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📿 創価学会


No.8760695
#46
>>45の続き
・1972年5月、周恩来は公明党の代表団を招待していた。
(この1月下旬には、激しく展開していた「日本軍国主義」批判キャンペーンをぴたりと止めていた。)

そして、「次期総理は田中さんで間違いありませんか。私は田中さんには恥はかかせません、と是非お伝えください。」と伝えた。
[(周恩来中国共産党による公明党懐柔へ。)]

・田中は、福田と同じ「親米・親台湾」の佐藤栄作派閥に属していたが、「日中国交回復」を飲み、親中派の大平派、三木派を懐柔して政権をとることになる。

・1972年7月7日、田中角栄政権が誕生するや、孫平化らは公明党の竹入義勝委員長らと接触した。
 
・1972年7月25日、中国側の要請を受けていた竹入委員長らは、密かに香港経由で北京入りした。勿論、事前に田中角栄や大平正芳外相とは綿密な打ち合わせを済ませていた。竹入・周会談は7/27、28、29と3回に渡り、日中国交樹立の概要が決まった。

 中国側は対日賠償請求の放棄、日台国交断行の基本合意である。

(3)日中国交樹立

・1972年9月25日、田中は北京入り、以後29日まで交渉は続く。周恩来は公明党を通じ「賠償請求権を放棄する」と伝えていたが、会談では賠償問題を持ち出した。

 田中・大平側はうろたえた。その後その問題をあっさりと引っ込めた代わりに、巨額な援助を持ち出す。これが総額6兆円に上るODAとなって現在に至っている。 [ここら辺にも、公明党の入れ知恵が臭わないでもない。]

・前年の1971年に中国は突如、尖閣列島の領有権を主張し始めている。
 本来の国交正常化交渉であれば、当然真正面から議論すべきであったが、しかし田中は交渉の難航を恐れて、この問題を棚上げにしてしまう。


[ 匿名さん ]
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