「障害」の表記は間違っていないことを御存知ですか?
歴史的に「障碍」という表記は「悪魔や怨霊が悟りへの到達を妨げる」という否定的な意味がありました。「障碍」という表記の方がマイナスイメージかもしれません。
また、「碍」という漢字は「礙」の俗字であって、「障礙」が本来の表記で漢和辞典に採用すらされていない場合も多いそうです。
「障害」は昔から漢和辞典に載ってる言葉で、「碍」(礙)が常用漢字表から無くなったために作られた言葉ではありません。「害」が「碍」(礙)の当て字にされたとする説は全くの誤認です。
「碍」にこだわって採用したがる人々は、それぞれの立場や目論みから「碍」を使いたがるようですが、「碍」を安易に使うと返り討ちにあって完全論破されてしまいますから、お気を付けて。
ちなみに、私はどっちでもいいと思います。使いたい方を使って、相手から文句言われたら、相手が使いたい方を使ってあげたらいいと思います。コミュニケーションのために言葉を用いるのに、その言葉が原因でコミュニケーションがとれないのは、言葉を用いる目的が失われてしまいます。
文句言われたら使わなくなるのは、行政も放送局も新聞も皆同じです。すると、使わないのが正しいという風潮が生まれます。すると、本来は間違ったことではないのに、間違いのように扱われてしまいます。これは、民主主義の恐ろしい部分に通じると思うのは大仰でしょうか。民衆の多数派が正しいと思えば、それが正義となります。多数が戦争した方がいいと思えば戦争するんですね。多数の心理を操ることができれば、間違った方向に先導でき、しかもそれを正義だとすることが可能なわけです。ですから、議論で正しいことを相手に納得してもらうことが大切だと思うのです。
歴史的に「障碍」という表記は「悪魔や怨霊が悟りへの到達を妨げる」という否定的な意味がありました。「障碍」という表記の方がマイナスイメージかもしれません。
また、「碍」という漢字は「礙」の俗字であって、「障礙」が本来の表記で漢和辞典に採用すらされていない場合も多いそうです。
「障害」は昔から漢和辞典に載ってる言葉で、「碍」(礙)が常用漢字表から無くなったために作られた言葉ではありません。「害」が「碍」(礙)の当て字にされたとする説は全くの誤認です。
「碍」にこだわって採用したがる人々は、それぞれの立場や目論みから「碍」を使いたがるようですが、「碍」を安易に使うと返り討ちにあって完全論破されてしまいますから、お気を付けて。
ちなみに、私はどっちでもいいと思います。使いたい方を使って、相手から文句言われたら、相手が使いたい方を使ってあげたらいいと思います。コミュニケーションのために言葉を用いるのに、その言葉が原因でコミュニケーションがとれないのは、言葉を用いる目的が失われてしまいます。
文句言われたら使わなくなるのは、行政も放送局も新聞も皆同じです。すると、使わないのが正しいという風潮が生まれます。すると、本来は間違ったことではないのに、間違いのように扱われてしまいます。これは、民主主義の恐ろしい部分に通じると思うのは大仰でしょうか。民衆の多数派が正しいと思えば、それが正義となります。多数が戦争した方がいいと思えば戦争するんですね。多数の心理を操ることができれば、間違った方向に先導でき、しかもそれを正義だとすることが可能なわけです。ですから、議論で正しいことを相手に納得してもらうことが大切だと思うのです。