ドラフト1位のマスコット人生
ドラフト1位で巨人に入団した島野修は、1976年、阪急にトレードされたが1軍登板がないまま引退した。
阪急のフロントは、「メジャーリーグで流行っているマスコットパフォーマンスを日本でもやったら面白いと思う。島野君、やってもらえないか」と打診した。
当時、プロ野球にマスコットパフォーマンスは無かった。日ハムとヤクルトにマスコットはいたが、パフォーマンスはしていなかった。
島野は、「そんなもん恥ずかしくてやれるか!」と断った。プライドがあった。
阪急は、メジャーリーグのマスコットパフォーマンスの映像を見せた。
◎「野球を知っていないとできない仕事だよ」
阪急からのその言葉が、島野の背中を後押し、日本初のパフォーマンスをするマスコット「ブレービー」が西宮スタジアムにデビューした。
◎「ドラフト1位島野が 今はピエロ」
大手マスコミが報じた。
阪急は、ブレービーの中の人を非公開にしていた。だからこそ島野もパフォーマンスに集中していた。
しかし報道以降、ブレービーに、「おーいドラフト1位」「島野、情けないぞー」といったヤジが飛んだ。
島野は「今年いっぱいで辞めよう」と決意した。
◎「ブレービー、めっちゃおもろかった」
ある試合後、西宮市内で陰鬱としていた島野の耳に、こんな会話が漏れ聞こえてきた。
「ブレービー、めっちゃおもろかった。また、見に行こうな、お父ちゃん」
その子の言葉が、島野の決意を翻した。次の日からヤジも気にならなくなった。
◎「島野君のおかげで100万人、行ったよ」
子どもファンが増えた阪急は、パ・リーグでは異例の観客動員100万人を突破した。
阪急は島野修に感謝を表した。