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2023/10/18 00:00
爆サイ.com 四国版

🧢 高校野球全国





NO.7007975

熊本が全国と対等に戦えた昭和50年代の選手権
最後の中九州代表を勝ち抜いた九学
熊工が強豪校と認められるようになり
4強2回の鎮西
善戦した濟々黌、工大高
初戦敗退したが高知商に惜敗の八代工
惨敗の東海(笑)

昭和50年代の選手権成績 18勝10敗 勝率 .642 4強2回、8強2回、3回戦2回、2回戦1回、初戦敗退3回
報告閲覧数672レス数528
合計:

#12018/10/18 00:29
因みにセンバツは1勝5敗(笑)

[匿名さん]

#22018/10/18 02:00
51年は瀬高主将が今治西のキャッチャ-にスパイクしてひと悶着あったシ-ンを強烈に覚えてる

八浪監督がベンチから帽子脱いで謝ってる姿が忘れられないなぁ(笑)

[匿名さん]

#32018/10/18 11:46
林田−西村のバッテリ−で3回出場。
福島商の三浦からサヨナラデッドボ−ルを頭部に受けた林田。
熊工と九学の初戦負けは高知、新居浜商、東北と強豪校に惜敗だった。

[匿名さん]

#42018/10/18 11:59
八代工の下手投げ河野投手も高知商に延長サヨナラ負けだったね!
強豪相手に惜しかった!

[匿名さん]

#52018/10/18 12:45
下手投げと言えば工大高の猪口!

劇的な試合が続いて引き込まれた

[匿名さん]

#62018/10/18 15:25
熊本だけじゃなく全国的に輝いてた時代かな。スタ−が多く群雄割拠の時代で盛り上がってた。

[匿名さん]

#72018/10/18 15:34
昭和57年夏の選手権で熊工ベスト8まだ行った。
奥村投手だった

[匿名さん]

#82018/10/18 19:06
大分にしんけん強い津久見がライバルでいたのも大きいよね!

[匿名さん]

#92018/10/18 20:53
注目される投手も打者も少なかったがまとまったチ-ムが多かった

この時代は高卒→プロ入りも多く毎年のドラフトが楽しみだったな〜

工業の平畠なんかプロに行くと思ったけどその後どうしてるんだろう?

[匿名さん]

#102018/10/18 21:00
>>8
津久見は一時期に比べたらもりかえしてますね、甲子園までは届かんけど、あっ上尾高校も頑張ってるよね

[匿名さん]

#112018/10/18 22:21
このころは秋山・伊東・園川などハイレベルの選手が常にいた。数年後に遠山

ノンプロ組でも杉本や平畠、有田投手(東海)、クレバーな投球で甲子園B4の岡本投手

[匿名さん]

#122018/10/18 22:23
>>2
逆に園川の代、藤村親父が広陵ショートにスパイクされたよな

立てずに担架運びになったな

[匿名さん]

#132018/10/18 22:39
鎮西の河野、熊工の山森、東海の後藤(現性藤枝)達は高校時代強打者だったけどプロでは打てず…

プロのレベルが桁違いなのを思い知らされた

[匿名さん]

#142018/10/18 22:49
伊東兄、山森、松本の打線は甲子園で見たかった!

[匿名さん]

#152018/10/18 23:33
熊本は強いなと思ったのは鎮西が松崎ー山田のバッテリーでベスト4進出の時だな、県内には熊工に好投手と強打の井上、九州学園に東瀬、久保両投手、東海、専玉、多良木等つばぜり合いしていた、しかし翌年甲子園行ったのは熊本西、、信じられない

[匿名さん]

#162018/10/19 00:05
60年は遠山の八代第一が春先勝ちまくり優勝候補筆頭で対抗が熊工でしたね。
しかし2回戦で八代第一と熊工が激突し熊工の逆転勝ち。
熊工は準々決勝で野田の多良木に負け。4強に西高、熊商、九学、多良木と珍しい学校が勝ち残ってました。
優勝候補では最後の砦の九学も決勝で西高に負けて違った意味で印象に残る大会でした。
西高は甲子園で1勝を挙げて健闘しましたが、他の学校が出場したとしても勝ち上がることはできなかったと思います。

[匿名さん]

#172018/10/19 00:16
むかーし
むかし
あるところに

[匿名さん]

#182018/10/19 00:30
>>14
藤崎台で、山森のライナ−性のホ−ムランが外野の芝生でワンバウンドし、レフト場外に飛んでいった打球にはビックリさせられた!
そんな打球を飛ばしてた山森が、プロでは守備要因だったのに更にビックリ!

[匿名さん]

#192018/10/19 11:25
平成の選手権は23勝30敗 初戦敗退15回と半分は初戦敗退と惨憺たる成績に落ちぶれてる。
鍛冶舎さんが来てなかったら全国で最下位争いになってた。
環境もよくなってるのに惨めな成績しか残せんのは指導者だけの問題じゃないだろうな。

[匿名さん]

#202018/10/19 11:43
>>16
贔屓審判で勝ったときな

[匿名さん]

#212018/10/19 11:55
>>11
全国で注目選手に挙げられてたのは伊東(A)と遠山(B)くらいばい
熊本じゃハイクラスでも全国じゃ注目もされとらんかった選手が多か

[匿名さん]

#222018/10/19 18:18
昔から本格派の投手が出てこないのは何故なんだろう
熊工の坂田と松本くらいしか思い当たらない

[匿名さん]

#232018/10/19 19:20
>>20
審判は心が痛まないのかね、同じ高校生どっちも一生懸命頑張ってるのに、恥を知れ。

[匿名さん]

#242018/10/19 20:56
この時代で本格派といえるのは工業の高村投手(ホンダ熊本→阪神)、一工の松本投手くらい
東海の有田投手は全国レベルとはいえないかな
下手投げと軟投派が多かった

[匿名さん]

#252018/10/20 05:12
>>24
一工は塩山だろ。熊本工業の横手投げの木村も良かっな。水俣の田嶋も立てのカーブが有効な左腕だったな。

[匿名さん]

#262018/10/20 15:20
S53年一工の松本投手は久々現れた剛腕投手。ドラフト外でも指名されなかったのは不思議だった。

[匿名さん]

#272018/10/20 18:02
九学の右田兄ば忘れちゃいかん!
全国でも評価されとった!

[匿名さん]

#282018/10/21 23:47
>>25
一工は松本の方が剛球だったばい
水俣の投手は知らんたいな〜

[匿名さん]

#292018/10/26 00:37
ドラフト指名0人
情けない世の中になったもんだ

[匿名さん]

#302018/12/16 20:54
いまや全国下位レベル。。

[匿名さん]

#312018/12/16 22:34
>>29
お前の人生の方が情けないだろ

[匿名さん]

#322018/12/20 13:18
>>12
広陵攻撃時の二回、二走・伊達選手を九学・園川投手が牽制するため、藤本二塁手に送球。
帰塁した伊達選手と交錯した藤本二塁手が、不運にもスパイクされた。
発表によると、10針を縫う全治10日間の診断だったという。

[匿名さん]

#332018/12/20 13:23
>>20
>>23
この試合の主審は誰か知ってるのか?
不正なんぞあるか。たわけが!

[匿名さん]

#342018/12/20 13:27
>>20
>>23
何れも、ほら吹きの念仏白髪彰晃か?

[匿名さん]

#352018/12/20 13:38
>>20
>>23
’85年夏の熊本大会、2回戦(熊本工×八代一)の一戦の主審は’78年夏の甲子園に熊本県から
初めて派遣された前村輝也氏(通称:前村弟→兄弟の弟さん)が担当。
尚、同主審は、’78年の大会第三日第四試合(郡山北工×松山商)戦で三塁塁審を担当している。

[匿名さん]

#362018/12/20 14:07
>>19
と言うよりも、以前高校野球関連の雑誌かなにかで目にした記憶があるが。

特に昭和40年代は、隣県・大分との絡みもあってか、昭和33年から始まった五年越しの
一県一代表制となる記念大会を除いて、中九州大会での通算成績が「熊本」対「大分」で、
4−10。要は大分県勢に大きく負け越している。

同時に、この現状を見た先述の記者が、記念大会を除けば、熊本県勢が一度も甲子園に
出場していないこと自体が、要するに全国一の最弱県に匹敵するといった表現もなされていた
のには正直驚いた。

そんな中、’73年の第55回記念大会では、開会式が始まる前に、球児らが他校の球児らとも
雑談を交わす中、八代東の某選手が、日田林工に自信ありげな言葉を交わしているが、
林工と言えば、同大会を制し、V5を遂げた広島商に善戦しているし、それこそ中九州大会で
実際対戦していたらと思うと結果は目に見えていると思う。八代東の関係者の方々、恐縮です。

[匿名さん]

#372018/12/20 14:45
お父さん世代の昔話

[匿名さん]

#382018/12/20 15:12
>>22
熊工からロッテに入った永野と永野の2つ下の阪神に入った村上も本格派だった。

[匿名さん]

#392018/12/20 15:34
【昭和40年代の記念大会における熊本代表チーム】

昭和43年 鎮 西 0−7 三沢

同48年 八代東 0−1× 盛岡三(延長11回)

同49年 不出場 

中九州大会決勝で、谷投手擁す第一工(現・開新)が大分県立佐伯鶴城に大敗。これにより、
昭和40年代の熊本県勢は、隣県大分に全くと言っていいほど、歯が立たず0勝8敗に終わる。

[匿名さん]

#402018/12/20 15:37
>>38
永野吉成投手は鏡中学校
村上誠一投手は八代第一中学校

[匿名さん]

#412018/12/20 15:51
>>15
必由館が初陣として甲子園に出場した平成15年もそうでしたよ。
準々決勝第一試合で、熊本工を破る大金星。エースは右の松岡孝高。

[匿名さん]

#422018/12/20 15:52
>>40
センターの杉本が2年の夏までエースナンバー着けていた。

[匿名さん]

#432018/12/20 16:10
>>42
次年度の4番だったな。木下左翼手が3番で、切り込み隊長が韋駄天・緒方遊撃手。
緒方選手は、プロ入り後、同郷(玉名郡南関町)で先輩にあたる井上真二選手と揃って、
オロナミンCへのCM出演もあった。(昭和61年頃が、そのピーク)

プロ引退後の緒方氏は、朝7時からのTBSニュースのスポーツ担当。のちに松中信彦
夫人となる林恵子氏の後任として、絶妙な語り口で解説に臨んだ。

[匿名さん]

#442018/12/20 17:02
強かった。昭和61年世代は全国制覇するかと思ったよ。

[匿名さん]

#452018/12/20 17:58
じいさん時代の昔話!今の俺達には関係ない!

[匿名さん]

#462018/12/20 18:09
俺まだ産まれてない笑こんな昔話するの熊本だけだろね

[匿名さん]

#472018/12/20 19:27
そりゃ違うな 全国的に多いですよ。

[匿名さん]

#482018/12/20 21:14
昭和時代昔話

[匿名さん]

#492018/12/20 21:16
>>41
専玉橋本と必由の松岡の投げ合い見ものだった
多分橋本は自分が初戦敗退するなんて思ってもなかったろうね

[匿名さん]

#502018/12/24 16:54
熊本は平成元年から10年間は八代地区を中心に中学野球が全国上位の戦力だった。
当時の子たちが高校生になり夏の甲子園で必ず頂点が取れると思われた。
96年は奇跡うを前に沈み、97年は史上最大差大逆転の悲劇、98年は全国的にレベルが高く、
最後の99年東北勢に敗れた。そこで熊本の野球は終わった。

[匿名さん]


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