伊江島の中学を卒業後、当時那覇市泊にあった沖縄水産高校で船乗りを目指した。体調を崩して船を下り、企業に就職したが、「熱しやすく冷めやすい性格。1年間で10回以上転職を繰り返すほど、忍耐力がなかった」と振り返る。
仕事や人と合わない原因を相手に求めてばかりいたころ、友人の誘いで沖縄空手道小林流小林舘協会の故・仲里周五郎氏(県指定無形文化財保持者、1920年〜2016年8月)の道場に通い始めた。19歳だった。「稽古を続けるうち、自分自身の至らなさを痛感した。空手だけは諦めないでプロとしてやっていこう」と心に決め、指導者となる目標を持った。
独立の地として注目したのは当時、沖縄空手が知られていなかったヨーロッパ。その中でも「真ん中にあった」フランスを選んだ。言葉も分からず、知り合いもいない。持っていたのは「人にできるなら自分にもできるという自信だけだった」。現地では道場を開くために必要な国家資格を4年かけて取得。「自分の弱みとの闘い。不器用なところは人の何倍も時間をかけて努力をしようと、絶対引かない覚悟で向き合った」と振り返る。
仕事や人と合わない原因を相手に求めてばかりいたころ、友人の誘いで沖縄空手道小林流小林舘協会の故・仲里周五郎氏(県指定無形文化財保持者、1920年〜2016年8月)の道場に通い始めた。19歳だった。「稽古を続けるうち、自分自身の至らなさを痛感した。空手だけは諦めないでプロとしてやっていこう」と心に決め、指導者となる目標を持った。
独立の地として注目したのは当時、沖縄空手が知られていなかったヨーロッパ。その中でも「真ん中にあった」フランスを選んだ。言葉も分からず、知り合いもいない。持っていたのは「人にできるなら自分にもできるという自信だけだった」。現地では道場を開くために必要な国家資格を4年かけて取得。「自分の弱みとの闘い。不器用なところは人の何倍も時間をかけて努力をしようと、絶対引かない覚悟で向き合った」と振り返る。