強力打線において、9番に固定される。4割前後が当たり前の強力打線で、1人だけ打率が低い。たまに練習試合で本塁打を放てば「奇跡だ」と数日間、ネタにされたりもした。試行錯誤の末にたどり着いたノーステップ打法が、思い出の一撃をかっ飛ばした。
岩手・一関市出身。小学校時代には大船渡の最速163キロ右腕・佐々木朗希投手とも対戦した。少年野球県大会の開会式で隣り合った。たくさん話し、たくさんいじったら「当時は自分、投手だったんですけれど、試合で特大の本塁打を打たれました」と笑う。佐々木も今の菅原の写真を見ただけで「菅原謙伸ですね」と分かるほど、印象に残る存在のようだ。
母・富久子さんは岩手・陸前高田市の出身。実家は佐々木家ともほど近い場所だった。11年3月の東日本大震災の大津波で被害を受けた。菅原も多くの親族を亡くした。「地元のいろいろな思いを背負って、頑張りたいです」と神妙な表情で話したこともある。
埼玉の強豪校にやって来て、練習についていけず辞めたくなったこともある。それでも「東北人の粘り強さで続けてこられました」と振り返る。何かいいことがあれば「○○さんのおかげですよ」と笑顔で感謝を伝えられる好青年だ。
物腰が低く、自己主張も少ないから、例えば井上朋也外野手(2年)からは「新チームが始まったころから、おれが引っ張っていくというより、誰かに付いていくような先輩だった」と見られていた。
岩手・一関市出身。小学校時代には大船渡の最速163キロ右腕・佐々木朗希投手とも対戦した。少年野球県大会の開会式で隣り合った。たくさん話し、たくさんいじったら「当時は自分、投手だったんですけれど、試合で特大の本塁打を打たれました」と笑う。佐々木も今の菅原の写真を見ただけで「菅原謙伸ですね」と分かるほど、印象に残る存在のようだ。
母・富久子さんは岩手・陸前高田市の出身。実家は佐々木家ともほど近い場所だった。11年3月の東日本大震災の大津波で被害を受けた。菅原も多くの親族を亡くした。「地元のいろいろな思いを背負って、頑張りたいです」と神妙な表情で話したこともある。
埼玉の強豪校にやって来て、練習についていけず辞めたくなったこともある。それでも「東北人の粘り強さで続けてこられました」と振り返る。何かいいことがあれば「○○さんのおかげですよ」と笑顔で感謝を伝えられる好青年だ。
物腰が低く、自己主張も少ないから、例えば井上朋也外野手(2年)からは「新チームが始まったころから、おれが引っ張っていくというより、誰かに付いていくような先輩だった」と見られていた。