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2021/07/13 06:10
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NO.9583535

亭主関白 谷九⑰
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#9512021/07/12 21:50
歌詞のじじぃ正義づらしてるけど、頭がおかしいかも

[匿名さん]

#9522021/07/12 21:51
かもじゃなく、100%おかしい

[匿名さん]

#953
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#954
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#9552021/07/12 21:54
北川おもいきりM。そして蟻

[匿名さん]

#956
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#957
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#958
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#959
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#9602021/07/12 22:01
北川おもいきりM。そして蟻

[匿名さん]

#961
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#9622021/07/12 22:01
相武もおもいきりM。そして蟻

[匿名さん]

#9632021/07/12 22:02
宝生、そんなに剛毛ではない。蟻

[匿名さん]

#964
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#965
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#966
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#967
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#9682021/07/12 22:11
あああああああああああああああああああ

[匿名さん]

#9692021/07/12 22:12
いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい

[匿名さん]

#9702021/07/12 22:13
うううううううううううううううううううううううううううううう

[匿名さん]

#971
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#972
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#9732021/07/13 01:27
歌詞で流さず向き合えよタコ

[匿名さん]

#9742021/07/13 03:46
この歌詞の方は
迷惑防止条例で
近日中に後悔されるそうです

[匿名さん]

#975
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#976
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#9772021/07/13 05:25
大東亜戦争は、大日本帝国と、中華民国、イギリスやアメリカ合衆国、オランダ、オーストラリアなどの連合国との間に発生した戦争に対する呼称やて゜ぇ。
東條内閣が、支那事変も含めて大東亜戦争とすると閣議決定したんやぁ

[匿名さん]

#9782021/07/13 05:32
閣議決定​
昭和12年7月7日の盧溝橋事件を発端とし、北支事変が勃発。ここに大東亜戦争が開始された。 第1次近衛内閣が「北支派兵に関する政府声明」を発表し、事件を「北支事変」と名付け、今回の事件は中国側の計画的武力行使であり、大日本帝国はこれに対して自衛権を行使するために派兵(増員)するとした[7]。 8月に第二次上海事変が勃発するに及び、戦線は中支、そして中国大陸全土へと拡大し、日本と中国の全面戦争の様相を呈した。

昭和16年12月8日、日本は開戦の詔勅によってイギリスとアメリカの2国に対して宣戦布告し、最初の作戦であるマレー作戦と、それとほぼ同時並行に行われた真珠湾攻撃を開始し、日本と英米との間に戦争が発生した

[匿名さん]

#9792021/07/13 05:53
大本営政府連絡会議
12月10日の大本営政府連絡会議は「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期ニ関スル件」を決定、「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」とされた[5]。会議では海軍から「太平洋戦争」「対米英戦争」、さらに「興亜戦争」などの案が出された[8]。しかしこれらの案は「支那事変(日中戦争)」を含めた場合や、ソビエト連邦との交戦の可能性を考えると適当ではないと反対された[8][9]。結果、「大東亜戦争」が採択された。

[匿名さん]

#9802021/07/13 05:53
閣議決定
12月12日の閣議において、「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」が閣議決定された[10]。この閣議決定の第1項で「今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」と明記し、支那事変(日中戦争)と「対米英戦争」を合わせた戦争呼称として「大東亜戦争」が公式に決定した[10]。また「平時、戰時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス」ともされた

[匿名さん]

#9812021/07/13 05:54
内閣情報局
同日内閣情報局は「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰爭と呼稱す。大東亞戰爭と呼稱するは、大東亞新秩序建設を目的とする戰爭なることを意味するものにして、戰爭地域を主として大東亞のみに限定する意味に非ず」と発表され、戦争目的はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定した[8]。しかし、日本の戦争目的については、「自存自衛」とするもの、また「自存自衛」「大東亜新秩序形成」の二本立て、また「大東亜新秩序形成」のみが戦争目的とするものの間で当時見解が分かれていた[11]。当時大本営参謀であった原四郎は情報局の「戦争目的」発表について「情報局は何を血迷ったか」との感想を持ったとのべている[8]。

12月15日、次官会議で英国中心の語辞である「極東」を日本人が使うことは不名誉至極として、公文書で使用しないよう申し合わせを行った[12]。

情報局の発表は1943年(昭和18年)11月の大東亜会議で「再確認」がなされている。

[匿名さん]

#9822021/07/13 05:54
昭和17年法律第9号​[編集]

1942年(昭和17年)1月に「大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」を帝国議会に提出する際、内閣が作成した「説明基準」において対米英戦争と支那事変(日中戦争)のみならず、対蘭戦、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含むと確認された[1]。その中で「今次勃発ノ對米英戰ノミヲ支那事變ト區別シテ大東亞戰爭ト稱スルモノニ非ザル」とし、前年12月12日の閣議決定[10] は「今後大東亞戰爭ナル呼稱ヲ用フル場合ニハ昭和十六年十二月八日前ノ支那事變ヲモ包含スルモノナルノ意ヲ含ム。」と説明された[13]。

2月17日には法律第9号(大東亞戰爭呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律)が閣議決定され、「勅命ヲ以テ別段ノ定ヲ為シタル場合ヲ除クノ外各法律中<支那事変>ヲ<大東亜戦争>ニ改ム」として、法律において「支那事変」の呼称を「大東亜戦争」と改めるとされた

[匿名さん]

#9832021/07/13 05:55
初出​

1938年(昭和13年)、第1次近衛内閣が発表した支那事変(日中戦争)の戦争目的を発表した「東亜新秩序」声明では「大東亜」は使用されておらず、1940年(昭和15年)7月26日の第2次近衛内閣で閣議決定された基本国策要綱において「大東亜」の名称が初めて用いられたとされる[8]。この中では「日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニアリ」という文言がある[8]。また8月1日には松岡洋右外相が「大東亜共栄圏」という用語を初めて用いた談話を発表した

[匿名さん]

#9842021/07/13 05:56
対象地域​

大東亜の地図(1943年)
松岡は大東亜共栄圏を「従来東亜新秩序圏乃至は東亜安定圏と称せられてゐたものと同一」であるとし、日本・満州・中国に加え、フランス領インドシナ、オランダ領東インドをも含めた範囲であると説明した[8]。

1942年(昭和17年)2月28日の大本営政府連絡会議では「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スヘキ大東亜ノ地域」を決定し、大東亜の地域を「日満支及東経九十度ヨリ東経百八十度迄ノ間ニ於ケル南緯十度以北ノ南方諸地域、其他ノ諸地域ニ関シテハ情勢ノ推移ニ応シ決定ス」と規定した[8]。

大本営参謀を務めた瀬島龍三は「大東亜の地域とは、おおむね、南はビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジアの大陸、並びにおおむね東経一八〇度以西すなわちマーシャル群島以西の西太平洋の海域を指すのであります。インド、豪州は含まれておりません」と記している

[匿名さん]

#9852021/07/13 05:57
GHQによる使用禁止​

1944年制定の大東亜戦争従軍記章の図案(左:表面、右:裏面)。敗戦後は占領軍により製造分が破棄され、さらにGHQ/SCAPが「大東亜戦争」の語の使用を禁止したため、1946年に未発行のまま廃止されて「幻の従軍記章」となった。 1944年制定の大東亜戦争従軍記章の図案(左:表面、右:裏面)。敗戦後は占領軍により製造分が破棄され、さらにGHQ/SCAPが「大東亜戦争」の語の使用を禁止したため、1946年に未発行のまま廃止されて「幻の従軍記章」となった。

1944年制定の大東亜戦争従軍記章の図案(左:表面、右:裏面)。敗戦後は占領軍により製造分が破棄され、さらにGHQ/SCAPが「大東亜戦争」の語の使用を禁止したため、1946年に未発行のまま廃止されて「幻の従軍記章」となった。

1945年(昭和20年)8月のポツダム宣言受諾後も、大東亜戦争の名称はしばらく使用され、11月24日には幣原喜重郎内閣が「大東亜戦争調査会官制」を公布した[11]。

しかし12月15日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本政府に対する覚書「國家神道、神社神道ニ對スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ關スル件」(いわゆる「神道指令」)[15] を発した。この中で「『大東亜戦争』および『八紘一宇』などの、国家神道、軍国主義、国家主義に緊密に関連する言葉」の使用を公文書において禁止することが指令された[11]。これによって政府部内の「大東亜戦争調査会」などは「戦争調査会」と改称され、関連法令にある「大東亜戦争」の語句もすべて「戦争」に置き換えられた

[匿名さん]

#9862021/07/13 05:58
同年9月10日には「ニューズ頒布についての覚書」、9月19日には「プレス・コード(新聞規約)」が発出され、マスコミに対するGHQの規制も強化された[11]。GHQはさらに「プレス・コードにもとづく検閲の要領にかんする細則」を発して新聞・雑誌がGHQの検閲を受けること、さらに「『大東亜戦争』『大東亜共栄圏』『八紘一宇』『英霊』のごとき戦時用語」の使用を避けるように指令した[16]。

12月7日には朝日新聞が「太平洋戦争」の語を初めて使用し[16]、12月8日(開戦4周年)には新聞各紙がGHQ民間情報教育局(CIE)作成の「太平洋戦争史−真実なき軍国日本の崩壊」の掲載を開始し、満州事変から太平洋戦争までを連続したものとみなし、日本の侵略と残虐行為を詳細に叙述し、他方で米軍の役割を強調するもので、東京裁判の「一部軍国主義者による共同謀議」という見方と一致するものだった[16]。この連載は1946年(昭和21年)3月にGHQ民間情報教育局『太平洋戦争史 奉天事件から無条件降伏まで』(高山書院)として刊行し、10万部が完売し、GHQ指導で学校教育でも奨励された[16]。

NHKで「眞相はかうだ」のラジオ放送も開始された。

[匿名さん]

#9872021/07/13 05:58
GHQの検閲
「日本における検閲」および「プレスコード」も参照

GHQは出版物についても検閲をおこない、「大東亜戦争」表記の排除を図った。まず占領政策の前期においては、あらゆる出版物が「事前検閲」を受け、「大東亜戦争」はすべて「太平洋戦争」に書き換えられた[注釈 1]。

占領政策後期に入ると「事前検閲」は「事後検閲」へ変更され、印刷・製本済みの出版物を占領軍が検閲し、「大東亜戦争」その他占領軍に不都合な記述(GHQへの批判等)があれば、発禁処分をおこなった。出版社は莫大な損害を蒙ることになるため、自主的に占領軍の検閲に触れるような文章を執筆する著者を敬遠し、占領軍の意向に沿わない本を出版しなくなった。江藤淳は、これを「日本人の自己検閲」と呼び、この構造が言論機関に定着するに従い検閲は占領軍によってではなく、日本人自身の手によって行われるようになったと主張している[17]。

こうした経緯から「大東亜戦争」という用語が強制的に「太平洋戦争」に置き換えられていったとの批判がある[17][18]。江藤淳は、占領軍が日本軍の残虐行為と国家の罪を強調するために行った宣伝政策[19] についてウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」)としている[17]。

なお、1952年(昭和27年)4月11日に公布された「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」(法律第81号)によって、GHQの「大東亜戦争」呼称廃止覚書は失効している

[匿名さん]

#9882021/07/13 05:59
日本政府の対応​

GHQの政策以降、現在にいたるまで、日本政府は公的には「今次戦争」「先の大戦」「第二次世界大戦」という呼称を用いている[11]。たとえば村山談話では「大東亜戦争」や「太平洋戦争」の用語はいずれも用いられず、「先の大戦」「過去の戦争」「過ぐる大戦」「第二次世界大戦」などが用いられた[20]。

ただし、公的機関の史書などで「大東亜戦争」の語を用いる場合もあり、1955年(昭和30年)の内閣官房編纂『内閣制度七十年史』では「大東亜戦争」の語を用い[21]、衆議院・参議院共同編纂『議会制度七十年史』(1960年~1961年)では、「大東亜戦争・太平洋戦争」の語を並列で用いた[22]。外務省が1969年(昭和44年)に発刊した『外務省の百年』では、「大東亜戦争」の語を用いているが、他の省庁の編纂物では用いられていない[22]。ただし『大蔵省百年史』に序文を書いた福田赳夫(当時内閣総理大臣)が「大東亜戦争」の語を用いている[23]。

1966年(昭和41年)の『戦史叢書』の際には、本文には「大東亜戦争」や「支那事変」の語を用いることもあるが、可能な限り他の表現(たとえば「今次大戦」)を用いた[

[匿名さん]

#9892021/07/13 06:00
皇室
天皇の「おことば」などでは「先の大戦」「あの不幸な戦争」といった表現を用いることが通例となっている[20]。2008年(平成20年)に宮内庁は「その(人間宣言)後も戦争名を頭に付けない表現を繰り返しているうちに定着した。特定の意図をもって○○戦争という言い方を避けているわけではない」と回答している[20]。一方で記者会見などでは「第二次世界大戦」という言葉を用いることもある

[匿名さん]

#9902021/07/13 06:00
法令での様態
日本の法令では1946年(昭和21年)、「昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク国有財産法中改正等ノ件」(昭和21年3月14日勅令第142号)等により、法律や勅令の文中に「大東亜戦争」の呼称を使用していた法令の文言は「今次ノ戦争」と改められた

[匿名さん]

#9912021/07/13 06:01
支那事変と大東亜戦争についての昭和20年帝国議会
前年1945年(昭和20年)11月30日の第89回帝国議会・貴族院「昭和二十年勅令第五百四十二号(承諾を求むる件)特別委員会」において貴族院議員村上恭一は、「昭和17年法律第9号がある以上、大東亜戦争の開戦は昭和12年ではないか」と質問、松本烝治国務大臣は、この法律によって「法律、勅令の適用の範囲」に付いては「支那事変」と「大東亜戦争」とは「一体を成して区分すべからざる状態」になったとしているが、支那事変と大東亜戦争は「観念に於いて区別がある」と答弁している[26][27]。なお靖國神社は、「支那事変」と「大東亜戦争」を1941年(昭和16年)12月8日で分けている[27]。

その後の1952年(昭和27年)4月11日に公布された「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」(法律第81号)では、ポツダム宣言受諾によって発された法令(いわゆるポツダム命令)について、別途法制化されない限り失効するとされ、日本政府は勅令第142号について手続きを行わなかったため、同法は失効した[3]。

しかし、この後に制定された法令の条文などでも、大東亜戦争という言葉は使用されず、「太平洋戦争」あるいは「今次の戦争」という表現が使用されている

[匿名さん]

#9922021/07/13 06:02
2006年の政府見解
2006年(平成18年)の日本政府による公式見解では、1941年(昭和16年)12月12日の閣議決定において大東亜戦争の呼称について記載されているが、「大東亜戦争」の定義を定める法令はないとされる[28]。また、1945年(昭和20年)12月15日付け連合国総司令部覚書以降、一般に政府として公文書において「大東亜戦争」という用語を使用していない[28]。

他方、「太平洋戦争」という用語についても「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年法律第173号)等に使用されているが、「太平洋戦争」の定義を定める法令はなく、これに日中戦争が含まれるか否かは法令上定められておらず[28]、政府として定義して用いている用語ではなく、また「大東亜戦争」と「太平洋戦争」は同一の戦争かについて回答することは困難とされた

[匿名さん]

#9932021/07/13 06:03
戦後日本では、開戦時の戦争目的の不統一、GHQの政策、歴史認識問題などによって、日本が戦った戦争の呼称について様々な議論と呼称がある[30]。なお、同一の戦争に対する呼称が国家によって異なることは他国でもあるが、国内で呼称が分かれている例は日本以外ではほとんど存在しないといわれる[30]。この状況を秦郁彦は1984年(昭和59年)の『昭和史を縦走する』において「呼び名などどうでも良い、という考え方もあろうが、『名は体を現す』で、著者の基本的歴史観を判定するのに、それ(戦争の呼称)が踏み絵の役割を果たしてきたことも事実だ」と指摘している[31]。

一般的に新聞・雑誌・図書では「太平洋戦争」の使用例が多く[32]、1960年代以降「大東亜戦争」の語はタブー視される傾向がある

[匿名さん]

#9942021/07/13 06:04
「大東亜戦争」を使用する立場​[編集]

当時の宣伝画像(1943年)
「大東亜戦争」呼称を使用する立場や理由については以下のように様々である。

1953年(昭和28年)、参謀本部作戦課長の服部卓四郎が『大東亜戦争全史』を刊行、戦後初めて「大東亜戦争」を冠した著作である

[匿名さん]

#9952021/07/13 06:05
歴史認識
哲学者の上山春平は『中央公論』1961年1月号で発表した「大東亜戦争の思想的意味」において「太平洋戦争」は「占領軍によって付与された米国側の見方」とし、そのような考え方に慣れた日本人にショックを与えるため、大東亜戦争を用いたと述べた[4]。

1963年(昭和38年)から1964年(昭和39年)にかけて林房雄が『大東亜戦争肯定論』を発表し、「大東亜戦争」は薩英戦争や馬関戦争[34]、ペリー来航以来の西欧列強のアジア侵略に対抗して日本がアジア解放を目的とした「大東亜百年戦争」の集大成だったという立場から使用された

[匿名さん]

#9962021/07/13 06:06
上山春平は1964年に『大東亜戦争の意味』を刊行、「大東亜戦争」という呼称を「タブーとみなす心情のうちに、太平洋戦争史観を鵜のみにする反面、大東亜戦争史観には一顧だにあたえようとしないという二重の錯誤の根をみとめた」と当時「大東亜戦争」呼称をタブー視する風潮を批判し、「太平洋戦争」「抗日戦争」「帝国主義戦争」いずれも政治的イデオロギーであるにもかかわらず「大東亜戦争」のみ断罪するのはアンバランスであると批判した[35]。

ドナルド・キーンも1964年、論文「日本の作家と大東亜戦争」を発表した[36]。

竹内好は1964年の「日本のアジア観」で「日本の対外戦争のほとんど全部は、自衛のほかに東亜の安定を名目としておこなわれた。その最大、かつ最終のものが大東亜戦争だった」とし、「第二次世界大戦の一部」だけにつくされない、「日本人がアジアを主体的に考え、アジアの運命の打開を、自分のプログラムにのせて実行に移した」という「大東亜戦争固有の性格があった」とした[37][38]。竹内は敗戦によって日本人はアジアを主体的に考え、アジアの一員としてアジアに責任を負う姿勢を失ったとも述べた[39]。また、個人として、時には国家の命令にそむいてアジア解放運動に協力した日本人はビルマ、インドネシアだけでなく満州にもいたと指摘している

[匿名さん]

#9972021/07/13 06:08
これからは戦争の勉強しょうらよぉ

[匿名さん]

#9982021/07/13 06:09
歴史をしらんとあかんしなぁ

[匿名さん]

#9992021/07/13 06:09
質問あったらゆうてやぁ

[匿名さん]

#10002021/07/13 06:10最終レス
俺は待ってるぜぇ

[匿名さん]
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