1919年には三・一独立運動が起こったが、日本の憲兵警察により鎮圧された[7]。1920年の尼港事件では朝鮮人パルチザン400~1,000人程が加わった赤軍は、ニコラエフスクの住民を虐殺し、僅かな日本軍守備隊を襲撃し全滅させ日本人居留民を皆殺しにしている。
三・一独立運動以後、日中戦争に至るまでの期間は三・一運動や大正デモクラシーの影響などにより朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、内地と同様に言論や結社の自由が与えられたため、比較的自由な雰囲気の中で、朝鮮人による様々な民族運動が繰り広げられた。朝鮮は日本統治以前は厳しい身分制度に支えられた専制政治が行われており、李氏朝鮮時代は独立協会などの団体が民主主義運動を行っていた[8]。1933年に日本政府によって民主的選挙が導入されると、道議会議員の8割以上が朝鮮人となり[9]、忠清南道知事は初代以下ほとんどが朝鮮人によって占められており、その他の道知事も同様であった[9]。朝鮮文学の発展が見られ、大都市を中心に大衆文化の発展も見られた。満州国と接する北部国境地帯では、共産主義国家であるソビエト連邦の支援を受けた朝鮮独立を掲げる共産ゲリラと朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。
大型ダムの建設によって電力を供給した(水豊ダム)
1929年にカーネギー財団から朝鮮半島に派遣されたアメリカ人記者らは、「日本は併合以来19年間にして、数百年間停頓状態にあった朝鮮と、近代文明国との間に渡り橋を架けてやった。・・・また朝鮮人の苦しみもあるかも知れぬが、日本は莫大な利益をもたらしていることは明らかである」などと[10]、「李氏朝鮮時代よりも日本統治によって朝鮮人民は救われている」との評価をしている。
1931年7月2日に、中華民国吉林省長春市郊外で、朝鮮移住民と中国農民の衝突事件(万宝山事
三・一独立運動以後、日中戦争に至るまでの期間は三・一運動や大正デモクラシーの影響などにより朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、内地と同様に言論や結社の自由が与えられたため、比較的自由な雰囲気の中で、朝鮮人による様々な民族運動が繰り広げられた。朝鮮は日本統治以前は厳しい身分制度に支えられた専制政治が行われており、李氏朝鮮時代は独立協会などの団体が民主主義運動を行っていた[8]。1933年に日本政府によって民主的選挙が導入されると、道議会議員の8割以上が朝鮮人となり[9]、忠清南道知事は初代以下ほとんどが朝鮮人によって占められており、その他の道知事も同様であった[9]。朝鮮文学の発展が見られ、大都市を中心に大衆文化の発展も見られた。満州国と接する北部国境地帯では、共産主義国家であるソビエト連邦の支援を受けた朝鮮独立を掲げる共産ゲリラと朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。
大型ダムの建設によって電力を供給した(水豊ダム)
1929年にカーネギー財団から朝鮮半島に派遣されたアメリカ人記者らは、「日本は併合以来19年間にして、数百年間停頓状態にあった朝鮮と、近代文明国との間に渡り橋を架けてやった。・・・また朝鮮人の苦しみもあるかも知れぬが、日本は莫大な利益をもたらしていることは明らかである」などと[10]、「李氏朝鮮時代よりも日本統治によって朝鮮人民は救われている」との評価をしている。
1931年7月2日に、中華民国吉林省長春市郊外で、朝鮮移住民と中国農民の衝突事件(万宝山事