爆サイ.com 沖縄版

🧢 高校野球全国


No.3627137
合計:
#76
創部は1908(明治41)年。夏の予選には1916(大正5)年から参加していたが、しばらくは全国大会への道が遠かった。そんな現状を打開するためだったのか、当時は日本の統治下にあった台湾の、運動能力にたけた選手に目をつけた。
 台湾では、日本の大正末期から野球が盛んになっていた。中学生クラスの現地人チームも活動していたが、当時の平安中はその中にいた投手、捕手、遊撃手の3人を“留学生”として来日させた。
 当時、台湾には西本願寺の別院があり、その院主が3人の野球能力にほれ込んでスカウト。同寺の系列校である平安中に送り込んだというわけだ。独自のネットワークで“助っ人”を獲得するなどは、画期的なことだった。
 26(同15)年9月に平安中入りした3選手は、それぞれ伊藤次郎投手、西村喜章捕手、稲田照夫遊撃手と日本名で試合に出場。翌年に入部した伊藤の弟・正雄と岡村俊昭を加えた5人の外国人部員はチームの中心選手として貢献した。
 27(昭和2)年夏に甲子園初出場。初戦の相手が台湾代表の台北中だったことは面白い(試合は5−3で勝利)。以降、何と10季連続出場を果たした中で夏の準優勝もあり、最初の黄金期といえる時代を築いた。
 この間、伊藤次郎は7度、岡村は6度も甲子園に出場。ともに日本のプロ野球でも活躍した。
 当然のように、平安中の“助っ人獲得”は物議をかもした。ライバル校からは、やっかみ半分の非難の声もあがった。問題視されたのは、日本名を付け、台湾出身選手という事実を隠匿するようなやり方だった。まだ、外国人留学生や選手の年齢に関する規定が曖昧な時代だった。賛否はともかく、平安の伝統の礎を外国人選手が築いたことは確かだ。


[ 匿名さん ]
TOP