1989年頃にレースに復帰するや圧倒的な強さを続け、その約2年後には何とS級復帰を果たしたばかりか、程なくしてS1にも上り詰めた。1991年には平塚競輪場の開設記念後節で優勝し、ふるさとダービー弥彦で久々のビッグレース出場を果たした後は、GIでも常連出場を果たすようになった。
さらに伊藤は1993年、立川競輪場で開催される日本選手権競輪への出場がかかったダービートライアルで好成績を収めた伊藤はこの大会において特選シード入りを果たし、本番でも絶好調の成績を収めることになる。初戦の特選で1着となり、これで勢いに乗った伊藤は続くゴールデンレーサー賞も勝った。さらに準決勝でも3着に入って決勝へと駒を進める。決勝では、三重の海田和裕の逃げ一車のメンバー構成となったことから、伊藤は海田の番手を狙う作戦に出た。そして伊藤と同じことを考えていた大分の大竹慎吾と、海田の後位を巡って激しい競り合いを演じた。結果的に双方失格となったものの、伊藤の闘志溢れるプレーに対し、逆に観客席から激励の声が飛んだ。
その後伊藤は岐阜競輪場で開催された1996年のオールスター競輪でも決勝へと進出(7着)。だがこれを境に次第にビッグレースにおいては成績が振るわなくなり、ついには翌年、S1から陥落。そして程なくしてA級陥落も喫するようになってしまった。
さらに伊藤は1993年、立川競輪場で開催される日本選手権競輪への出場がかかったダービートライアルで好成績を収めた伊藤はこの大会において特選シード入りを果たし、本番でも絶好調の成績を収めることになる。初戦の特選で1着となり、これで勢いに乗った伊藤は続くゴールデンレーサー賞も勝った。さらに準決勝でも3着に入って決勝へと駒を進める。決勝では、三重の海田和裕の逃げ一車のメンバー構成となったことから、伊藤は海田の番手を狙う作戦に出た。そして伊藤と同じことを考えていた大分の大竹慎吾と、海田の後位を巡って激しい競り合いを演じた。結果的に双方失格となったものの、伊藤の闘志溢れるプレーに対し、逆に観客席から激励の声が飛んだ。
その後伊藤は岐阜競輪場で開催された1996年のオールスター競輪でも決勝へと進出(7着)。だがこれを境に次第にビッグレースにおいては成績が振るわなくなり、ついには翌年、S1から陥落。そして程なくしてA級陥落も喫するようになってしまった。