世の法は、真理は一つ。
仏法的なものの見方というものは、縁起感、縁起をするということで正しく物を見て取るということ。
しかし縁起はするが無常であり 無我であるという物の見方が出来なかったら、それは仏法的な見方ではありません。
(世間話)
それだけは止めた方がいいよ、という事を止悪という。修善というのは善を修す。
だからホラホラ白楽天ですか?道林禅師の元へ尋ねていって 唐の国ですね役人か県知事のような役ですかね 赴任して有名な坊さんがいる。
どんな力量な人間かを さあ試してやろうと行ったら、その通り 頭の上の木の枝の上の所に座禅を組んで座っている。
何もそんな上でせんでもよかろうと思う彼は
「仏教とは何ぞや」
と問いかけた。
彼いわく
「悪いことはしなさんな。いい事をする事。そして自分の心というものが、けがれのなきように、清きものにあるように保つ事。これで仏教おしまい」
とこうやった。
出来る事を一生懸命努めなさい。そうしたら悪い種もあるが 良い種が多くなって少しずつ差がついたら幸せになっていく。
白楽天 (木の上を見ながら)そんなことなら三つ子でも知っているよ。そんなものか仏教というものは。その為に難しい顔をして 朝から晩までムーとして座っているのか?(アホか)
道林禅師 (上から見おろして)そんなものは三つ子は知っていても百才になっても、ようしきらんだろう
三才の童子これを知ると言えども 百才の爺これ行なう事難し。
白楽天 何もそんな上でせんでもよかろう。
道林禅師 わしは落ちても木の上から下まで落ちたら終わりじゃが お前見てみろ。
お前は上から一言フーとされると地から転げ落ちて地獄の真っ只中までも落ちて行かねばならぬ 我が足元が見えないか?
と言われて彼も目をさまして まともにやっていく。
仏教というのは こう言うものなんですよ。
全ての現象、種というものは自分と取れるようになるまでは修行しないといけない。