爆サイ.com 北陸版

キリスト教


No.9874079
#34
主イエスに「繋がっている」ところに、まことの自由があります。
そのとき、私たちは、何物をも恐れません。ただ、主イエスという糸から、切り離されてしまうことだけを恐れます。
自由である、ということは、恐れるものがない、ということです。人間は、様々なことに、恐れを感じます。
先ず、世間体を恐れます。人の目、世間の評判を恐れます。
また、この世の様々な権力を恐れます。或いは、自分の将来を恐れます。
そして、何よりも、死を恐れます。これらの恐れによって、活き活きとして生きることができずに、自由が奪われてしまいます。
これらの恐れから解放され、ただ神様のみを恐れる。それが、本当の自由です。
先ほどの羽仁もと子さんのように、軍部の圧力をも恐れない、毅然とした生き方。
それが、本当の自由に生きる生き方です。主イエスの言葉に、留まり続ける時、その自由を貫くことがでる、と御言葉は言っています。
主イエスが語られた、迷子の小羊の譬えを、想い起してください。自由に歩き回りたいと思って、羊飼いの許を飛び出した小羊。
始めの内こそ、楽しく歩いていましたが、やがて、夜になり、野の獣が恐ろしくなります。
お腹も空いて、飢えの恐怖に襲われます。夜の闇が恐ろしくなります。どこへ行って良いか分からず、堪らない不安に襲われます。自由に生きられる、と思っていたのに、様々な恐れに取り囲まれて、身動きすらできなくなります。
そんな時、自分を捜し求める、羊飼いの声を聞くのです。「わたしの愛する子よ、あなたはどこにいるのか」。
羊飼いに見出されて、その懐に抱かれた時、小羊は、初めて分かるのです。「ここが、私にいるべき場所だ。ここに留まっていれば、恐れはない。これが、まことの自由なのだ」。
御言葉に留まっている時に、私たちは、まことの自由に生きることができるのです。
「私の言葉に留まる」、ということに関して、主イエスは37節で、ユダヤ人たちに、こう言っておられます。
「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」。
私の言葉を受け入れないならば、それは、結局、私を殺すことになるのだ、と言われているのです。ここにいる私たちは、主イエスを、十字架につけたりしないかも知れません。


[ 匿名さん ]
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