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👩‍🦰 HKT48・個人


No.5340168
合計:
#476
動労の目黒今朝次郎の場合,機関士,運転士の特権回復という熟練労働者の職能別組合の《結成理念》を持ち,機関士としての「筋金入り」のプライドに生きた人間であり,目黒を「ボス」とする主流派は「結成理念派」と名のり,労農党支持の反主流派と対立した。1961年目黒達は「同志会」(その後,労運研——労働運動研究会と改称),反主流派は政研(政策研究会)を結成した。革マル派は政研に加入し,まず青年部を掌握し,次に「東京地本を制する者は動労を制す」と呼ばれた,動労東京地方本部のヘゲモニ−を獲得し,やがて,動労全体におけるリ−ダ−シップを確立した(12)。75年スト権スト当時,初代青年部長松崎明が東京地本委員長であり,動労本部の方針は,革マル派によって強く左右されるようになっていた。彼ら“動労のっとり”工作の最大の障害は,目黒が率いる労運研の存在であった。革マル派は目黒を動労中央執行委員会から“追い出す”ために,参院議員選挙への立候補を勧めた。そして,目黒当選後,労運研=「結成理念」派の力は急速に弱体化していった。
 目黒は当時,こうなることを見すえて,すなわち,目黒の“子分”達の力が急落することを予測しながらも,また,そうなれば,組合の「結成理念」が消滅することを百も承知で,立候補に同意した。国会議員の地位を得るために,自分の“子分達”を見捨て,組合運動における自らの「理念」を放棄した。そして,1992年「勲二等瑞宝章」に“輝やき”,大きな名誉を得ることになった。目黒は地位と名誉獲得のために“子分”“仲間”を「裏切り」,「理念」を捨てて,革マル派の「軍門」にくだったのである。


[ 匿名さん ]
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