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NO.8214714

新潟 高校サッカー 28
報告 閲覧数 907 レス数 1000

#7512020/03/14 16:16
本田の代名詞
無回転フリーキック

[匿名さん]

#7522020/03/14 16:20
>>751
本田の代名詞は、VTECエンジンだ

[匿名さん]

#7532020/03/14 16:20
>>750
それ、普通のレシーブな

[匿名さん]

#7542020/03/14 18:11
頑張れ新潟工業サッカー部!

[匿名さん]

#7552020/03/14 18:41
>>754
サッカーネタの場合、もう一方をご利用ください。荒れる原因となります。振り逃げなどの書き込みは、ご自由に。

[匿名さん]

#7562020/03/14 21:01
目くそはなくそ

[匿名さん]

#7572020/03/14 22:40
>>754
古豪復活厳しい?
公立も頑張ってほしいね

[匿名さん]

#7582020/03/14 22:40
この荒らし誰にも相手にされてねーwww
精神的におかしいやつなんだろうね。

[匿名さん]

#7592020/03/14 22:49
スーパーカートリオとは、1985年シーズンに日本プロ野球(NPB)の横浜大洋ホエールズでトリオを組んだ高木豊[1]、加藤博一[2]、屋鋪要[3]の俊足打者3人を指す。


概要[編集]

1985年シーズンに横浜大洋ホエールズ監督の近藤貞雄がチームの俊足打者3人を1番高木豊、2番加藤博一、3番屋鋪要の打順に並べてスポーツカートリオと命名したが、後にマスメディアがスーパーカートリオと名付けて報道したので、この名称が定着した[4]。あるいは、当時野球解説者だった長嶋茂雄が言い間違えたのが定着した原因ともいわれている[5]。

1985年シーズン前の春季キャンプ時にそれぞれ監督室に呼ばれ、近藤監督から「50個アウトになってもいいから、100個走れ」と言われた。横浜スタジアムは当時では最も広い本拠地球場であり、大洋は「足で勝つ」という意識が高く、実績が無くても走れる選手がどんどん一軍に上がってきた。加藤は、レオン・リーが調子を落としていた時に「3人が塁上でウロウロするから集中出来ない」と監督に言ったところ、「ウチは走るチームだから我慢しろ」と言われたという話を通訳の人を通して聞き、「この監督の下ならいくらでも走っていられる」と思ったという[6]。

よく3人で何時間もビデオ室にこもり、それぞれが気付いた投手の牽制のクセなどを話し合っていたという。高木はミートと選球眼に長け、加藤は初球からは打ちにいかずに打席で粘った。屋鋪は当時の球界で一番足が速いと評価されていたが、チャンスメイクするよりもクリーンナップ向きの打者だった[7]。

この年の3人の盗塁数は高木が42盗塁、加藤が48盗塁、屋鋪が58盗塁の合計148盗塁だった(チーム盗塁数は188で12球団トップ)[8]。1チーム3人以上が40盗塁を同時に記録したのは日本プロ野球(NPB)史上でもこの一度だけである[5]。また、3人揃ってセ・リーグ最多三塁打5を記録している[4]。なお、高木は前年セ・リーグ盗塁王、屋鋪は翌1986年から3年連続セ・リーグ盗塁王のタイトルを獲得したが、加藤が大洋で規定打席に到達したのはこの1年だけである[9]。1987年からは加藤の代わりに高橋雅裕を加えたニュースーパーカートリオが結成された。なお、加藤は1990年に引退した。

[匿名さん]

#7602020/03/14 22:50
スーパーカートリオの活躍は当時連日のように報道され、多くの人々の関心を引いた[4]。3人揃っての活躍は1年限りだったが、後の雑誌でも特集され、語り継がれている[4]。

2006年7月16日の対広島戦のイベントとして復活し、打者・田代富雄、広島の川口和久と達川光男のバッテリーと1人1回限りの盗塁対決を行った。結果は高木が二盗死、加藤が牽制死、屋鋪が二盗成功となった。

加藤博一は2008年1月21日に肺がんのために56歳で逝去[10]。同年4月12日の横浜対阪神戦の試合前に追悼式典が行われ、高木と屋鋪も出席した。高木は「ライバルであり、良き友だった」、屋鋪は「ライバル心があったからこそ盗塁数を伸ばせた」とそれぞれ語り、故人をしのんだ[11]。

スーパーカートリオの他に「機動力野球」を持ち味としたNPB歴代の代表的なユニットとして2001年の阪神タイガースの赤星憲広、藤本敦士、沖原佳典ら俊足7選手で構成された「F1セブン」がある[12][13]。

3選手の盗塁数[編集]

加藤が入団する1983年から引退する1990年までの3選手の盗塁数は以下の通りである(盗塁数の太字は最多盗塁)[9]。

大衆文化への影響[編集]

コンピュータゲーム『実況パワフルプロ野球』シリーズではOB選手としてこの3人が登場しているが、いずれも特殊能力「スーパーカートリオ」を所持している[14]。ただし、その効果は現役選手の「積極盗塁」(COM操作時に盗塁する確率が上がる[15])と同じものであり、盗塁のうまさを表した「盗塁」は屋鋪・加藤が「盗塁4」(盗塁がうまい)だが、高木のみ「盗塁3」(普通)であった。ただし、走塁のうまさ(要するに動きの無駄の無さからつながるベースランニングタイム)は3人とも「走塁4」(走塁がうまい)であり、走力(純粋な足の速さ)そのものも3人とも最高クラスをマークしている。

また、打った直後のスタートダッシュが早くなる内野安打○も3人とも所持している。

[匿名さん]

#7612020/03/14 22:50
高木 豊(たかぎ ゆたか、1958年10月22日 - )は、山口県山口市生まれ[1][2]、同県防府市育ち[3][4]の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投左打)・コーチ、野球解説者、野球評論家、タレント、YouTuber。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

山口県山口市で生まれる[2][5]。父親の仕事の都合で転居が多く[5]、福岡県→鹿児島県→愛媛県→福岡県→北海道帯広市へと転居を繰り返すが[1][2][5]、中学3年の2学期に母方の郷里である山口県防府市へ単身で移り住む[5]。転勤族のため、せめて高校時代は転校なしで済ませたいという両親の配慮であった[5]。野球では中学3年時に北北海道地区で頭角を現し、多々良学園高校に進学。1976年の秋季大会では1年生ながらエース、三番打者として中国大会まで進む[5]。しかし準々決勝(初戦)で小林誠二(広島・西武)を擁する広島工高に完封負け[5]。結局高校時代は甲子園出場を果たせなかった[5]。

卒業後は中央大学へ進学し、名将・宮井勝成の指導を受ける。東都大学野球リーグでは1979年に1年上のエース・香坂英典を擁し、春季リーグで5年ぶりに優勝。同年の日本選手権でも決勝で早大を降して優勝し、同年から2年連続で日米大学野球の代表にも選出された。リーグ通算107試合出場、402打数115安打、打率.286、2本塁打、28打点。ベストナイン(二塁手)4回。115安打は藤波行雄の133安打に次いでリーグ歴代2位。

[匿名さん]

#7622020/03/14 22:51
プロ野球選手時代[編集]

1980年のドラフト3位で横浜大洋ホエールズに入団し、1年目の1981年は二軍監督の須藤豊に鍛えられる。

2年目の1982年は二塁手、外野手を兼ねて67試合に先発出場。

1983年は開幕戦のみ基満男が二塁手で起用されたが2試合目以降は高木が起用され[6]、同年から4年連続で打率3割を記録。この1983年に一時は右打ちに取り組みスイッチヒッターとなったが、右打席の状態が思わしくなく、すぐに左打ち一本に戻している[7][8]。二塁手としてダイヤモンドグラブ賞に選ばれた[9]。

1984年に56盗塁で盗塁王を獲得すると、1985年には監督の近藤貞雄の発案で加藤博一・屋鋪要と共に「スーパーカートリオ」を結成[10]。同年より山下大輔が二塁手、高木が遊撃手にコンバートされる。1985年には遊撃手でセリーグベストナインに選ばれた。

1987年からは高橋雅裕の台頭に伴い元の二塁手に戻る。シーズン守備率でリーグ記録となる.997を記録。

1990年は打率.323でリーグ2位[11]。1992年、巨人戦において通算300盗塁を達成。ただし失敗も多く、盗塁成功率.643は300盗塁以上で歴代ワーストである。

1990年、1991年は2年連続で二塁手としてセリーグベストナインに選ばれた。

1992年オフの契約更改で年俸の交渉がまとまらず(3年連続3割でアップを主張する高木に対して、球団は前年より貢献度が下がったことを理由にダウン提示)、年俸調停を申請[12][13]。この結果、高木は球団の提示額よりわずかな上積みを勝ち取ったが、これが翌年の解雇の要因になったのは間違いないと高木は後に語っている。「横浜ベイスターズ」に球団名を変更した1993年は、二塁手のロバート・ローズの入団により、開幕から三塁手として出場したが、弱肩および石井琢朗・進藤達哉の成長もあり、間も無く一塁手にコンバートされる。閉幕まで全試合に出場したが同年オフ、チームの若返り策の一環として屋鋪、山崎賢一ら多くのベテラン選手とともに自由契約を通告される(同オフから導入のFA制度で巨人から移籍した駒田徳広獲得の為の資金調達の犠牲となったとする報道もあった)[14]。なお1993年の1年のみ使用された個人応援歌は後に内川聖一に流用され、東京女子流のシングル「頑張って いつだって 信じてる」(avex trax、作詞:井辺清・黒須チヒロ、作曲:清岡千穂、編曲:松井寛)にも使用された。

[匿名さん]

#7632020/03/14 22:51
1994年の所属先については、当初中日ドラゴンズ入りが内定したものの、新外国人選手との兼ね合いで一時獲得から降りたことが元で[15]後に白紙撤回となり[16]、最終的に監督の大沢啓二が初交渉時から出馬するなど終始誠意を見せていた[15]日本ハムファイターズに入団した。日本ハムでは左翼手としてプレーしたが、低調な成績に終わり、チームも10年ぶりの最下位に低迷、同年オフに現役を引退。監督の大沢啓二は、著書の中で高木について「横浜を自由契約となった高木を獲得したんだが、あいつはもっとやれると思っていた。けど、やっぱり力が衰えてたんだなあ。打線のブレーキになっちまった。」と記している[17]。現役時代は2度退場処分を受けた[18][19]。

引退後[編集]

引退後はサンミュージックと契約し、芸能人に転身。ドラマや歌番組・料理番組に出演し、朴訥なキャラクターとして活躍する。1997年よりフジテレビ解説者となり、野球評論を中心に活動。2001年には横浜の一軍内野守備・走塁コーチに就任するが、ミーティングの内容を喋るなど監督の森祇晶から不評を買い、1年で辞任。2002年からはフジテレビ解説者の活動を再開し、プロ野球中継ベンチ解説などの傍ら、2004年にはアテネオリンピック日本代表の内野守備・ 走塁コーチを務めた。

2012年、ヘッドコーチとしてこの年DeNAに親会社が変更になったベイスターズに復帰。中畑清がDeNA監督時代招聘した唯一のコーチが高木である[20]。9月15日、神宮球場で行われた対ヤクルト戦で監督の中畑が当時3塁塁審だった深谷篤審判員に暴力行為を働いて退場処分を受けた事に伴い、試合終了まで監督代行を担当した[21]。2012年は最下位に低迷。

2013年、一軍チーフ兼打撃コーチを担当したが、10月9日に球団からコーチ契約を更新しないことが発表されたため退団した[22]。なお、横浜DeNAからの退団を機に、公式ブログを開設。

2014年、フジテレビで三たび解説者を務める[23]。

2017年、STVラジオの解説者に就任。

[匿名さん]

#7642020/03/14 22:51
2018年、YouTubeのチャンネルを立ち上げた。[24]。開設当初より同チャンネルではお笑いコンビ・孝行球児をアシスタントに据えて活動していたが、同コンビが元々のお笑い活動を優先することとなったため、2019年7月の動画を最後に出演しなくなった[25]。何人かのフリーアナウンサーがアシスタントを務めていたが、現在は森藤恵美をアシスタントに据えている。2019年9月には2つ目のYouTubeチャンネルを立ち上げた。

2019年1月、音楽プロデューサーYANAGIMANのYouTubeチャンネル『桜坂ちゃんねる』内の番組でメインMCを務める[26]。

人物[編集]

長男の高木俊幸(セレッソ大阪)、次男の高木善朗(アルビレックス新潟)、三男の高木大輔(ガンバ大阪)は、いずれも東京ヴェルディ1969の下部組織出身のプロサッカー選手であり、ユース時代から揃って年代別日本代表に選出されるなど、「高木三兄弟」として注目されていた[27]。そのこともあって、『すぽると!』出演時には、「サッカー通の野球解説者」として、野球解説だけでなくサッカー解説を担当することもある。高木自身もサッカーの名門校多々良学園(現在の高川学園)出身である。

2005年1月より男性用かつらメーカー・アートネイチャー「ヘア・フォーライフ」のCMキャラクターを務め、出演するテレビCMが放送されていた。

2016年6月、札幌・すすきのにガールズバー「Second」をオープンさせた[28]。12月には都内に2号店をオープンしている[29]。

[匿名さん]

#7652020/03/14 22:52
各年度の太字はリーグ最高
大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

タイトル[編集]
盗塁王:1回 (1984年)

表彰[編集]
ベストナイン:3回 (遊撃手部門:1985年 二塁手部門:1990年、1991年)
ダイヤモンドグラブ賞:1回 (二塁手部門:1983年)
オールスターゲームMVP:1回 (1985年 第1戦)

記録[編集]
初記録初出場:1981年4月9日、対読売ジャイアンツ3回戦(横浜スタジアム)、8回裏に中塚政幸の代走として出場
初安打:1981年4月24日、対中日ドラゴンズ1回戦(横浜スタジアム)、7回裏に屋鋪要の代打として出場、鈴木孝政から二塁打
初先発出場:1981年5月10日、対読売ジャイアンツ8回戦(横浜スタジアム)、2番・二塁手として先発出場
初盗塁:1981年5月19日、対ヤクルトスワローズ5回戦(横浜スタジアム)、7回裏に二盗(投手:松岡弘、捕手:八重樫幸雄)
初打点:1981年6月11日、対阪神タイガース11回戦(阪神甲子園球場)、2回表に伊藤宏光から
初本塁打:1982年5月3日、対ヤクルトスワローズ5回戦(横浜スタジアム)、5回裏に松岡弘からソロ
節目の記録1000本安打:1989年6月13日、対中日ドラゴンズ8回戦(ナゴヤ球場)、6回表に今中慎二から右前安打 ※史上156人目
1000試合出場:1989年8月1日、対阪神タイガース14回戦(阪神甲子園球場)、1番・二塁手として先発出場 ※史上288人目
300盗塁:1992年8月19日、対読売ジャイアンツ20回戦(横浜スタジアム)、3回裏に二盗(投手:木田優夫、捕手:吉原孝介)  ※史上22人目
1500本安打:1992年8月27日、対ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場)、8回表に伊東昭光から中前安打  ※史上60人目
300二塁打:1993年6月27日、対中日ドラゴンズ15回戦(ナゴヤ球場)、5回表に山田喜久夫から二塁打 ※史上30人目
1500試合出場:1993年7月8日、対読売ジャイアンツ13回戦(東京ドーム)、3番・一塁手として先発出場 ※史上107人目
その他の記録オールスターゲーム出場:8回 (1983年 - 1986年、1988年、1990年 - 1992年)

背番号[編集]
16 (1981年、1994年)
3 (1982年 - 1993年)
85 (2001年)
77 (2012年 - 2013年)

[匿名さん]

#7662020/03/14 22:52
関連情報[編集]

出演番組[編集]

※特記ない限り、フジテレビ系列の番組
プロ野球中継 野球道 (フジテレビ系列)
SWALLOWS BASEBALL L!VE
STVファイターズLIVE(STVラジオ)

すぽると!
プロ野球ニュース 2014年現在、上記スポーツニュース番組に両方とも出演しているフジテレビ解説者は高木ただ1人となっている。
スポーツワイド Fの炎〜SPORT HOKKAIDO〜(UHB。2011年2月7日放送より)
tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE(tvk。不定期)
ぽっかぽか(俳優として。白川保役)
くにまるジャパン 極(文化放送。不定期)

著書[編集]

単著[編集]
『オレだから言えるプロ野球・奇想天外の舞台ウラ』(スコラ、1995年3月、ISBN 4796202722)
『父親次第』(日本経済新聞出版社(日経プレミアシリーズ)、2009年7月、ISBN 9784532260521)

監修[編集]
『プロから学ぶ野球技術:第2巻(バッティング+走塁編)』(アポロ出版、2005年2月、ISBN 487454990X)
『プロから学ぶ野球技術:第3巻(守備編)』(大野豊共監修、アポロ出版、2005年2月、ISBN 4874549918)
『小・中学生のためのワンコイン野球教室:3(フィールディング編)』(簑田浩二共監修、ベースボール・マガジン社、2006年8月、ISBN 4583613938) 『小・中学生のための野球上達トラの巻:2(フィールディング編&フォーメーション編)』(新装改訂版、簑田浩二・本西厚博共監修、2007年6月、ISBN 9784583614618)
『小・中学生のための野球上達法:決定版!:1 (打撃編&守備編)』(新装改訂版、大島康徳・簑田浩二共監修、2008年5月、ISBN 9784583615325)

[匿名さん]

#7672020/03/14 22:53
加藤 博一(かとう ひろかず、1951年10月9日 - 2008年1月21日)は、佐賀県多久市出身のプロ野球選手(外野手、右投両打)、野球解説者、タレント。

経歴[ソースを編集]

多久工業高時代は足の速さを買われ、地元の駅伝大会に陸上部の助っ人として出場した事がある。打撃練習時には隣接する多久警察署に打球が何度も飛んでいったためにネットが増設され、通称「加藤ネット」といわれた。高校の2年後輩に、マラソン選手で現在は天満屋陸上競技部監督を務める武冨豊や、大相撲幕内力士の天ノ山静雄がいた。

国士舘大学や社会人野球チームからも勧誘されていたが、1969年に西鉄ライオンズへドラフト外で入団。伊藤光四郎二軍打撃コーチに「お前のバッティングでは飯が食えん、左で打て!」と言われ、スイッチヒッターに転向。当時の給料は5万円であったため、オフシーズンになると靴の配送・飲食店の厨房・鮮魚店勤務などアルバイトをして生計を立てた。

1974年には打率.359でウエスタン・リーグの首位打者に輝く。公式戦出場は1972年の3試合にとどまり、6年間でわずか1打席しかチャンスを貰えなかった。

1976年に鈴木照雄・五月女豊(後述する大洋時代に同僚となる)との2対2の交換トレードで、片岡新之介と共に阪神タイガースへ移籍。太平洋クラブ時代はファームに甘んじていたが、ファームの阪神戦(甲子園球場)での活躍を見た吉田義男監督が獲得に動いた。移籍後も二軍暮らしが続いたが、1976年・1977年と2年連続でウエスタン・リーグの盗塁王を獲得。1977年オフの納会ではピンク・レディーの形態模写をやってチームメイトの人気を集める。

[匿名さん]

#7682020/03/14 22:53
1979年からは「つちのこバット」を使用するようになり、阪神と因縁のある江川卓に強い男として売り出した。プロ入り後の初本塁打も甲子園初登板の江川から打ったものであり、1980年も含めて江川から3本の本塁打を放っている。この年より監督に就任したブレイザー監督にそのガッツを買われた。1980年には一気にレギュラーに定着。打率.314で打率ベストテンの5位に入ると共に、高橋慶彦(広島)と盗塁王争いを演じ、阪神から1956年(吉田義男)以来の盗塁王誕生かと思われたが、高橋の38盗塁に及ばず34盗塁でタイトルを逃した(阪神の盗塁王はその後世紀を超えて赤星憲広が出現するまで誕生しなかった。また、当時の甲子園の土は盗塁に不利と言われていた)。1981年オフのファン感謝デーでは福間納や似鳥功(打撃投手)と共にイモ欽トリオの形態模写を披露し、阪神ファンの人気を不動のものとする。

1983年に野村収との交換トレードで横浜大洋ホエールズへ移籍。移籍は当時の安藤統男監督からゴルフ場で告げられたという。「ダメでも、いずれ阪神に戻す」と言われたが、「その時にはもう監督でないかもしれないから(保証はない)」と反論した。大洋では2番打者に定着し、1985年には近藤貞雄監督の下、高木豊、屋鋪要と「スーパーカートリオ」を結成。3人で3ケタの148盗塁を記録し、個人では48盗塁とリーグトップの39犠打を記録した。1986年には17年目で初のオールスター出場を果たす。[1]この頃に左打ち一本に絞った。目立った数字は残せなかったものの、そのキャラクターでファンや選手に親しまれ、1990年まで21年間の現役生活を送った。所属したチームの成績には恵まれず、現役時代にリーグ優勝を一度も経験できなかった。大洋時代のチームメイトであった高木豊や若菜嘉晴も同じ境遇を味わっている(若菜は引退後、ダイエーのコーチ時代に優勝を初経験)。大洋時代の打席での応援歌は「蒲田行進曲」。加藤が代打に告げられた際にはスタンドから「ひろかずコール」がなされた。加藤は、スタンドのファンがきっちり3回コールするのを待って打席に入っていた。

[匿名さん]

#7692020/03/14 22:53
現役引退後は、フジテレビの野球解説者を務めたが、2006年に肺ガンと診断されてからは治療のため入退院を繰り返し、2007年2月には左肺を摘出していた。いったんは回復し、『すぽると!』や『CSプロ野球ニュース』などで再びキャスターなどとして活躍していたが、左足大腿骨にガンが転移。その後容態が悪化し、2008年1月21日午後0時54分、肺ガンのため横須賀市の病院で死去。56歳没。法名は釋博仁。

2008年4月12日の横浜vs.阪神戦(横浜スタジアム)は、「加藤博一氏追悼試合」として開催され、追悼セレモニーなどを執り行った。この試合では、横浜の応援団が石井琢朗に対して、加藤の応援歌だった「蒲田行進曲」を使用した。

人物・交友関係[ソースを編集]

現役時代から「面白いキャラクターの野球選手」として有名で、プロ野球界オフの主役として『プロ野球ニュース』などにたびたび登場していた。大洋時代に同じ阪神OBである江本孟紀も出演するテレビ番組で「第2の江本孟紀を目指す」と繰り返し、江本がテレて苦笑する中で阪神時代から旧知の島田紳助に「加藤さんの場合は、江本さんではなく第2の板東(英二)さん!」と芸人としてのツッコミを受けたことがある。

島田紳助・小錦とは古くからの親友として知られ、紳助からは「世界の福本(豊)に対し、町内の加藤」とよく言われた。

[匿名さん]

#7702020/03/14 22:54
タイトル[ソースを編集]
ウエスタン・リーグ首位打者:1回 (1974年)
ウエスタン・リーグ盗塁王:2回 (1976年、1977年)

記録[ソースを編集]

初記録
初出場:1972年9月19日、対南海ホークス25回戦(大阪スタヂアム)、8回表に基満男の代走として出場
初安打:1977年7月18日、対ヤクルトスワローズ19回戦(明治神宮野球場)、8回表に山本和行の代打として出場、会田照夫から三塁打
初盗塁:1977年7月21日、対広島東洋カープ14回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に二盗(投手:高橋里志、捕手:水沼四郎)
初先発出場:1978年9月26日、対中日ドラゴンズ25回戦(ナゴヤ球場)、8番・中堅手として先発出場
初打点:1978年10月8日、対横浜大洋ホエールズ26回戦(横浜スタジアム)、3回表に斉藤明夫から
初本塁打:1979年7月28日、対読売ジャイアンツ19回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に江川卓からソロ

節目の記録
1000試合出場:1989年10月18日、対広島東洋カープ26回戦(横浜スタジアム)、7回裏に遠藤一彦の代打として出場 ※史上291人目

その他の記録
オールスターゲーム出場:1回 (1986年)

背番号[ソースを編集]

入団時から75番という(首脳陣が着けるような)大きい背番号を背負ったことや、入団時に「背番号8をつけるまで辞めない」と語った経緯もあり、阪神時代に一桁の背番号8を着けたことには感激したという。前任の島野育夫コーチからは「(阪神の背番号8は)故障に泣かされる番号だから(やめた方がいい)」と言われ、加藤と親交の深かった掛布雅之からは、「32番で結果が出たんですから、加藤さんにとって32番が良い番号なんじゃないですか?変えない方が良いと思いますよ」と忠告されたが、8番を着けたいという夢を諦めきれず、加藤は8番に変更してしまった。しかしその後、やはりケガに見舞われてしまったため、「あの時、掛布の言うことを聞いておけばよかった」と語っている。[2]。
75 (1970年 - 1972年)
67 (1973年)
35 (1974年 - 1975年)
32 (1976年 - 1980年)
8 (1981年 - 1982年)
22 (1983年)
44 (1984年 - 1990年)

[匿名さん]

#7712020/03/14 22:54
関連情報[ソースを編集]

著書[ソースを編集]
『生き抜いた21年』(青谷舎,1991年)ISBN 4915822028

出演番組[ソースを編集]
BASEBALL SPECIAL〜野球道〜
SWALLOWS BASEBALL L!VE
プロ野球ニュース(不定期)
すぽると!
オールスタープロ野球12球団対抗歌合戦(司会 1992年〔第6回〕 - 1994年〔第8回〕)
『たんねるSAGA』ほか地元サガテレビ・テレビ西日本の番組(不定期)

連載コラム[ソースを編集]

いずれも野球コラム
加藤博一の代打一発!!(1991年 - 1993年、週刊ファミ通で連載。93年からはやくみつるのイラスト付きで掲載されていた)
ひろかずの球心を突く(2006年9月19日 - 2007年12月7日、MSNスポーツサイトに全19回連載。外部リンク参照)

CM[ソースを編集]

テレビ
コスモ食品直火焼カレー・ルー、ドレッシング(神奈川県、青森県で放映)

ラジオ
すまいの一番

ゲーム[ソースを編集]
ヒューマンベースボール(1993年8月6日にヒューマンより発売。スーパーファミコン用ソフト。加藤博一監修)[3]

[匿名さん]

#7722020/03/14 22:54
屋鋪 要(やしき かなめ、1959年6月11日 - )は、大阪府生まれ[1][2]兵庫県川西市育ち[3]の元プロ野球選手(外野手)で、現在は鉄道文化人・鉄道写真家、少年野球・大学野球のコーチ、野球解説者である。

経歴[編集]

大阪市此花区に生まれ、1967年夏に兵庫県川西市に移り住む。小学校4年生の時、地元の少年野球チームに入ったのが野球人生のスタートである。三田学園高校から1977年のドラフトで大洋ホエールズ(1978年から横浜大洋ホエールズ)より6位指名を受け、入団しプロ入り。高木豊、加藤博一と共に「スーパーカートリオ」として活躍した。

当時の監督であった近藤貞雄が命名したのは「スポーツカートリオ」で、以降マスコミによって「スーパーカートリオ」と名付けられる様になる。スーパーカートリオの結成以前は1番を打つことが多かったが、スーパーカートリオ結成時では3番を任された。引退後、この起用について「豊さんはヒットを打つのが上手いから1番なのはわかる。加藤さんは小技もできるから2番でいいとして、僕が3番を打つのは無理だと思った」と語っていたが、結成1年目は唯一の2ケタ本塁打を記録している。

その後、加藤に代わって高橋眞裕が2番に入ったニュースーパーカートリオでは、高木豊が3番、屋鋪が1番に落ち着いた。

1986年から1988年まで3年連続盗塁王を獲得。右中間や左中間の飛球でテレビカメラにボールしか映っていない場面で、落下直前に突然画面内に現れて捕球してしまう守備範囲の広さ・プレースタイルが忍者を連想させたことから、名字に掛けてマスコミから「忍者屋敷」とあだ名されていた。

[匿名さん]

#7732020/03/14 22:55
球団名が横浜ベイスターズとなった1993年のオフに自由契約となり、1994年に読売ジャイアンツ(巨人)へ移籍。初の古巣との対決となった4月12日の横浜スタジアムでの試合では、最終回の守備に就く。この時、前年まで在籍していたベイスターズファンからも大きな歓声と拍手で迎えられた。この最終回にロバート・ローズの打球が屋鋪の守備位置に飛んで来たが、折からの風雨のために両手を挙げる形でエラーをしてしまい、サヨナラの決勝点を許す。この時の公式の記録はローズのツーベースヒットであり、エラーではなかったが、翌日の各スポーツ紙(主に関東版)で「バンザイエラー」として、中にはトップ記事として取り上げられた。彼自身、この時に非常に悔しい思いをしたが、当時の監督長嶋茂雄に「君に取れないものは誰にも取れない」と言われ、また巨人ナインも「気象に文句をいうしかない」と評したという。

この年に初リーグ優勝を経験し、日本シリーズにも初出場。長嶋の監督として初となる日本一に貢献した。特に、このシリーズの第2戦の最終回の同点を阻止した(自ら作ったピンチを帳消しにした)ダイビングキャッチで勝利に貢献した。

1995年はシェーン・マックの加入もあって出場機会が減り、この年限りで引退。ゴールデングラブ賞5回、盗塁王3回と守備と走塁には、絶対の自信を持つ選手であった。

現役引退後は、1996年から1997年まではテレビ神奈川(TVK)、2000年から2003年まではRFラジオ日本の野球解説者、1998年から1999年と2004年から2005年の二度にわたり巨人外野守備走塁コーチを務めた。また、2001年から2008年にかけて開催されたプロ野球マスターズリーグでは、東京ドリームスの外野手として活動した。

二度目の巨人コーチから退いた後は、少年野球の指導に力を入れ[4][2]、公益社団法人少年軟式野球国際交流協会の理事をつとめている。その一方で、SLカメラマン[2]や鉄道評論家[4]としても活動している。2007年からは再び野球解説者としても活動。

2014年から神奈川大学の硬式野球部の臨時コーチに就任した。

[匿名さん]

#7742020/03/14 22:55
人物[編集]

野球選手時代[編集]

大洋時代の選手の中で、屋鋪と斉藤明夫の2人はヒゲを生やし、トレードマークとしていた。なお、当時の応援テーマ曲は『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』からの採譜だった[5]。

巨人在籍当時「巨人軍は紳士たれ」をモットーとする球団の規則としてヒゲを生やすことは禁止であったが、長嶋がそのヒゲを気に入ったこともあり、長嶋の配慮に球団も特例を出し、日本人では初めて巨人でヒゲを剃らずにプレーした選手となった。なお、ヒゲを許された巨人の日本人選手は仁村薫、門奈哲寛、村田真一(1994年)など数少ない(2007年入団の小笠原道大は許されたが、自らの意思で剃った)。

古田敦也とは出身小学校(川西市立加茂小学校)が同じであり、屋鋪より6つ年下である。

鉄道文化人転身後[編集]

現在の活動は主に静態保存中の蒸気機関車の撮影および蒸気機関車の鉄道模型向けのNゲージレイアウト作成である。現役時代はほぼ中断していたものの子供の頃から鉄道ファンであり[6]、ファン専門誌『レイルマガジン』では2008年9月号(300号)から日本国内に保存されている蒸気機関車に対しての連載コラムを執筆するほど造詣が深い[1]。屋鋪の実父も蒸気機関車の写真を撮影しており、屋鋪のコラムにも実父の写真が掲載されている場合がある。日本全国に点在する500輌超の動態・静態保存機関車を撮り尽くす為に、少年野球の指導をしながら全国を旅している。

連載以外に雑誌の取材を受けることもあり、2010年12月発売の『週刊新潮』2010年12月30日・2011年1月6日合併号ではモノクログラビア『昔は「スーパーカートリオ」でも「屋鋪要」はSL撮り鉄』として、2012年6月4日発売の『週刊現代』2012年6月16日号ではカラーグラビア『盗塁王・屋鋪要が撮った 僕のSL写真コレクション』として、SLカメラマンとしての活動模様が紹介された。

2014年2月にはネコ・パブリッシングより『目指せ打率10割!屋鋪要の保存蒸機完全制覇』が刊行された。同年3月には東京と京都で蒸気機関車に関するトークショーも開催された[7]。

[匿名さん]

#7752020/03/14 22:56
2015年からは鉄道模型雑誌『RMモデルズ』の不定期連載企画と連動して、鉄道模型のレイアウト作りおよび鉄道車両のキット製作に進出した。また2016年より鉄道模型コンテストに招かれて講演することもあり、また同年の鉄道模型コンテストの会場で自身の作成したモジュールレイアウトが展示されていた実績もある。

屋鋪はレイルマガジンの記事において、鉄道模型の蒸気機関車だけではなく、蒸気機関車に牽引される客車についても実物と同様の列車編成にこだわるようにしていると語っている。

各年度の太字はリーグ最高
大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

タイトル[編集]
盗塁王:3回(1986年 - 1988年)

表彰[編集]
ゴールデングラブ賞:5回(1984年 - 1988年)
ジュニアオールスターゲームMVP:1回(1978年)

記録[編集]
初記録初出場:1978年4月5日、対読売ジャイアンツ2回戦(横浜スタジアム)、8回裏に伊藤勲の代走として出場
初打点:1978年4月9日、対阪神タイガース3回戦(阪神甲子園球場)、8回表に谷村智啓から内野ゴロの間に記録
初先発出場:1978年4月25日、対ヤクルトスワローズ3回戦(横浜スタジアム)、5番・右翼手として先発出場(偵察要員、高木嘉一と交代)
初安打:1979年4月10日、対広島東洋カープ1回戦(横浜スタジアム)、7回裏に三輪悟から二塁打
初盗塁:1979年5月9日、対阪神タイガース4回戦(横浜スタジアム)
初本塁打:1981年9月27日、対広島東洋カープ21回戦(広島市民球場)、8回表に北別府学から2ラン
節目の記録1000試合出場:1987年9月22日、対阪神タイガース24回戦(横浜スタジアム)、3番・中堅手として先発出場 ※史上275人目
300盗塁:1991年9月28日、対読売ジャイアンツ25回戦(東京ドーム)、6回表に二盗(投手:広田浩章、捕手:吉原孝介) ※史上20人目
1000安打:1992年4月29日、対広島東洋カープ5回戦(広島市民球場)、5回表に佐々岡真司から右前適時打 ※史上164人目
1500試合出場:1994年5月18日、対広島東洋カープ7回戦(福岡ドーム)[8]、7回表に中堅手として出場 ※史上112人目
その他の記録オールスターゲーム出場:1回(1987年)
日本シリーズ出場:1回(1994年)

背番号[編集]
31 (1978年 - 1993年)
00 (1994年 - 1995年)
88 (1998年 - 1999年)
83 (2004年 - 2005年)

[匿名さん]

#7762020/03/14 23:14
屋敷ばっかやな
当時の最強ベイの違う選手にしてくれや

[匿名さん]

#7772020/03/14 23:28
>>776
ちゃんと読めよ
スーパーカートリオ→高木→加藤→屋敷
の順になってる

[匿名さん]

#7782020/03/14 23:51
また、このパターン
754と757の馬鹿が書いたからな
学習しろよ、マシンガンが暴れだすタイミングを

[匿名さん]

#7792020/03/15 04:09
>>778
ここは閉鎖だよ。みんな2020に行ってるよ。

[匿名さん]

#7802020/03/15 07:13
向こうに行かないってことは
ここを埋めたいだけなんでしょwww
頑張れ長岡向陵!

[匿名さん]

#7812020/03/15 08:22
>>780
すみません、移動してください。マシンガンは、このスレに拘っている馬鹿を茶化して遊んでるだけです。

[匿名さん]

#7822020/03/15 13:23
ほっとけばいいさ
自己満足の塊だから
あ、コピペの鬼かwww

[匿名さん]

#7832020/03/15 23:35
ポンセについて記載しておく。

[匿名さん]

#7842020/03/15 23:36
カルロス・アントニオ・ポンセ・ディアス(Carlos Antonio Ponce Diaz , 1959年2月7日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手(外野手)。

[匿名さん]

#7852020/03/15 23:37
経歴[編集]

1982年にミルウォーキー・ブルワーズと契約。1985年8月14日にメジャーデビューし、21試合に出場。

翌1986年はメジャー登録40人枠から外れたが、それを知った横浜大洋ホエールズスカウトの牛込惟浩に口説かれ、入団を決めて来日。口ひげを生やしており、その容姿が当時人気だったゲームソフト『スーパーマリオブラザーズ』のマリオに似ていたため、「マリオ」、あるいは「ポンちゃん」と呼ばれた。

来日した1986年には、俊足選手を好んだ当時の大洋監督・近藤貞雄から重用され、高木豊・加藤博一・屋鋪要のスーパーカートリオに続く4番を主に務める。彼と同じく俊足で5番を主に打ったダグ・ローマンを合わせて「フリーウェイクインテット」と呼ばれ、賞賛された。同年打率.322、27本塁打、105打点、18盗塁と素晴らしい活躍を見せたが、阪神タイガースのランディ・バースが前年に続いて三冠王となったため、無冠に終わった。

守備では1986年は三塁手として起用されていたが、送球に難があったためか、シーズン27失策を記録。そのためこのシーズン中盤に、当時一塁手であった田代富雄が故障離脱してからは、三塁を山下大輔に明け渡して一塁を守るようになり、さらに後半に当時外野手だった加藤博一も離脱したため外野手に主戦場が移り、翌1987年からは正式に転向した。

1987年は打率.323、35本塁打、98打点とこれまた大活躍をし、悲願の打点王のタイトルを獲得。更にはベストナインにも選ばれた。また、159安打はこのシーズンの最多安打。

1988年はオールスターゲームに出場。シーズン33本塁打、102打点で、初となる本塁打王のタイトルを獲得。並びに2年連続で打点王、ベストナインに選ばれた。

しかし、1989年は成績が振るわず。さらに翌1990年はジョーイ・マイヤーの入団で二軍生活が長くなり、同年限りで退団。

その後はマイナーリーグのコーチやフロリダ・マーリンズのスカウトなどを務め、現在はアメリカ合衆国フロリダ州で大型トラック運転手や少年野球スクールを主催するなどしている。古巣への愛は消えていないようで、1998年の横浜ベイスターズ優勝時にはお祝いのメッセージを送っている。

ノーヒットで家に帰ってくると妻はピザしか出さず、ヒットを1本打つごとにピザ以外のおかずが増えていって、猛打賞で帰ってくると凄いご馳走だったと、引退後にこぼした。

[匿名さん]

#7862020/03/15 23:37
2015年6月7日、DeNA対西武戦前の「レジェンドOB1打席対決」のために来日し、鹿取義隆(西武移籍前に在籍した巨人時代に幾度となく対戦)からレフト前ヒットを放って後輩達を激励した[5]。

2017年11月23日、横浜スタジアムで改修工事が始まるのを記念して開催された「ハマスタレジェンドマッチ」のために再来日。TEAM YOKOHAMA軍の3番三塁でスタメン出場。2打数2安打、うち1本はライト線に先制打となるタイムリー二塁打をマークした。同月25日に横須賀スタジアムで開催された横浜DeNAベイスターズのファン感謝イベントである「ファンフェスティバル2017」のメインイベント「バラエティキックベースボール」のスペシャルゲストとしても登場した。

2019年3月12日、日本向けのYouTubeチャンネルを開設し、YouTuberとして活動開始[6]。自身が今も野球に携わっていることを日本のファンに伝えるために開設したと語っており、「ポンセの野球レッスン」をメインコンテンツとしている[7]。

[匿名さん]

#7872020/03/15 23:38
タイトル[編集]
NPB本塁打王:1回(1988年)
打点王:2回(1987年、1988年)
最多安打(当時連盟表彰なし):1回(1987年)

表彰[編集]
NPBベストナイン:2回(1987年、1988年)
優秀JCB・MEP賞:1回(1989年)

記録[編集]
NPB初記録初出場・初先発出場:1986年4月4日、対阪神タイガース1回戦(横浜スタジアム)、5番・三塁手として先発出場
初打席:同上、2回裏に池田親興の前に凡打
初安打・初打点:同上、3回裏に池田親興から適時2点三塁打
初本塁打:同上、4回裏に藤原仁から左越2ラン
初盗塁:1986年4月13日、対広島東洋カープ2回戦(横浜スタジアム)
NPB節目の記録100本塁打:1989年5月23日、対広島東洋カープ6回戦(平塚球場)、5回裏に長冨浩志からソロ ※史上154人目
NPBその他の記録オールスターゲーム出場:1回(1988年)

背番号[編集]
7(1986年 - 1990年)
75(2020年 - )

[匿名さん]

#7882020/03/16 12:57
リーグ戦の再開はいつかなあ

[匿名さん]

#7892020/03/16 13:33
>>788
今年のリーグ戦、ポンセが加わるみたいだぞ

[匿名さん]

#7902020/03/16 20:45
誰?

[匿名さん]

#7912020/03/16 23:13
>>790
カルロスポンセだよ
今季からリーグ戦だよ
まあ、ググってみて

[匿名さん]

#7922020/03/16 23:34
カルロス・ポンセだな!

[匿名さん]

#7932020/03/17 00:30
サンダーボルト
ムスタング
ライトニング
エアラコブラ
ウォーホーク

[匿名さん]

#7942020/03/17 00:31
ワイルドキャット
ヘルキャット
コルセア
ベアキャット

[匿名さん]

#7952020/03/17 00:33
スピットファイア
ハリケーン
タイフーン
テンペスト

[匿名さん]

#7962020/03/17 00:35
Bf109
Bf110
FW190
Ta152

[匿名さん]

#7972020/03/17 05:57
零戦
雷電
紫電改
烈風

[匿名さん]

#7982020/03/17 05:58

鍾馗
飛燕
疾風
五式戦

[匿名さん]

#7992020/03/17 18:14
つまんねー
何一つ面白くない。

[匿名さん]

#8002020/03/17 21:03
>>799ならきえろよ 焼豚

[匿名さん]

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