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川崎駅前「どぶろく横丁」の形成
語り手:姜秀一さん
1953年、東京朝鮮学校の高級部を卒業した秀一さんは、日本の大学への進学を考えていたが、広島県安芸郡海田町にある自主学校から、教師として働くことを要請され、広島へ移り住む。1950年に勃発した朝鮮戦争のため、日本国内、とくに地方では、民族教育を担う教師の人材が不足しており、東京朝鮮学校で最初の高級部卒業者のひとりである秀一さんは有為な人材として誘われたのだ。
海田は土木作業に従事するために朝鮮人労働者が多くやってきた地区で、彼らが生活する飯場がもととなって形成された集住地区である。海田の自主学校は、教室が3つの小さな校舎で、当時はまだ初等教育のみが行われ、教師は秀一さんを含めてわずか3名だった。秀一さんたちは複式授業で児童たちを教え、また、中学校に相当する教育部門をつくるための運動にも携わった。
秀一さんは3年間、広島の学校で教師を続けたが、1956年に東京朝鮮大学校が創設されたのを機に、進学のために帰郷した。
海田の朝鮮学校(のちの広島朝鮮中高級学校)は、現在は廃校になり、広島市東区の広島朝鮮学園に統合されている。