同和地区の住民を中心に「松原市内の中学生の進路保障」を掲げて市民が熱心に誘致運動を展開。これら府民の意見を受けて、当時大阪府議会議員で生野高校OBの中山太郎らも生野高校の同窓会を説得し“生野の名前を残す”条件で、松原市への移転が決定した。松原市民にとっては“待ちに待った、我が街の高校”の誕生ではあったが、実際には、生徒の伝統校志向の根強さや1973年の学区制変更(9学区制へ細分化)に伴う偏差値の上昇で、同和地区の家庭では...