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🕌 宗教総合


No.8082836
#544
しかし神のざねんのことには、すでに教祖御帰幽後の二十五年間でそのだめの教えの神の道は
頓挫した。
神道部属の六等教会の天理教会が、教派独立の公認宗教となるために、世俗的な価値観と教団と
いう組織秩序形成に民間以上に熱心に懸命になり、それを信仰と錯誤し、一部の者は故意的に、
あたかも未必の故意として現状の天理教まで予想しつつ、教団組織と巨大建造物の普請に走ったの
かもしれない。
たとえ、東大に最初に宗教学研究室に設けた姉崎博士による「江戸幕府を参考にすればよい(?)」(伝聞)
という忠言をもらったといえども、残念と思う。

結果的には、律があっても…との教祖の言葉に反し、当時の未熟な国家権力と妥協した応法の時代に
だめの教えの主要部分であり本来の、ほこり払い、魂磨きの連続の末にあるめいめいの社という教理を投げた。
他の神道系でも仏法で想定されてもしない究極の最高の目標でありだめの教えの信仰の出現の原点である部分
を見事に捨象し、空洞化した世上道理を運用多用する道に変えてしまった。

つまり、本来の教祖の教えから見ると、相当程度の異端教理が本流の天理教理としてすり替わっていった。
あえてすり替えていったとしなかったのは、上である方が言われている通り、途中で月日両神も、もう指図はしないで
と言って半ば諦めた教祖のように、投げ出した可能性もあるからである。
つまり動作主としての1人ひとりとしての当時の本部を中心とする重鎮の立場の行為の積み重ねであり、それ故の
方向づけられた当時や現在の天理教であるのだが、神の方からの子たちへの倍の力をなどのコミットを諦めた可能性
がないとは言い切れないからである。
ただ復元せずに、やかた普請に走った時点では、…あったかなと推測してしまう。


[ 匿名さん ]
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