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No.5463894
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>>503
また、彼女は犬居城攻めに参戦した井伊直虎の曾祖父直平を出陣前にお茶に誘い、お茶に毒を入れて抹殺するなど、意外と破天荒な一面もあり、それに怒った今川氏真が新野左馬ノ助ら3000の兵を送り、曳馬城を攻撃させました。

しかし、飯尾方の反撃が厳しく、数多くの有力な家臣を失った今川軍は落城させることができず、和睦という形で曳馬城を撤退することになりました。

後日、城主の連竜が今川氏真に呼ばれて駿府へ赴き、非業な死をとげますが、これには諸説あり、連竜の嫡子の婚姻話をエサに誘き寄せられた説や、抹殺を命じられた家臣が新野左馬ノ助だったという説など、不明瞭な点が多いようです。

連竜の死後、家臣の江間時成と江間泰顕が曳馬城を守り、彼女もこれに貢献しました。

やがて、時成が徳川家康に服従しようとしたため、武田方を支援していた泰顕の家臣に殺害され、有力家臣を失った彼女は、女城主として曳馬城を引き継ぐことになります。

この時、彼女は武田方の勇将・武藤喜兵衛(後の真田昌幸)を頼って武田方に内通したとも言われています。

1568年に徳川家康が家臣の松下常慶らを使者として、彼女に降伏を促しましたが、断固として拒否し、後に徳川軍に攻め入られることになります。

この拒絶の理由としては、徳川方に付いた飯尾家が危急の際に、救援に来なかったことが挙げられます。

こうして、彼女は曳馬城を850人で徳川軍を迎え撃ち、酒井忠次と石川数正に二の丸、三の丸を攻め込まれると、自らも鎧を着て、髪を垂れ、薙刀を振るって侍女17人と共に並び、門から突撃して全員討ち死にしました。


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