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1975年3月13日、広島県立体育館でNWF世界ヘビー級選手権の王座決定戦が行われました。
この試合に至るまでに、NWF本部と新日本プロレスの間に壮大なドラマがあったのです。
1975年2月、NWFサイドは新日本プロレスに対して、
執拗にタイガー・ジェット・シンとのタイトル防衛戦を指示してきました。
これはNWF世界ヘビー級のタイトルコンテンダー1位のシンの要求をNWF本部が受け入れたもの。
これに反発したアントニオ猪木は、1975年2月11日に急遽渡米。
ニューヨーク・デラウェア・アベニューのバッファロー・ヒルトンホテルでNWF首脳部と会談を持ちました。
■NWFサイド
デビッド・ヘルマン会長 ジョニー・ケイン(タイトル委員長)
ジョニー・パワーズ(プロモーター代表) トーツ・モント(黒幕の大ボス)・・・所用により欠席
この席で猪木は「シンにはタイトルに挑戦する資格なし」として防衛戦指示の撤回を申し入れました。
しかし主張は聞き入れられず、業を煮やした猪木はタイトル返上を申し出ることに。そして会談は決裂。
デビッド・ヘルマン会長は、NWFタイトル保持者を掌握出来ていなかったことで引責辞任することに。
後日、NWFサイドと猪木の仲裁役としてカール・ゴッチが来日。
ゴッチの説得やヘルマン会長が辞任して責任をとったことなどから新日本プロレスは態度を軟化させて、
猪木vsシン戦は「王座決定戦」という形で対戦を承諾しました。
そして、ついに3月13日の広島大会での猪木vsシン戦が実現したのでした。
指令、渡米、会談、決裂、引責辞任、仲裁、実現・・・壮大なドラマですね。
このストーリーの黒幕が気になります。
月刊ゴング誌、月刊プロレス誌ともに同様の内容を報じていることから公式なストーリーです。
と言うことは先行して日刊で情報を伝えることが出来る“東京スポーツ”が黒幕なのでしょうか。
こういったストーリーの仕掛け人は、やっぱり櫻井康雄さん?