須田グループの誰かにさくらんぼジュースそっくりの液体を頭の上から掛けてあげるよ。
[匿名さん]
須田家って豪商でしょ
富山商工会議所の六代目会頭は須田七造理事長の父親
[匿名さん]
戦後の闇市の元締をしてたのが須田家
もしかして、役座と関係があったの?
[匿名さん]
小泉総理のお爺ちゃんも役座関係の人で刺青が入ってたらしい
昔の政治家は恐い人が多いのかな?
[匿名さん]
大手芸能事務所バーニングの会長はハマコーの元運転手
芸能界とヤクザは切っても切れない関係
[匿名さん]
って言うか芸能界を作ったのはヤクザ。ただ、吉本興業はヤクザの道に進まなかっただけ。
[匿名さん]
パンチパーマにサングラス。こいつから潰して復讐スタートやで。
[匿名さん]
都市計画が終わり、昭和28、29年頃に須田藤次郎氏が富山駅南口正面に須田ビルを作った。須田ビルの須田とは須田藤次郎氏の名前から来ており、須田氏は大地主で元々は砂糖屋であった。
国道41号線が通り、また須田氏は80坪の土地を北陸銀行(現在の北陸銀行駅前支店)に売ったため、以前の白倉市場のように店を広くすることは出来ず、店の間口は狭かったという。2、3坪の広さで、せいぜい広くても5坪ほどで狭かったため、皆が店の前に商品を出し、商店街の道幅も大変狭かったそうだ。
須田ビルは鉄筋コンクリートの二階建てで、その東側に駅前百貨街が出来た。食住一体で、1階で商売をし、2階に住まれていた方もいた。須田ビル、駅前百貨街には100軒以上の店があり、(八百屋、魚や、干物屋、珍味屋、果物屋、肉屋、お茶屋、寿司屋、ケーキ屋、食堂、おでん屋、喫茶店、花屋、本屋、電機屋、靴屋、下駄屋、服屋など)大抵日常で必要なものは須田ビル、駅前百貨街で揃い、街の人びとにとって欠かせない場所だった。
[匿名さん]
白倉周市氏は高岡市から馬車一台と馬一頭で富山市にやってきた。白倉氏はもともと白倉車輪という会社で運送業をされていたという。また、白倉氏のリーダーシップは凄く、自然発生した駅前闇市をまとめ、昭和21、22年頃に白倉市場という準闇市を作った。白倉氏は富山市に定着し、その後借地権を少しずつ集め、テナント王となった。
富山と名古屋を結ぶ国道41号線を通すことが決まり、この出来事がきっかけで街は都市計画で整備され、昭和26、27年頃に工事は始まり、区画整理された。
白倉市場は解体されることになり、白倉市場の人々は店を移転したり、その後出来る須田ビル、駅前百貨街に店を移転させた。
[匿名さん]
須田さんもCIC失ったし、白倉さんも宇奈月グランドホテル失ったから、昔ほど金持ちじゃないですよ。
[匿名さん]
須田理事長先生!野球部に最後の私財を注ぎ込んで下さい!
[匿名さん]
剣道の名門から野球の名門へ
森崎監督の意思を継ぐ名将が必要
[匿名さん]