、疲弊したところを簡単に奪回されるだけではないか」と考え反対し、FS作戦(ニューカレドニア島とフィジー諸島の攻略)重視の立場を崩さなかった[13]。連合艦隊司令部の黒島参謀と渡辺安次参謀は、山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして、真珠湾攻撃で空母6隻の使用を認めさせた時と同様の交渉をしたが、話は進まなかった

[匿名さん]

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