メガネかけたハゲオヤジのプラプラが目立つ!
おい市役所!
無駄な給料払ってんなよ!
[匿名さん]
山くじら?
デジタル大辞泉「山鯨」の解説
やま‐くじら〔‐くぢら〕【山鯨】
イノシシの肉。また、獣肉。獣肉を食べるのを忌んで言った語。《季 冬》
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
鶏・牛・豚 飛べない?鳥・ミルク・山くじら 海豚いるか河豚ふぐ山豚って猪って単純?
月夜(げつよ)
ウサギの肉については、武士や庶民は特に食用に関する禁忌はなかったが、仏教徒(僧侶など)だけは別。ウィキペディアには、ウサギ肉について次のように解説されている。
僧侶もひそかに肉食をするようになり、特にウサギは鳥と同様の扱いになって、『嘉元記』の1361年の饗宴記録にもウサギ肉について記載されている。
<引用:ウィキペディアより>
猪を豚ってして?牡丹・柏か月夜
これ読解だとさ、いやそうじゃなくてうさぎだけだよって言うんでしょ?!
理由を出せみたいなアレだよね。漠然と言われるより、読解問題としての方がアレだよね。
猪は猪で、豚を猪にするかもしれない事はあっても、猪を豚にする事は無いみたいな文化だよね?!
[匿名さん]
醍醐(読み)だいご
精選版 日本国語大辞典「醍醐」の解説
だい‐ご【醍醐】
[1] 〘名〙
① 仏語。牛乳を精製して作った純粋最上の味のもの。非常に濃厚な甘味で薬用などに用いる。また、如来の最上の教法にたとえる。
※三教指帰(797頃)下「無福之徒、不論貴賤、不知辛臭、常沈蓼溷、已忘醍醐」
※吾輩は猫である(1905‐06)〈夏目漱石〉四「醍醐の妙味を甞めて言詮の外に冷暖を自知するが如し」 〔北本涅槃経‐一四〕
② 「だいごりゅう(醍醐流)」の略。
※声決書(1396)(古事類苑・宗教部四)「此時正二諸流声明一、即相応院、醍醐、進流是也」
[2]
[一] 京都市伏見区の東部にある地名。醍醐山の西側の麓一帯をいう。醍醐寺、醍醐・朱雀天皇陵があり、奈良街道が通じる。
※平家(13C前)一二「醍醐の山にこもりたるよしきこえしかば、おしよせてさがせどもなし」
[二] 滋賀県浅井(あざい)町の地名。縄文中期の遺跡がある。
[三] =だいごじ(醍醐寺)
※今昔(1120頃か)一四「醍醐に僧有けり」
[補注]牛乳を精製するにあたって発酵の段階により五つ(乳、酪、生酥(しょうそ)、熟酥、醍醐)に分け、それら五つの味を「五味」という。後のものほど美味で、「醍醐」がその最高の味とされる。そこから「醍醐味」という語も生まれた。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
[匿名さん]
大般涅槃経の乳製品
『大般涅槃経』(だいはつねはんきょう)の中に、五味として順に乳→酪→生酥→熟酥→醍醐へとある[6]。酥は醍醐の原料という説があるのはここからであるが、蘇と酥は別のものとする説がある[6][7]。
仏教
仏教では、牛や羊の乳を精製する過程における、五段階の味を指す。
乳味
酪味
生酥味(しょうそみ)
熟酥味
醍醐味
醍醐味とは精製の段階を経て美味となった最高級の風味や乳製品を指し、このことから物事の真のおもしろさや仏教での衆生に例えられる(涅槃経による五味相生の譬)。
滋養強壮のものとして売ってたりしたみたいだよね。将軍家もいただいていたみたいなさ。
食べてたかは、分かんないんだっけ?!
[匿名さん]
ツブ(螺)は、広狭さまざまな定義があるが、狭義ではエゾバイ科のエゾボラ属及びエゾバイ属に属する巻貝の総称[1][2]。広義にはフジツガイ科のアヤボラなどを含めることもある[3]。以上のように特定の種や分類群を指すわけではなく、「ツブ」や「ツブガイ」という標準和名の貝もない。ツブ貝、つぶ貝とも言い、古名としてはツビ、ツミなどがある。これらの貝類は唾液腺にテトラミンと言う毒素を持つ種類があり、該当部位を正しく除去せず食べると食中毒を発症することもある。
なお最広義にはさらに広く、北海道では「ツブ漁業」という場合にはアワビやサザエを除く巻貝漁業の総称をいう[4]。淡水産のタニシも「田ツブ」ということがある[5]。
概要
一般にツブと称されている貝類の大部分はエゾバイ科の貝で、その中でもエゾボラ属 Neptunea やエゾバイ属 Buccinum など中型-大型の寒流系の種が多い。それらは単にツブ貝と呼ばれることも多いが、エゾボラは「マツブ(真つぶ)」、細長くて螺状の筋が明瞭な貝(シライトマキバイ、オオカラフトバイ、ヒモマキバイ、クビレバイなど)はその形から「灯台ツブ」、ヒメエゾボラやエゾバイ、コエゾバイなど沿岸の浅瀬で採れるものは「磯ツブ」などと適宜言い分けられることもある。また、別属のモスソガイなども、殻から大きくはみ出す肉の様子から「ベロツブ」・「アワビツブ」と呼ばれることがあり、更には系統的にエゾバイ科とやや遠いフジツガイ科のアヤボラも、殻型が似ていて表面に毛が多いことから「毛ツブ」の名で売られたり、"つぶ貝の缶詰"の材料に用いられたりする。その一方で、"灯台ツブ"と同属のエッチュウバイやオオエッチュウバイなどはツブではなく「バイ貝」や「白バイ」などの名で販売されていることも多いため、実物を見なければ「ツブ」や「バイ」と呼ばれる貝の実体を知るのは難しい。
[匿名さん]
「ツブ」という語
「ツブ」という語には、おそらくは「コロッとした食用の巻貝」あるいは「ちょっと長めの食用の巻貝」という程の意味しかなく、類語の「ツブリ」や「ツボ」などの語とともに一部の巻貝類の総称として使われてきた。このうち「ツブリ」はサツマツブリ(アッキガイ科)などの標準和名にも使われており、やや縦長や紡錘型の貝を指すことが多い。このことから、おそらくは「ツム(紡)」とも類縁のある語で、紡いだ糸が巻き取られて膨らんだ様子と殻の巻き型が似ていることも関係しているのかも知れない。ただ、カタツブリ(=カタツムリ)とも言うように、長くなくとも単に巻いて丸く膨らんだ貝もツブリやツムリの範疇にあり、人の頭を「おつむり」と呼ぶのも、つむじが巻いていて丸いからである。タニシ類も黒く丸い外見から、食べると目に良いなどとの俗説を生んだが、このことから、丸いことを言う「ツブラ(円)」との類縁も推定される。
一方「ツボ」という語は、現在は微小な貝の標準和名にしばしば使われている(リソツボ・チャツボなど)が、「つぼ(壷)」に類縁があるとも言われる。壷を作る際、粘土を紐状にしたものを巻いてとぐろを重ねるように形成する方法があるが、これと貝の巻き方に共通性を認めたためではないかとの説がある。つまりは長いものなどがぐるぐる巻かれて丸く膨らんだ"つぶら"な形状が、ツブ、ツブリ(ツムリ)、ツボ、ツビ、ツミなどに共通していると言える。
[匿名さん]
牛胆汁
(ギュウタンジュウ)
ラテン名:Bos taurus Linne var. domesticus Gmelin (ウシの意)
基原
ウシの胆汁を乾燥したもの(止逆清和錠に使っているのは牛胆汁)
※ 生薬の基原植物は多数存在する場合もあります。その場合は多く基原植物中の 一部(一つ)を紹介しています。
薬能(作用、働き)
健胃・消化剤
主要成分
コール酸
監修:クラシエ製薬株式会社 漢方研究所
動物胆(ドウブツタン)
ブタの胆汁を乾燥させたもので、消化器の働きをよくし、他の成分の吸収を助けます。
自然の生薬が配合されています | 「救心」について | どうき ...
牛黄(ごおう - 赤玉漢方薬局
牛黄(ごおう)は牛1000頭から10000頭に1頭の割合でしかとれません。 きわめて貴重なものとして古来より「ゴオウはゴールド(金)より高価」といわれ,心臓の不調、肝臓・胆のう ...
[匿名さん]
朱引(しゅびき)とは、江戸幕府が定めた江戸の範囲である。地図上に朱色の線を使って示した[1]。
いわゆる「大江戸」の範囲であり[2]、現在の東京都千代田区、中央区、港区、文京区、台東区のほぼ全域(埋め立て地を除く)と新宿区、墨田区、江東区、品川区、目黒区、渋谷区、豊島区、北区、板橋区、荒川区の各一部に該当する。
「朱引」は1818年に初めて定められ、その呼称は明治時代に至るまで使われた。
概要
1590年(天正18年)の江戸城築城以来、江戸の市域は拡大を続け、19世紀初頭にはすでに、その範囲は不明確となっていた。幕府目付・牧野助左衛門(まきのすけざえもん)は1818年(文政元年)8月、市域の確定を求める「御府内外境筋之儀」についての伺いを出し、それを受けて同年12月、老中阿部正精(あべまさきよ)によって示された幕府の見解が朱引である[3][4][5]。「旧江戸朱引内図」(1818年、東京都公文書館所蔵)はこの答申に基づいて作成され[2]、江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。
これは、歴史上初めて正式に示された江戸市域(大江戸)の範囲であり、「朱引内(しゅびきうち)」[6]、「御府内(ごふない)」、などとも呼ばれる。この外側は朱引外(しゅびきそと)と呼ばれる。
範囲
朱引の範囲(大江戸)は、「四里四方」といわれ、東は平井、亀戸周辺、西は代々木、角筈周辺、南は品川周辺、北は千住・板橋周辺までである[2]。
現在の行政区画では次の範囲に相当する[4]。
ほぼ全域
千代田区、中央区、港区、文京区、台東区
境界域
新宿区 (角筈村、戸塚村まで)
墨田区(木下、墨田村まで)
江東区(亀戸まで)
品川区(南品川宿まで)
渋谷区(代々木村まで)
北区(滝野川村まで)
豊島区、板橋区(板橋村まで)
荒川区(千住まで)
墨引
朱引図(旧江戸朱引内図)には朱線と同時に黒線が引かれていたが、これは墨引(すみびき)と呼ばれ、町奉行所支配の範囲を示していた[4]。墨引は、目黒付近で朱引の外側に突出する例外を除いて、朱引よりも更に内側の小さな環状域である。
[匿名さん]
明治期の朱引
1869年(明治2年)2月19日、東京府は、新たな朱引を定めた。この明治期の朱引は、皇居を中心として、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めるものだった[1]。同年3月16日には、朱引内に50区の区画が制定された(五十番組制、五十区制)。1871年(明治4年6月13日)、再改正によって範囲を縮小された朱引内は44区に再編成(朱引内四十四区制)され、1878年(明治11年)の郡区町村編制法の施行(東京15区の制定)まで続いた[1]。
脚注
^ a b c 明治四年朱引内四十四区制について 中元幸二 『東京都公文書館 研究紀要』(第4号)、p14-40、平成14年3月
^ a b c 江戸の市街地の広がりと「大江戸」 (シリーズ・レファレンスの杜) 『東京都公文書館だより』 第6号、p6、東京都公文書館発行、平成17年3月
^ 江戸の範囲 - ビバ!江戸(更新日不明)2018年6月10日閲覧
^ a b c 江戸の範囲 (レファレンスの杜) 『東京都公文書館 研究紀要』(第4号)、p45-48、平成14年3月
^ 斗鬼正一 「江戸・東京の身体論」 『情報と社会』 15号 江戸川大学、2005年。
^ 読み方は国史大辞典(吉川弘文館)、日本国語大辞典(小学館)による
外部リンク
東京都公文書館
東京都公文書館蔵書目録 1(東京府文書 -明治)平成12年3月 -朱引に関連する資料を多数収載
江戸東京博物館
関連項目
清洲越し
京都市内の通り
平城京
東京市
廃藩置県
首都圏整備法
[匿名さん]
小江戸(こえど)[注 1]とは「江戸のように栄えた町」「江戸時代を感じさせる町」といった意味合いで使われる、都市の比喩的な表現。代表例としては、川越(埼玉県川越市)、佐原(千葉県香取市佐原)、栃木宿(栃木県栃木市)が挙げられる。
現代的定義としてはおおむね、「江戸との関わりの深い町」「江戸の風情を残す古い町並みを残している町」である。古い町並みがいまなお残っている部分については、観光地となっているところもある。「江戸のように栄えている」という意味で使われた。「小江戸」という言葉そのものは以前よりあり、江戸時代から川越は歴史的に繋がりが深く「江戸の文化が真っ先に伝わる繁栄した町」という意味あいで呼ばれていた。しかし、改めて「小江戸」という言葉がクローズアップされたきっかけは、1996年に開催された「小江戸サミット」である[1](「小江戸サミット」については後述)。
そのほか、千葉県夷隅郡大多喜町・神奈川県厚木市・山梨県甲府市、静岡県磐田市(旧磐田郡竜洋町)掛塚・滋賀県彦根市なども、小江戸と呼ばれることがある。
[匿名さん]