爆サイ.com 山陰版

🛩️ 自衛隊・軍事全国


No.1840550
#69
1939年、陸軍を中心に独伊との軍事同盟を求める声があがる。両国はファシズム国家であり、同盟を結べば米英との対立は避けられない。山本は祖国を危険にさらす軍事同盟を阻止するため、海軍大臣の米内光政、軍務局長の井上成美と共に抵抗した(米内も井上も海外駐在経験があった)。

山本ら“知米・非戦派三人衆”は「腰抜け」と批判され、右翼は山本を国賊と呼び、暗殺計画が噂された。あくまでも同盟反対を貫く山本は遺書を記す。「死んで君国に報いるのは武人の本懐だが、それが戦場であろうがなかろうが変わりはないのだ。いや、戦場で死ぬことよりも俗論に抵抗し、正義を貫いて死ぬ方が本当は難しく大変なことなのだ」。

翌年、新しい海軍大臣・及川古志郎が東条英機に押し切られ、日独伊三国同盟の締結が決定する。この報を聞いた山本は及川に詰め寄った。「政府の物資計画は八割まで英米圏の資材でまかなっているが、この先は英米から資材は入らぬ。その不足を補うため、どういう計画変更をやられたのか聞かせていただきたい」「もう勘弁してくれ」「勘弁ですむか!」。

山本は近衛首相から「対米戦争をすればどんな結果になると思うか」と問われ、次のように返答した。

「実に言語道断。自分は戦艦で命を落とすだろう。そして東京や大阪あたりは三度ぐらい丸焼けにされてしまうだろう」。

その後、山本が恐れていた通り、米国は対日石油禁輸に踏みきった。 日本は追い詰められ対米開戦へと突き進み、皮肉なことに非戦派の山本が攻撃作戦を立案する立場になってしまう。「個人としての意見(開戦反対)と正反対の決意を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場はまことに変なものなり。これも命(天命)というものか」。


[ 匿名さん ]
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