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2020/02/02 22:55
爆サイ.com 甲信越版

🍙 新潟市雑談





NO.5614862

新潟は受験に失敗した人が住む場所
江戸時代明治時代の主産業は農業で農業の大敵は日照りや干ばつだった
昔は今のように用水路やスプリンクラーなど機械技術や科学技術が発達してなかったので当然だが
だから雨が多く湿度の高い日本海側で広い平野のある新潟は主産業である農業とくに米を生産するのに適していた
信濃川は日本で一番長い川でそんな川があるくらいなので まだ機械が発達してない時代にも新潟は水に恵まれていた

昔は今のようにコンバインなどの機械もなく小作人などの労働人口がたくさん必要だった
軽トラックなどもなかったので田畑を開墾できて農作業ができる土地にはバランスよく労働人口が必要だった
だから江戸時代明治時代は新潟は人口も多かったが
今は人工的に田畑に水ひっぱって効率的に農業をする技術が発展してるので機械で水を調整できるから新潟でなくても昔ほど日照りの心配をする必要も無い
軽トラもコンバインや農業機械があるので今まで手作業でしていた作業を機械でできるようになったので農業の効率性が大幅にあがり農業における労働人口は大幅に不要となった
つまり村や集落に人が不要となった
新潟の都市人口はこの村や集落から流れてきた人などで構成された人口が多い
これは地方都市全般にいえることだが
主産業である農業が盛んな地域だったので他の県よりも村や集落から移りすんできた人口は多い
つまり新潟市自体に元々人集まるような産業があって右肩あがりに人口が増えてった都市じゃなくて
村や集落や佐渡等の人口が新潟市に移った形なので村や集落から都市部である新潟に人口が移りきった昨今、新潟が都市として活気がつくような事はない

報告閲覧数4レス数41

#12017/06/25 22:32
日本の産業人口比は大正から平成の近年になるまでに
農業、林業、漁業等の1次産業は10分の1以下の比率にまで減少した
代わりに2次産業である工業や3次産業である商業の人口が約9割を占めるようになった
豊かな水によって1次産業が恩恵を受けていた新潟だったが日照りの心配もなく主産業が2次産業3次産業である現代において
新潟市には都市として発展する要素はない
産業もないのになぜ数十万人の規模の都市なのか
村や集落でくらしてた人が都市である新潟に移り住んだだけで発展したので有限的な人口増加だったんだよ
で、親や祖先が移住してきた新潟市育ちの人間は進学や就職は適齢になったら他の経済的に豊かな雪の降らない温暖な大都市に移行している
これは北国全般にいえることだが

[匿名さん]

#22017/06/25 22:54
日本海側オワコン

[匿名さん]

#32017/06/25 22:59
裏日本とは、日本の国土において、本州の日本海に面する地域を指す呼称である。
かつては、天気予報などで地域を指す言葉として普通に使われていたが、
新潟から苦情が寄せられたため、1960年代末頃から差別的・侮蔑的であるとして「裏日本」という用語を使わなくなり、
現在放送されている番組で使用されることは基本的にない。
日本語で「裏」という言葉は、衣服の裏地を指す言葉から派生した表現で、もともとは何ら否定的な意味合いを持つものではない。
北西から吹き込む冬期モンスーンが雲を発生させる。このため、裏日本全域に渡り、1月の1mm以上の降水が観測される降水日数が多くなる。
同時期の太平洋側の降水日数が少なく、乾燥した天候が続くこととは対照的である。
雪の影響から、鉄道や自動車にとって不利であり、これが裏日本の発展を遅らせた原因の一つでもある。

裏日本の対義語に「表日本」という語があり、
九州の玄界灘沿岸 - 山陽地方 - 近畿地方 - 東海地方 - 南関東までの一帯に当たる太平洋ベルトを指すことがある。
太平洋ベルトのうち、近畿地方 - 南関東は東海道メガロポリスとされる。
20世紀に入ると、裏日本という語は、自然と表日本と対比した際の経済的格差を表す語として使われるようになっていた。
更に高度経済成長期に太平洋ベルトに位置する工業地帯(京浜工業地帯、中京工業地帯、阪神工業地帯)に向けて人口が移動し、裏日本と呼ばれる地方は一層衰えた。
高度経済成長期には、「金の卵」と呼ばれた団塊の世代が労働力として、上越線や米原経由のルートを通じて太平洋側へと大量に移動した

[匿名さん]

#42017/06/25 23:00
太平洋ベルトとは、日本の茨城県から大分県までを結ぶ、一連の工業地帯・工業地域を言う。
国民所得倍増計画(1960年)のための経済審議会産業立地小委員会報告において、
既存の四大工業地帯にボトルネックの弊害が発生していたことから、
瀬戸内海沿岸、静岡県などこれらの中間に新たな工業地帯を形成することにより、
ベルト上の太平洋沿岸地域全体を工業立地の中核とするといういわゆる太平洋ベルト地帯構想が提唱されたことに由来する
経済産業省の統計では、
茨城県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、静岡県、愛知県、岐阜県、三重県、大阪府、兵庫県、和歌山県、岡山県、広島県、山口県、香川県、愛媛県、福岡県、大分県
を太平洋ベルト地帯としている。

また、南関東から北部九州にわたって、
さいたま市、千葉市、東京都区部、川崎市、横浜市、相模原市、静岡市、浜松市、名古屋市、京都市、大阪市、堺市、神戸市、岡山市、広島市、北九州市、福岡市を中心とした
工業面・商業面で大中規模の都市(主に政令指定都市)が連なっており、これらの都市群(メガロポリス)を総称して指す場合もある。
特徴
鉄道・道路・港湾などの交通機関・施設が整備され、人口の約60%、工業出荷額の約70%が集中する。

[匿名さん]

#52017/06/25 23:03
かつて裏日本と呼ばれる日本海側は中国や朝鮮半島、蝦夷地などとの海上交易の拠点としてむしろ表日本より重要な役割を演じていた。
ところが、幕末・明治時代以降、殖産興業や鉄道・港湾などの投資は太平洋側に集中し、日本海側にはあまり行われなかった。
これには、近代化が進むにつれ、大型船の入港が出来る港の必要性が高まったことが関係する。
明治維新以前、水上交通は、太平洋よりも日本海の方が主流であった。
特に北前船と呼ばれる帆を張った船を利用して、貿易品の地域間での価格差によって利潤を獲得していた北前船貿易が、商人たちによって盛んに行われていた。
しかし日本の近代化が行われ1880年には、日本全体で汽船製造が盛んになっていた
1884年に大阪で大阪商船が設立され、翌1885年には東京で郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併して日本郵船が設立された。
帆の船の和船から近代の船である汽船へと変遷するに伴い、かつて日本海が中心だった船の航路も、
汽船の登場によって波の荒い太平洋でも安全に航行できるようになったため、次第に太平洋が主流になって行った。

[匿名さん]

#62017/06/26 19:14
凄くわかりやすい

[匿名さん]

#72017/06/26 19:47
で?

[匿名さん]

#82017/06/26 19:47
ばかじゃね?

[匿名さん]

#92017/06/26 20:15
スレ主は受験どころか人生に失敗してるクズだろ

[匿名さん]

#102017/06/26 21:15
そんなことない新潟市は素晴らしいところだよ

根拠も具体的な要因もないけど
いや、自分が住んでるから素晴らしいと思わざるを得ないと心のどこかで考えてるのかもしれない

[匿名さん]

#11
この投稿は削除されました

#122017/06/26 21:56
スレ主さんの意見凄くわかりやすい

[匿名さん]

#132017/06/26 22:18
スネ夫に共感出来るって書いてるヤツは一人芝居か同じ落伍者のどちらかだろ

[匿名さん]

#142017/06/27 00:16
面接や受験はどこも同じだろ

[匿名さん]

#152017/06/27 00:17
裏日本の高速道路は対面通行で無料区間が多い

[匿名さん]

#162017/06/27 00:20
名無しさん@お腹いっぱい。

2017/06/21(水) 21:22:33.90 ID:83HFGIy/

所詮は地方工場の一つ
地元の本社が伸びないと経済効果は少ない
1人あたりの県民所得は永遠に富山の背中を見ることになる


Ψ(`∀´ )反金抜刀隊 ◆Dog.6X8U/I

2017/06/21(水) 21:23:58.48 ID:NKhOrzbD

書いた直後にID増えててウケる(笑)

名無しさん@お腹いっぱい。

2017/06/21(水) 21:24:55.84 ID:qYLha3h9

富山はやたら県単位の話にしたがるよね。
石川は地元企業がショボいというけど、1兆8500億のコマツ以上の企業が富山県にあるのか?


名無しさん@お腹いっぱい。

2017/06/21(水) 21:29:29.11 ID:MwW1e+bW

いつまでコマツが石川企業だと思っとるんだこの爺さんは


Ψ(`∀´ )反金抜刀隊 ◆Dog.6X8U/I

2017/06/21(水) 21:30:49.56 ID:NKhOrzbD

「コマツ」は登記上の本社も創業者の出生地も石川県じゃないだろうが。
生産拠点の大部分が石川県内にあるという訳でもない。


名無しさん@お腹いっぱい。

2017/06/21(水) 21:32:36.27 ID:gQ1RsjDD
>>189
県内の医薬品生産額は前年から約1162億円(前年比18.9%増)増加した

これを1300億円といい

石川の経済波及効果670億円を
600億円という

このせこさw

新潟人は馬鹿しかいないのかよw

[匿名さん]

#172017/06/27 01:33
新潟は衰退するのは当然の事実

[匿名さん]

#182017/06/27 01:58
長文二名
大丈夫か?(‾。‾;)
ストレス溜まってる?
本気でそう思ってるんなら
ぐだぐだ言ってないで
何かしたら?

[匿名さん]

#192017/06/27 02:03
猿芝居秋田

[匿名さん]

#202017/06/27 13:27
新潟は人口減少しているのに募集人数が少ないし、面接で落とされるから

[匿名さん]

#212017/06/27 13:28
偏差値が60以上の高校だと大学進学が多いのか?

[匿名さん]

#222017/06/27 20:59
産業がないから親が一流企業に勤めてる割合は低い

[匿名さん]

#232017/07/02 18:55
偏差値高い人間は都会へ進学する

[匿名さん]

#242017/07/04 19:25
新潟は余り物

[匿名さん]

#252017/11/28 16:02
正解。

[匿名さん]

#262017/11/28 17:24
>>0
バカだろ

[匿名さん]

#272017/11/28 20:40
マジ!

[匿名さん]

#282017/11/28 22:04
新潟にいる自分が恥ずかしいよ毎日( ; ; )

[匿名さん]

#292018/03/18 17:46
昔は日本の主産業が農業で
農業に適していた日本海側で広い平野の越後は人口がたくさん必要だったが
主産業が一次産業から
二次産業
三次産業になった今
新潟は衰退していくだけ

[匿名さん]

#302018/03/20 17:17
新潟は
受験失敗した人
知的水準が
低い人
不細工
自立できない人が多い

[匿名さん]

#312018/03/20 17:22
>>28
居なければいい話
出ていけよ

[匿名さん]

#322018/03/20 18:00
新潟に残留する人の特徴

農家
公務員
社会弱者

[匿名さん]

#332018/03/31 23:52
新潟は衰退の一途

[匿名さん]

#342018/04/01 23:26
衰退新潟

[匿名さん]

#352019/11/25 14:36
高齢者だらけ

[匿名さん]

#362020/02/02 18:44
? ?

[匿名さん]

#372020/02/02 19:02
azunaron

[匿名さん]

#382020/02/02 20:42
>>0
【越後平野の開発の始まり〜米の石高を増やすために〜】


 越後平野の開発が急速に推し進められるようになったのは戦国時代末期から江戸時代前期にかけてです。
越後平野は新発田藩、長岡藩、村上藩、その他幕府直轄領を含めた多くの藩が領地としており、利害が交錯していたため、開発が思うように進まない状況でした。

しかし、6万石の領地のほとんどが水害常襲地帯にあった新発田藩が、その石高を増やすべく、越後平野の開発に着手したのです。
 このような洪水の氾濫原(はんらんげん)注1)を開発するためにまず必要だったことは、氾濫原の水抜きのための瀬替え(せがえ)注2)に始まり、潟の干拓を目的とした分水路を整備することでした。

これにより、水田の面積が増加し更には米の石高を増やすことができたのです。
藩の領域は複雑でした。また、鎧潟から田潟、大潟へ流れこむ早通川の右岸一帯は、洪水時における遊水池でした。
ここは幕府によって開発が禁止されていた区域であり、「御封印野」と呼ばれました。

 近世中期以降、越後平野では大規模な土木工事を伴う新田開発が行われました。
その代表的な大型開発の一つに、海岸砂丘の後背湿地に広がる紫雲寺潟(塩津潟)の開発があげられます。

享保15(1730)年に開削された松ヶ崎堀割は、この紫雲寺潟の干拓にともない、水害が激化する地域に対する補償工事でしたが、この堀割は、翌年の増水で破壊されて阿賀野川の本流となりました。
これが現在の阿賀野川河口になります。
 
また、文政3年(1820年)に開削された内野新川は、大潟(おおがた)、田潟(たがた)、鎧潟(よろいがた)周辺の排水と新田開発が目的でした。
この三潟地域は雨が降ると、流れ出るところのないまま溜まり水となっており、大雨の時などは、田畑までこの「悪水」が押し寄せ、作物に大きな被害をもたらしました。

何度も襲ってくる水害から逃れるためには三潟の悪水を日本海に放出するしかありませんでした。
この新川が開削されたことにより、潟縁が徐々に水田化されていきました。

[匿名さん]

#392020/02/02 20:46
続き

【近代から現代の越後平野〜“乾いた”田んぼの実現〜】

 近代に入り、米を増産するため、蒸気機関による動力排水機場の設置といった、近代的な技術が活発に導入されるようになっていきました。
しかし、越後平野で抜本的な信濃川治水工事が始まったのは、明治29年(1896年)7月に起きた「横田切れ」と呼ばれる大水害の後のことです。

この横田切れを契機に大河津分水路が作られ、洪水は激減し、越後平野では用排水路の整備や潟の開墾などの土地改良事業が本格化していきました。
その後、日中戦争や太平洋戦争などにより、労力の不足による食糧不足が深刻化していったことから、国家が直接各地の土地改良事業に資金を投入し、農業基盤を整備するようになっていきました。
 
第2次世界大戦後の食糧増産政策のもと、昭和23年(1948年)には栗ノ木排水機場注3)、昭和28年(1953年)には新川右岸排水機場と、国・県営の大排水機場が次々と運転を開始しました。
これに合わせて耕地整理・土地改良が実施され、1960年代には土地造成がなされました。
 
越後平野最後の大潟湖であった鎧潟が昭和43年に全面干拓され、福島潟の約半分が昭和50年(1975年)に干拓されるなど、大規模な干拓事業が行われたのもこの頃です。
これらは従来の潟縁への進出とは異なる、近代的な土木技術を活用したものであり、かつて越後平野の特徴的な景観のひとつであった多くの潟やヤチは、
鳥屋野潟、福島潟などのごく少数の潟を残し、用排水路の整備された耕地へとかわっていったのです。
 
食の多様化によって米余りが深刻化し、日本の農政が減反政策へと大きく切り替わったのは昭和45年頃のことです。
この政策転換により、水田は水稲以外の作物への転作が図られ、その一方で、住宅地、商業地、公共用地に転用されるなど都市化が進展しました。
 
現在は農業生産向上の為に圃場整備が進められると共に、冬季湛水や田んぼダム、環境用水の導入を通じた水質浄化や生物多様性の確保など、環境保全型農業の多面的機能への取り組みによって、農業農地のさまざまな方向性が模索されています。

[匿名さん]

#402020/02/02 20:49
続き

注1) 氾濫原(はんらんげん):洪水時に、流水が河道などからあふれ出て、氾濫する範囲の平野部分のこと。
すなわち谷底平野・扇状地・沖積平野・三角州などのうちで洪水に浸水する範囲全部を指す。

注2) 瀬替え(せがえ):新しく河道を掘削して、河川を付け替える工事のこと。
注3) 現在は栗ノ木排水機場はなく、昭和43年に完成した親松排水機場がその機能を引き継いでいる。

[匿名さん]

#412020/02/02 22:55最新レス
せん餅でも作っていろ🍘

[匿名さん]


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