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No.6939809
#91

元就が老衰で死去(享年75)すると、家督は孫の輝元が継いだ。

毛利輝元は、安芸の瀬戸内に面する地の利が良い平野に目を付け、その地を「広島」と命名して「広島城」を築城、毛利の本拠地とした。 (川に囲まれた平野に城を築くというのはあまり例がなく、その後の名古屋城や大阪城の築城につながっている)


輝元は、東の覇者・織田信長と対立。

秀吉が中国地方に攻め入ってきたが、備中(岡山県)高梁川より、東は織田家、西は毛利家の所領とすることで和睦した。


五大老となった輝元は、ふたたび九州方面へ勢力を拡大。

小早川隆景が筑前国・筑後国を攻略し、博多を手に入れ、博多に名島城を築き、毛利秀包に久留米城を与えた。

勢力を拡大する毛利輝元と徳川家康は激しく対立した。


関ヶ原の戦いで西軍に付いた輝元は、徳川によって中国地方8か国112万石から長州2か国29万石に減封され、本州最果ての萩(山口県)に移封された。


江戸時代の末期、長州藩第13代藩主の毛利家当主・毛利敬親は、洋式軍制を導入して練兵を行い、尊王・王政復古を大号令、藩の軍事力を強化。

毛利敬親は、藩で吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎らの人材を育てると、ついには徳川を退却させて毛利家祖先の仇を討つことに成功し、明治維新を成就させた。


[ 匿名さん ]
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