五男勝長は本能寺の変の時、長男信忠と共に二条御所で討死。
また二条御所で長利(信長の末弟)という人間も同時に討死している。
[匿名さん]
長男信忠殿が生きていれば本能寺の変後の混乱はなかったであろう。
信雄殿と信孝殿の見苦しい争いもなく信忠殿の下で統率されていた。
[匿名さん]
秀吉殿は織田信雄殿を改易した。
そして織田殿の旧領である尾張・伊勢を甥の秀次殿に与えた。
[匿名さん]
凡庸と言われる信雄殿。
だが信長殿の息子という七光があったにしろ一時は内大臣を務めたのであるから、言われるほど凡庸でもないのではなかろうか。
それに相手が父信長殿・秀吉殿・家康殿であるからそもそも比べる相手が根本的に間違っているのではないか。信雄殿以上の能力があっても比較にならないような人物達が相手なのである。
小牧・長久手で信雄殿が羽柴殿と講和した事で徳川殿が大義名分を失ったのは確かに事実だが、これにせよ羽柴(豊臣)殿の人垂らしの術に掛かれば信雄殿以外の人物が信雄殿の立場であっても乗せられる例は少なくないのではないであろうか。
それに羽柴殿や徳川殿に改易されたりしたものの小大名とは言え織田の家名を後世に残したのであるから、そこは評価できるのではなかろうか。
秀吉殿ですら息子の代で家系が滅んでいるのである。
秀吉殿の息子の息子も捕らえられ斬首されている。つまり家系は断絶している。
その意味では信雄殿は豊臣殿より上と言えるかも知れぬ。
まあこれは信雄殿・豊臣殿というよりは信雄系織田家・豊臣家というかも知れぬが、しかし豊臣殿の家系がいとも簡単にあっさり滅んだのに対し信雄殿は家系を残したのだ。
[匿名さん]
浪人が殿に仕えたいと申しております
浪人・織田信雄
浪人・織田信孝
[匿名さん]
豊臣秀吉は織田信雄を改易。
つまりこの時点で秀吉は織田の名前など全く必要としていなかった事が分かる。
尾張・伊勢2国を剥奪された織田家は、これにより大名の地位を失う。
織田家が10万石以上の大名として復活するのは、信長の嫡孫・秀信(信雄の甥)が美濃岐阜13万3千石の城主になった時である。
だが秀信は完全に「その他大勢」の扱いである。
[匿名さん]
そしてまず、岐阜城を守っていた織田信雄を降参させ、
明らかに織田秀信の間違いである。
[匿名さん]
家康の取りなしもあったらしく信雄は御伽衆に加えられる。大和国内に1万8千石を与えられ大名に復帰。
このとき信雄の長男・秀雄も越前大野5万石の大名になる。
[匿名さん]
子孫は、将棋の駒 で有名な 天童藩1万8千石の藩主として明治維新を迎える
[匿名さん]
しかし信雄の一生は、領地つまり財産を失うが命は失わずに済んでいる。
ある意味、塞翁が馬かも知れない。
[匿名さん]
父信長か兄信忠が一方でも生き残っていれば、信雄も信孝も荒波に放られる事はなかったのである。
[匿名さん]
家督は長男信忠に譲られており、信忠が当主である事は確定していた。
つまり信忠が生きていれば弟と言えども反逆する事は出来ないのである。
[匿名さん]
織田家代々の地である尾張の国主である事が織田信雄のアイデンティティだったのではないか。
[匿名さん]
本当かな?がつがつ明日の日銭と億万長者ブログのやつ。試した人いる?
[匿名さん]
織田信雄殿の領地だった尾張・伊勢は豊臣秀次殿に与えられた。
[匿名さん]