元祖は今はなき…須崎市西町の谷口食堂です
行った事、食べた事、あるから間違いありません
[匿名さん]
頑固で寡黙な谷口兵馬(たにぐちひょうま)さんは、戦後間もなく須崎市街の路地裏に「谷口食堂」を開業しました。戦後の食糧難の時代でしたのでラーメンの食材は、須崎周辺で調達できるものに限られていました。トッピングに使われている「ネギ」、「玉子」、そして昔から食べられている「ちくわ」など、比較的庶民でも手に入りやすい食材でした。スープについては、たまたま「谷口食堂」の斜め前が鶏屋「かし○(かしわ)の吉村」だったことから、そこで分けてもらった鶏ガラや、廃鶏を使ったスープが作られました。その流れからチャーシューの変わりに、鶏がトッピングとして用いられるようになったと言われています。
須崎市は、木材の町としても盛えた町で、安価で手に入るおがくずを燃やし、スープを炊いていたそうです。(当時はガスもあまり普及していなかったようです。)しかし開業当初、丼に入った普通のラーメンは存在していましたが、メニューには「鍋焼きラーメン」の文字はありませんでした。出前をはじめるのを機に、主人の心遣いからラーメンが冷めないよう、ホーロー鍋を使うようになったことから鍋焼きラーメンは誕生しました。
数年後「谷口食堂」の2、3軒隣の「みつだ食堂」でも鍋焼きラーメンがメニューに加えられ、「谷口食堂」がホーロー鍋を使ったのに対し、こちらは冷めにくいということで土鍋を使いました。さらにその数年後「水野食堂」という店でも鍋焼きラーメンがメニューに加えられ、この3軒(現在は全て閉店)が「須崎鍋焼きラーメン老舗御三家」となりました。昭和30年代、鍋焼きラーメンの事を須崎の人たちは「ぽこぺん」と呼んでいましたが由来は不明です。当時の麺は、高知市の「上海軒」という製麺所から仕入れていました。
[匿名さん]
その後、鍋焼きラーメンは須崎中で評判となり、当時谷口食堂の前にあった銭湯「衛生湯」の帰りに鍋焼きラーメンを食べることだったようで、鍋焼きラーメンはまさに路地裏から生まれた食文化なのです。また当時は、夜遅くまで開けている店がなく、若者のたまり場ともなっていたそうです。しかし「谷口食堂」は昭和50年にご主人が亡くなったのを機に、奥様がその後受け継がれていたが昭和55年、惜しまれながら閉店することになりました。
[匿名さん]
母親が橋本食堂の袋麺を買おうとしたけど、スーパーから撤去されてて買えなかったらしい
[匿名さん]
てか橋本食堂の袋麺は橋本が作った
モノじゃなく香川県のインスパイア屋が
売り出してるだけだからな
[匿名さん]
須崎とかマジ話し上手いもんがなんもないから、鍋焼きラーメンが有名なったがやない??
不思議なばぁ〜上手いもんがないわ
モンブランのパンばぁやろ??
[匿名さん]
須崎で以前上手いゆうカレーもいったけど
マジにあれで上手い???
ゆうたらいかんわ〜カレー粉を多く入れてて辛いだけやった
この土地の料理屋は美味いもんに努力足らんわ
ナナコのトンタロウ過ぎたら高知市で飯は食うべし
[匿名さん]
ん??
何、マギーみたいなんおるんか
でも、須崎やしなぁ
どんだけ、信じれる??
四十パーか??
[匿名さん]
しかし、鍋焼きっていう調理法で食中毒出すって
訳分からん。
なんでや??
[匿名さん]
高知の民はアルコールで常に消毒出来てるぢなぁ〜(笑)
[匿名さん]